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悲哀の胎動…side Lengfee…

 

 僕に出来る事。

 僕の力が及ばない事。



 気が付けば、全ては終わっていた。

 気が付けば、僕は悪い夢から覚めたようにラス・アラグルの離宮の自室のベッドの中にいた。

 本当に今までの事が全て夢のように。

 夢のように思うくらい、何事もない目覚めだった。

 ――いっそ夢であればと願うくらい。

 だって、そうでしょう?

 目の前で、己の失態でセラフィムが攫われたのだ。それも先王遺児のセイリオス様によって。亡くなられた筈のニタム様を伴われて。

 その後、セラフィムを救出したかと思えば突如現れた金の獣の魔物に兵が襲われて。

 その獣がまさか自国の王子であるなど――。

 しかし、その後僕は一体どうしたのだろう……?

 ある所を境に記憶がぼんやりと霞みがかっていて気持悪い。

 何が起きたのか、凄く曖昧だ。

 ただ、凄く息苦しかった気がする。

 でも、とても温かいもので守られていた気がする。

 ぼんやりとした記憶を必死に取り戻そうと、その先に靄がかかったようで定かではないけれど――……。

 一体、僕はどれだけ眠ったのだろう。

 窓から差し込む光の傾き具合で、昼前に差し掛かった頃だとは分かる。


「ああ、起きてたかい」


 しゃがれたハスキーな声が、ノックもなしに開かれた扉から飛び込んだ。


「お祖母様……」


 老いても尚、堂々と背筋を真っ直ぐに立つ彼女は、いつもきっちりと着こなす軍服を着崩して、白いシャツに将軍のみ着用を許された真紅の軍服パンツスタイルのラフな姿だ。いい加減に見えるが身なりは常に整えるこの人らしくない格好と、疲労の色が珍しい。


「具合はどうかね。おかしな所は? 痛みはないかい?」

「特には、何も……」


 痛みという言葉がやけに覚えがある気がしたけど、体はむしろ調子がいい程だ。

 その事を含めてベッドから出て見せると、祖母は少し安堵の顔で息を吐き出す。


「僕はどれだけ眠っていたのでしょう」

「何、一日くらいだ。状況を聞けば軽い方じゃないかね。それも嬢ちゃんの……セラフィムおかげだけど……」

「お祖母さま、それはどういう意味です?」


 耳にした言葉に、ふと引掛かりを感じた僕は祖母に尋ねた。

 そして祖母は何処か気遣わしげに口を開く――。



 * * * * *


「気付いたのか」


 駆け足で訪ねた先で、赤い瞳の少年が僕を認めると、それ以上気にかける様子もなく元の作業に戻る。


「シャナ様……」


 彼の名を呼び、僕は立ち尽くした。

 非常識だとは知りつつも、事の顛末をお祖母様から聞くや否や飛び込んだセラフィムの部屋。

 常人から見れば、そこは品の良い賓客用の寝室。

 だが、精霊師(ウィッカ)という‘薄いベールの向こう側の世界が見える瞳’を持つ僕には異様な世界だった。

 ひらひらと鼻先を霞める精霊達。

 この部屋の中心のベッド、その中で眠る少女を取り囲んで漂う精霊達がそこにいた。

 白いシーツの海に沈むように眠る少女、セラフィムを守りながら。


「彼女は……」

「まだ起きない。傷はもう悪くはない筈なんだ。出来うる限り、傷口も薄く小さく治療を施しもした。あとは体力を取り戻すだけなんだけど――」


 そう言って彼がセラフィムの額に触れる。

 撫でたそこから彼が癒しの精霊術(ウィス)を使っているのが僕には分かった。

 彼は僕と同じ精霊師ではあるが、その力の差はあまりにも大きい。

 例えば部屋中を漂う精霊達。

 上位ではないにせよ、それでも中位の精霊をまとめて複数、それも長時間使役し続ける事だけでも凄い技なのだ。

 それを平然とこなす人。

 姿を少年から、青年へと自由に変える事だって精霊師としての規格を越えているくらいだ。

 シャナ=ステラ・ミラ。“導きの星”ステラ・ミラはレオニス国王から与えられた称号だと伝え聞いている。

 先の戦でもそれは目覚ましい活躍を見せた、稀代の精霊師。

 幼い頃、精霊師を目指していた僕の憧れの存在だった人。

 それが突然戦場から逃亡し、消息を経ち、手配をかけられたと聞いた時は裏切られた気になって恨みもした。

 けれど改めてその力を目にした今に至っては、それでも尊敬を覚える存在であるのは確かな事だ。

 それに――それにだ。

 こうもセラフィムに親身になって治癒を施す彼が悪人に見えないのだから仕方がない。

 もっと憎らしい性格なら素直に恨みもしたが、なまじ年下の子供の姿も相俟ってしまうと分からなくなる。

 恨みたいのか、敬いたいのか。


「ところで、用があって来たんじゃないの?」


 どうするでもない、ただ突っ立っているだけの僕が鬱陶しかったのだろう。決まり文句のように、抑揚のない質問が僕を思惟から呼び戻す。

 そうであった。

 目にした光景に捕らわれ、当初の目的を忘れかけていた。

 しかし、セラフィムは――


「いつになれば目を覚ますのでしょうか」

「さあね。こればかりは彼女次第だから」


 誰とは言わずとも、それが誰かは彼にもすぐ分かる。

 僕らの視線を受けてもまだ眠り続ける少女。

 セラフィム――クドウ ヒナギク。

 どこにでもいそうな、普通の少女。

 正直、その平凡さに僕は侮っていた。

 いくら神話級の存在だとしても、彼女が確かにそうであると確証された訳でもない事もあり、僕は何処か少女を蔑ろにしていた。

 それが愚かだと今になって知るのだけれど。


「――お祖母様から聞きました。セラフィムが、……ヒナギク様が瀕死のわたくしを助けてくれたのだと」

「それでお礼でも言いに?」

「それと謝罪に。私が護衛の役に立てればこんな大事には至らなかった筈ですから……」

「それならわたくしの方が……」


 口を開きかけ、彼は黙ってしまう。

 少女を取り囲んでいた精霊の内の一人が、それを気遣うように少年に寄り添う。彼もそれに応えるよう指を添えて精霊の頬を撫でた。

 同じ精霊師でも、こうまで触れ合える者も珍しい。

 知れば知る程、この人は僕が足下にも及ばない方だと分かる。

 だから、自然とこんな質問が言えたのだろうか。

 まるで人間を超越した世界にいるような人だから――……。


「――僕は、わたくしはどうしたら貴方みたいに強くなれるのでしょうか」


 どうしたら彼のように卓越した術師になれるのだろう。

 宮廷精霊師という花形職に就いて、僕は驕っていたのかも知れない。

 人には視えないモノが視えるからと。

 人の力を越えた力が使えるからと。

 そのくせ結局の所、僕は何も出来なかったのだ。

 みすみすセラフィムを目の前で攫われた挙句、奪還の際にも行ったのは補佐のみ。

 実戦では全く前線に立つ事すら出来なかった。

 あの場ではセラフィムの護衛という名目で戦闘に加わらなかったけど、本当は命が惜しかったのだ。

 血に染まったそこに身を投じる事を恐れた。

 軍人の名家に生まれ、武功を上げる事を夢見ていた僕の現実がこれだ。

 甘かったのだ。

 現場を知らずに吠えるだけ。

 恐怖に立ち向かい、己を鼓舞する事も出来なかった。

 それでも……いや、だからこそせめて今出来る事を探したいのだ。


「わたくしに何が出来るでしょうか」


 縋る思いで尋ねる。

 少年は一瞬目を丸くして僕を見ると、眠る少女を一旦見下ろして再度僕へ向き直り難しい顔をした。


「君はアサドの事をどう思った?」

「――はい?」


 返って来たのは予測もしない話題。

 アサド様。

 どう思うかと問われれば、ほんの少し前までは戦で英雄と謳われた国の誇りであった。

 だけど今はどうだろう。

 あの理性を失った異形の姿を見て、僕は……。


「アサドをああしたのは僕だ」

「シャナ、様?」


 彼の言わんとする事が分からず、僕は当惑する。そんな僕を見定めると彼は悲しい笑みを浮かべた。悲しいけれど、それが初めての笑みだった。


「アサドには罪がない。裁かれるのは僕なんだ」


 “だから僕に生き方を教える事は出来ない”

 そう言って彼は居心地悪そうに少女からも目を反らす。


「――もし、君がアサドを恐れないでいてくれたのなら、彼についていて欲しい。本意でないにせよ、部下に手をかけた事を凄く悔いている筈なんだ。そんな彼を救ってくれるのは僕より君の方が適任だろう?」

「僕……いえ、わたくしがですか?」

「怖いかい?」

「いいえ!」


 きっぱりと言ったのは反射的だった。

 臆病者と思われたくないと見栄を張ったのか。

 ――違う。

 幼い頃から見ていたんだ。

 例えどのような姿で何をしようと、本来のアサド様は昔からお優しく、僕にとっても兄のような人だった。

 僕は、その優しさを疑いはしない。


「ですが、わたくしで力になれるでしょうか」

 不安を吐露すれば少年は首を横に振った。

「君だから力になれると思う。むしろ君や、兵達、命を分かつ人でなければ納得出来ないだろうよ」

「――そうかも知れません」


 言われた事を胸の内で反芻し、考えてみた。

 確かに、言い方は悪いが事の元凶である彼の言葉では足りないのかも知れない。むしろ、遠いが近い僕達にこそ力になれる事があるのかも。


「それでは、アサド様に会いに行きます」


 シャナ様は“そうしろ”とは言葉で言わず、ただ頷いて僕を見送る。


「あ、ヒナギク様へのお礼は、後日、お目覚めになられてから改めさせて頂きます」

「多分、そんな気遣われ方は本人が嫌がるだろうから、普通にお見舞いとして来たらいいと思うよ」

「――……承知しました」



 女性の寝室に長いは失礼だと、話も早々に切り上げ一礼して僕は部屋を後にする。

 それにしても、驚いた。

 何となく、彼はシャルーン嬢に扮していた時にはセラフィムと距離を置いているように感じたから、あのように彼女を考えての物言いをするとは思っていなかった。

 少し不意をつかれて反応が遅れたが、僕のちょっとした好奇心を含んだ視線に彼は気付いただろうか。

 もしかしたら、と思う。

 でも、彼女はアサド様の――。

 ――いや。

 今はこんな俗っぽい詮索をするべきではないんだ。

 だけど、それでも、何故だか妙に気にかかる。

 それは、多分、彼もアサド様同様に救いを伸べる手が必要と感じたからだろう。

 もし、仮に、この想像がそうだとしたら、あの悲しそう少年は誰が救えるのか。

 なんとなく、想像でしかないけれど、彼の悲しさは枯れ井戸の底で足下から滲み出した水に静かに溺れるような感じに似ている気がする。

 分かりにくい例えに自分の文才を恨むが、触れたら音もなく消えそうな、そんな危うさを感じるのだ。


「けれど気付いた所で多分僕ではどうにも――……」


 ふと足を止め、閉じられたばかりの扉を、その中の向こうの人を思う。

 人の悲しさは人の温もりでしか埋められない。どんなに沢山の精霊に囲まれても、空しさを全て埋める事は出来ない筈なんだ。

 だから、彼を救える人。

 彼の欠けた心を埋められる人が早く現れたらいいのに。

 アサド様の事、ヒナギク様の事を思いながら、僕はもう一人について祈らずにはいられなかった。

 それでも僕は不安の種に目を瞑り、別の一歩へ歩み出す。


 

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