15.黎明の揺り籠
目の前の光景に対し白くなる頭の中で、雛菊は「狼男」という言葉を思い出していた。
幼稚な喩えかもしれないが、記憶中枢に文句を言っても仕方がない。
どこか余裕そうな想像とは裏腹に、雛菊は目にしたものをどう受け止めればいいのか分からずにただ混乱していた。
――セイリオスの手から逃れた直後、上空からアサドの現状を見て急いで地上に戻った。現場へと走るシャナに振り切られまいと無我夢中で追い掛け、とにかく雛菊も続いた。
そして、その瞬間を雛菊は目撃したのだ。血糊で服が肌に張り付く程の傷を負ったアサドの姿を。
雛菊が見た“人の姿のアサド”はそれが一瞬。
血糊の生々しさに目眩を覚える間もないくらい。否、あまりの衝撃に記憶が飛んでしまっているのかも知れない。その証拠に、気付けば最早アサドは異形の者だった。
全身が金色の体毛に覆われた獣。
鋭い牙と爪、吊り上がった瞳が妖しく光り、目許や頬は真紅の隈取りのものが浮き出し、怒りのような表情が強調される。喉を震わせる唸り声も到底人間のモノとは思えない重低音。
ただその獣がアサドだという名残なのか、猫のように尖った耳にはピアス。鎖骨から両腕にかけた刺青が本人と明かしている。
「――アサド君?」
情けなく震えて掠れた声。それでも彼には届いていたのだろう。耳をぴくりとこちらに傾け、追って視線が雛菊を捕らえた。
引っ掻いたように細く皸の入った爬虫類にも似た鋭い眼差し。感情のない無機質な瞳に雛菊は居竦まる。
怯える少女を視線に捕らえた獣がゆっくりと足を一歩踏み出したその時だ。
突然巻き起こった風。獣のアサドが、腕を槍のように薙いだのだ。
その衝撃で振り飛ばされたのは、覆面で顔を隠した男だった。手には弓矢。これでアサドを討とうとして反撃を食らったのだろう。
地面に体を打ち付け呻く男を見定めると、更にアサドは爪を立てて腕を振り上げた。その後を想像するには難くない。
雛菊は叫ぶようにアサドの名を呼んだ。しかし振り下ろす爪は止まらない。止めようがない。
これから起こる惨劇に雛菊は目を瞑った。
だが、想像した断末魔は聞こえず、恐る恐る目を開くとアサドの標的は別へと移る。そこには右手をアサドへと翳していたシャナがいた。
雛菊は見ていなかったので確かな事は定かではないが、シャナの力が覆面の男へのとどめを邪魔したのであろう。アサドは牙を向きだし、怒りを露わに低く唸る。
自分に向けられた怒りを受け止め、シャナは眉を顰めてためらいがちに口を開いた。
「――アサド……」
名を呼んでも正体を取り戻す様子がないアサドに、シャナは静かに腰を落とした。
まるで一匹の獣に戦いを挑むような構えだ。
「シャナ……何するの?」
胸を騒がせる嫌な予感に、雛菊は不安げに今は青年を呼ぶ。
杞憂であればいい。もし想像が正しければ、彼は傷を負った体で、正気ではない巨大な一匹の獣へと立ち向かうつもりなのだ。
形は違えど、獣はアサド。その二人が傷付け合うのは見たくない。
「シャナ、相手はアサド君だよ?」
「アサドだからこそ僕が責任を取らないと……」
それでもシャナは他に方法はないのだと言うように、残念そうに呟いた。
「あいつをあんな化物に変えたのは僕なんだから」
小さな声の告白に、雛菊は耳を疑う。
「……シャナが?」
それはどういう意味なのか、どういう理由があっての事なのか。
今すぐ問い質したかったが、そんな余裕はない。殺気立ったアサドが今にもシャナの隙を突こうと、両腕を地につけて頭を低くする獣独自の構えを取っていた。
「ランフィー、巻き添えを食わないようにヒナギクを守れよ」
アサドに集中したかったシャナが早口で捲し立てる。
先程、ランフィーが此処に到着したのを雛菊は目の端で捕らえて知ってはいたが、彼も状況が把握仕切れていない様子。それでも緊急時の優先順位を承知しているのだろう。少年は雛菊の腕を取ると、半ば強引に木の影へと引き寄せた。
「や、ランフィー君離して!」
「なりません。巻き添えを食らいたいんですか」
状況が分からずとも与えられた命を全うしようとする様は一見頼もしく映るが、雛菊の腕を掴むランフィーの手は震えていた。それを情けないと思うのは簡単だろうが、雛菊もその気持は十分理解出来た。
一体誰が好き好んで目の前の血塗れた世界に身を投じたがるだろうか。
人の形ににも似た金色の獣が吠えて牙を立てる。
それに青年が応戦し、火花が散る。
その足下には血の池に果てた人や、今にも後を辿りそうな人の数。
雛菊が初めて目にする戦闘であり、一種の戦争だった。
飛び込めば自分も地に伏せる者達に続くかも知れない。
それを分かっていて飛び込む事は愚行に等しい。だからこそランフィーは不明瞭なこの状況の中で闇雲に飛び込むより、与えられた事に徹するのだ。
理解出来る選択だが、それでも雛菊は危険を冒しても二人を止めたい衝動が止まない。
歯痒さに唇を噛み、前を見据えた。
炎で生草の焼ける嫌な焦げ匂いや鉄の異臭に鼻に皺が寄せる。
獣の姿をしたアサドがシャナに向けて爪を振り下ろし、シャナが手を翳して光を放って弾いた。時折シャナが顔を歪めるのは、雛菊の救出の際に負った傷の所為だろう。
それでも尚シャナは立ち、戦う。
アサドを止める為に。アサドの爪から雛菊達を守る為に。
今日だけに何度も味わった苦い感情が、再び雛菊の胸を焦がす。
無力さに嘆いた囚われの時間。
「あ……」
しかし、雛菊は思い出した。無我夢中だったのと、アサドの衝撃に忘れかけていた事である。
「そうだよ、ランフィー君願って!」
「はい?」
「いいからっ! この場を治めたいでしょうっ!?」
問い質しげな態度がもどかしく、雛菊は語気を荒げる。
あまりの自覚のなさに自分でも呆れた。ほんの少し前に、初めてセラフィムとしての力を使ったという事がすっかり頭から零れていたのだ。
誰かの切なる願いを、セラフィムの意思に反しなければ事象を覆す力。
ランフィーがそう願ってくれれば、何とかなるかも知れない。
「ランフィー君っ」
自分の願いを願って貰う。
そんなに都合よく行くかは分からないが、それでも雛菊はそれしか考えつかなかった。
「――分かりました」
必死の形相の雛菊に、ランフィーも何かを感じ取ったのだろう。言い渋るのをやめ、息を吐き出した。
「終わったら、事情を説明して下さいね」
「うん」
少し落ち着きを取り戻した雛菊が頷いた時――向かい合っていた筈のランフィーが膝を追って沈んだ。
「余計な事、しないで貰えますかね」
聞き知った声がランフィーの背後から聞こえた。雛菊はその正体を確認するよりも身を屈めてランフィーに触れる。
「ランフィー君、しっかりしてっ」
必死に背中を支えて抱き上げた時、右手に滑り気のあるものがベタリと付いた。
血だ。
慌てて背中を覆うマントを捲ると、ジワジワとおびただしい血液が滲み出て来る。
「この犬は小煩く吠えるだろうからね、黙らせたんですよ」
何とはなしに軽く言ってのけた声の主は、不気味なくらいにこやかに微笑をたたえる。
「シィリー君……」
雛菊は初めて人を憎いと思いながらその名を呼んだ。
逃げた雛菊を追って此処まで降りて来たのだろう。
あんなに苦労して逃げて来たのに、また捕らえられのかと思うと自然と雛菊も身構える。
「ヒナギクッ」
だがセイリオスの出現に気付いたシャナがアサドの牙を躱し、急いで少女と青年の間に割って入った。
「シャナ!」
「怪我は?」
「ない。でもランフィー君が……」
泣くまいと思いながらも、血に濡れた体に触れた雛菊の声は震える。シャナは雛菊とランフィーを一瞥し、この状況で歪つに顔を綻ばせるセイリオスを睨んだ。
「君もしつこいな」
「そのまま言葉を返します。ワタシはヒナと話がしたいんですよ」
「カタカネスに堕ちた君と話す事は何もないよ」
吐き捨てて、何かに気付いたシャナがランフィーを抱える雛菊ごと持ち上げてこの場を跳躍して離れた。直後、先程まで踏み締めていた地面がえぐれ、細かい礫が肌を叩く。
アサドだった。
「ああくそっ」
舌打ちし、シャナはアサドに向き直る。
「ペットのしつけは飼い主の責任ですよ」
「黙れ!」
横から口を挟むセイリオスに怒鳴るが、視線はアサドからも外せなかった。
しかしアサドだけに気をかける事も出来ず、いつセイリオスが雛菊に何を仕掛けるか分からない。それに今は姿が見えないが、ニタムの気配にも気を止めないといけない。
「シャナ……」
雛菊は不安げにシャナを見上げた。
「大丈夫。君だけでも絶対守るから」
きゅっと唇を噛み締めたシャナの言葉に、雛菊は余計に胸が痛む。
守られてばかりの不甲斐ない自分が嫌になる。
「シャナ、私に願えばどうにかなるかも……」
元はランフィーに頼むつもりだったものをシャナに提案するも、彼は首を縦に振らなかった。
「そういう事に君の力は使うべきでない」
「でもっ……」
雛菊が更に訴えようとすると、突然セイリオスが堰を切るように声をあげて笑った。
「そんな事を言ってもいいんですか。あのケダモノの解呪も出来ずに不様に失踪した話を聞きましたが?」
「喧しい。アサドの責は全て僕の責だ。お前はヒナギクに何をさせたい。何を企む」
「さぁ? そんな事より、さっさとアサド兄様を沈めるなり何なりしないと、その坊やが長くは持たないんじゃないですか」
顎で指すのは雛菊の腕の中のランフィー。
怪我が深いのか、苦悶の表情が見て取れる。出血もしているし、なるべく早めに治療をした方がいいのだがまだ少しの猶予はある筈だとシャナは見ていたのかもしてないが、雛菊は違った。
「シャナ、ランフィー君が……っ」
震える唇はランフィーと同じくらい血の気が引いていくのを感じる。
ランフィーに注意を凝らせば、微かに風が隙間を通り抜けるような呼吸音。それも酷く弱々しくなっており、唇も青紫に染められて行く。
「気管が……?」
「肺の方を刺してます。もう間もなく死ぬんじゃないですか」
「そんな……っ」
悲鳴のように声を漏らし、ランフィーを更に抱き抱えてまるで汚いものでも見るようにセイリオスを睨む。
「――人殺し」
「ヒナの口からそういう言葉も出るのですね」
非難の言葉を心地良さそうに聞き入れるが、ふと視線を奥にやると不快そうにセイリオスはさっとこの場から間を開けた。
事に気が付いたシャナがすぐに息を飲んで背中を丸めると、雛菊を包み込む行動に移る。
その後、空を斬る轟音と共に体が浮いた。
シャナが低く唸る。地面に叩き付けられる瞬間に雛菊とランフィーを傷付けないよう自らが盾となって庇ってくれたのだ。
「シャナッ!」
雛菊が体を起こし、叫んで呼んでもシャナの声は返らない。さっきは何とか躱したアサドの爪を、今度はセイリオスに気を取られ過ぎて躱せなかったみたいだ。
雛菊はシャナのお陰で痛みを感じずに済んだ。ランフィーは無事では済まない体だが、アサドに襲われて負った傷はなさそうである。その分を食らったシャナは一人地に伏せて呻いていた。雛菊に見える背中に、四本の裂傷が皸のように赤く滲む。
雛菊はシャナの名を呼ぼうと息を吸うが、自分にかかる巨大な影に吐き出す息を忘れ、詰まった。
恐る恐る見上げると、金色の体毛の獣。
「アサド君……」
間近で初めて異形の彼を目にして、雛菊はぼんやりと呟いた。
獰猛に人を襲い、シャナを傷付けた獣なのに不思議と我を見失うほどの恐怖はなかった。彼がシャナにしたように襲いはしないからだろうか。
金色の獣。左方に燃え上がる火の手で若干赤く染まっても見えるが、それだけでないと気が付く。よく見れば、彼の体は人の姿で貫かれた傷もそのままに、あちこちが血に濡れていた。
胸に大きな傷を抱え、更に人から与えられた傷だろうか。
無数の傷が実に痛々しい。
シャナはなるべく傷付けないように交戦していた気がする。だとしたら、彼の姿に怯えた兵から受けた傷かも知れない。
「――自分を守る為に暴れてたの……?」
この姿のアサドに言葉が通じるか分からない。何となく思った事を口にしただけなのだが、それに答えるようにアサドは鼻先を雛菊の頬に擦り寄せてゆっくりと膝を付いた。
獣の匂いと血の匂いが混じる。酷い怪我なのがよく分かる。
「見事なものですね」
感嘆とセイリオスが漏らす。見やれば、こちらから距離を置いて、セイリオスの底冷えする瞳が、何かを期待して雛菊を見詰め返していた。
「聞いた話ですが、不死の呪を受けた彼は致命傷を負った場合、傷が癒えるまで獣になるそうですよ。自分に害なす者を排除した上でとの事ですけど――」
張り付いた嫌な笑みが雛菊の背筋をなぞる。
「して、貴方はどうするのですか」
「どうって……」
まるで人を試すような言葉に雛菊は戸惑う。
膝には瀕死のランフィー、距離を置いた所にシャナが倒れ、目の前には息も荒い血塗れのアサド。他にも今にも炎に飲まれそうな中に、倒れた兵士もいる。彼らに息があるのかまでは雛菊には分からなかった。
そこで傷付いた者が雛菊の為に倒れているのは確かだ。
「誰の所為でこんな痛みを背負うのでしょう」
「分かってるよっ」
自分でも驚くくらいヒステリックな声を上げ、雛菊はセイリオスを睨む。
今回の惨事が全て、セラフィムの雛菊を巡っての諍いが始まりだ。それは胸が痛い程分かっている。分かってはいるけれど、だからどうしたらいいのだろう。
セイリオスはきっと雛菊の力を確認する事を期待している。しかし、当の力の使い方は雛菊の自由になるかも分からない。
それでも。
それでも、今、必要な事が何なのか知っている。
「さぁ、セラフィム――」
セイリオスの甘く囁く声が癇に触ったのか、アサドが低く唸る。
「いいよ、アサド君」
雛菊がなだめるとアサドはすぐに大人しくなった。
自分が彼を制する事が出来るのは、セラフィムの力か、それともアサドの情から来る自制なのかは分からないが、先程のように暴れ回る事がないだけ安堵する。
雛菊は視線を移し、シャナを見た。辛うじて上半身を肘で支えた青年が不安そうにこちらを見ている。
意識があるようで安心した。
「私が……私が何とかするからね」
雛菊は胸を撫で下ろして微笑んだ。シャナが何か言っているようだが、それはもう聞こえなかった。
すっと瞼を伏せると、不思議と全ての気配が遠くなる。
塔の上から飛び下りる感覚を思い出した。
回りの動きが水中を漂うようにゆっくりになり、意識が体から引き剥がされていくような感覚。
見下ろすと膝の上で青褪めるランフィー。
息苦しい中で、必死に空気を掴み取ろうと喘いでいる。
願いは、掬い取るように分かった。
ただ一つの強い願い。
雛菊は誘われるままに右手をランフィーの胸に手を当てる。
テレビや漫画、ゲームの知識でいくと、特殊な力を使う場合は光が溢れたり呪文が必要なのだと思っていた。だけど実際は――雛菊の力に関してはそうでもないらしい。
分かる変化はランフィーに触れて僅かに掌が温かくなる事と、その後に腰まで水に浸かったような倦怠感が残るくらいだ。
どれだけ意識を集中させただろうか。雛菊は弾けるような拍手の音に我に返る。
「素晴らしい力ですよ、ヒナ。予想以上です」
セイリオスは満面の顔で笑壺に入っていた。その喜びようからランフィーが無事に助かったのだと雛菊は悟る。
ほっとしたのも束の間、セイリオスは何かを意味して顎で屋敷の方を指した。
「死者も蘇る有能ぶり。最初にしては予想以上の力でした」
まるで自分の事のように誇らしげなセイリオスの言葉に、雛菊は愕然とする。
アサドによって傷付いた兵士らは、敵味方関係なく傷も癒えている。更には死者をも蘇らせる事まで成し遂げたという。
この力はどこまで有効なのか。生きたいと言う願いを汲み取っただけなのに予想以上の効果だ。
これがセラフィムの力かと思うと、与えられた力に畏怖の念すら覚える。
「――これを全部私が? でも……」
雛菊は狼狽えてアサドを見た。アサドは未だ獣のままだった。
「獣には人語は通じないのでは?」
そう言って吹き出すセイリオスの笑い声は、やけに癇に触った。
アサドは落ち着いたもので、セイリオスの声など気にも止めない。けれど雛菊によって意識を取り戻したか、何とか雛菊の元へ寄ろうとシャナが僅かに動けば牽制して唸る。
これ以上は近付くなという事だろう。
動けばまた手がつけられなくなる。
我を失ったアサドを抑える事の困難さを知るシャナは、そのまま固唾を飲むしかない。
だが、他の者はそうではなかった。
「ば、化物ー―っ!」
目覚めた兵士らの内の誰かの野太い叫び声。それはアサドに向けて発せられ、途端に周囲は騒然となる。
痛みから解放された兵達が、突如現れた異形の獣を前に一同混乱に落ちたのだ。
恐怖のあまりそこから逃げてくれた方がどんなにいいだろうかと、雛菊は気を揉むしかない。
(お願いだからそのまま逃げて)
アサドを刺激する事が危険だと感じる雛菊は、祈る思いで兵士らを見つめるが通じなかった。
「この化物がっ――」
立ちはだかる者を前にしての逃亡は、屈強な兵士の誇りに傷が付くのかも知れない。
風を切り、矢羽が唸りながらアサドの肩を突き刺した。
「アサド君!」
すかさず矢を放った兵士に牙を剥いたアサドに雛菊は身を乗り出す。
「――駄目!」
己に害なすと見なした相手を襲う気だったのだろう。アサドの頭が僅かに前に低く下がった瞬間、雛菊は彼の首にしがみ着く。
「駄目だよアサド君! あの人達は味方だよっ」
「よせっ、危険だヒナギクッ!」
シャナの必死の声が耳に届くが、彼を見る余裕はない。
「セラフィム、そいつから離れて下さいっ」
「この人は違うのっ」
雛菊に向けて声を張る兵に対し、首を振る。
なのに誰も剣を納める者はいない。
緊迫する空気に触発され、低く唸るアサドを雛菊が静かに宥めるが現状が良くなる訳ではない。
それに拍車をかけるようにセイリオスが号令をかける。
「怖じ気付いてるアーシェガルドの兵より先にセラフィムを捕縛なさい!」
「セイリオス! いい加減にしないかっ」
煽るセイリオスに向かってシャナが吠える。
駆り立てられたヨシュム兵の怒号がそれをかき消す。
痺れを切らしたシャナは再び足を踏み出し、また雛菊へと向き直した。
「ヒナギクッ、頼むからあまり無茶をするな!」
「でも! ――シャナッ!」
盾になる少女を構わずに飛んで来る白刃をアサドが弾き返し、そのまま歯向う者を裂こうとする爪を雛菊が取り押さえる。
そんな力ずくの必死の攻防の中、雛菊は泣き出す一歩手前の悲鳴でシャナにすがった。
やはりシャナが近付こうとするとアサドは酷く神経質に唸る。こと、シャナに対してはそれが顕著だ。
「相棒に一番警戒されるなんて、大したものですね」
その様子をセイリオスは愉快気に笑うが、シャナは相手にしない。
「お前らも手を出すな!」
尚もアサドに手を出そうとする両国の兵に、噛み付くようにシャナは怒鳴る。
迂闊に近付かない所は懸命な判断だが、それも長くは持たないだろう。
アサドに気を許された雛菊が盾となるからの今だが、じり貧の状況に好転の兆しはない。
威嚇で放つ矢がドレスを掠る。
雛菊を傷付けてでも化物を止める動きに発展するのは、多分もう間もないだろう。
「アサド君……っ」
祈るように天へと立つ尖った耳に何度も呼び掛ける。
獣の匂いのする頭を抱き締めたら、肩口から突き出た矢羽が目に入った。
回復力が早いからだろう。
肉に食い込んだ矢尻が、治癒しようとする筋肉に締め付けられ、その痛みにアサドは短い呼吸で喘いでいた。
「酷い……」
呟いて雛菊は涙で滲む視界を拭う。
「ごめんね。我慢して」
小さく先に言うと、思い切って勢いよく矢を抜いた。
その拍子にアサドが一際大きく吠える。
大気が震え、風が唸る。
それでも矢を抜かれる痛みの中でも、アサドは雛菊を傷付けようとはしなかった。
雛菊はそのまま抜いた矢を地面に投げ捨てると、両国の兵士を睨めつけた。
「ほら! 敵意さえ持たなければこの人は誰も傷付けないでしょうっ!? いい加減、その危ないのを下ろしなさいっ」
一喝し、肩を怒らせた雛菊は、更にその様子を傍観していた隻眼の青年も睨む。
「シィリー君も! もういいでしょう? 私の事なんか諦めてよ」
「嫌です」
「シィリー君!」
ますます泣き出しそうな雛菊の叫びをセイリオスは軽くいなし、横目で機を窺うシャナを捕らえると気怠く息を吐いた。
「夜明けも近い。遊ぶ時間もこれまでですね」
そう言ってセイリオスは合図するように指を鳴らした。
「――ニタム」
「ただいま此所に……」
するりと空間を割るように突然、菫色の髪の少女がふわりと雛菊の背後の宙に現れる。
月のような静かな美しさを湛える少女は、感情を一切閉じた瞳で雛菊を写した。
白い腕が雛菊へと延びる。
「きゃっ」
見た目のか細い腕とは裏腹に、雛菊を掴む力は食い込むくらい痛い。
「セラフィム、セイリオス様と一緒に来て貰います」
ぐっと腕を捻られながら後ろに引っ張られ、アサドから剥がされた。
「ヒナギクッ」
シャナの声を耳に、雛菊は穴に飲まれる感覚に陥る。
何度足を引っ張れば気がすむのか。
自分よりも華奢な少女すら振り切れない己が歯痒い。
助けに入ろうとしたシャナが、セイリオスの反撃に合っているのが見えた。
同時に別の影が目の端に入る。
光る金色の影。
アサドの、
アサドの腕が延びる。
雛菊を助けようと。
ニタムを貫こうと。
鋭い爪の切っ先がニタムに向かう。
咄嗟に雛菊は体を浮かせた。
振り払えないと思っていたニタムの腕を強引にほどく。
アサドの胸を足で蹴り上げた反動で、金色の腕の軌道に飛び込んだ。
深い事は考えていない。
アサドにニタムを傷付けさせたくなかった。
ニタムが傀儡だとか、生前の彼女とは別の存在だとかは全く頭にない。
アサドにニタムを――妹を傷付けさせたくなかった。
彼がどんなに優しいか知っているから。
たとえ自我を忘失したとしても、彼なら妹を傷付けた自分を許しはしないだろう。
そう思ったら、勝手に体が二人の間に割り込んでいた。
雛菊の姿を捉えたアサドが、突き出した腕を止めようとするが止まらない。
太く、硬い、尖った爪先は、少女のやわな右肩に突き立つ。
今までに感じた事のない熱を帯びた痛みに、体が反り上がった。
じんわり熱くなる目でシャナを見ると、口を大きく開いて何かを言っている。
しかし声は聞こえない。
痛みで叫ぶ自分の声で音が掻き消されている事に気付けなかった。
まるで右肩から熱い針が全身を走るような激痛。
息が切れ、目が霞む。
見下ろすと、厳しかった獣のアサドの瞳が幾分か和らいでいる気がした。
動揺しているのか。
アサドはニタムの腕から雛菊を取り返すと、自身の爪を引き抜く。
その痛みに雛菊は更に呻くが、零れた血を顔に受けたアサドを不安にさせないように自然と微笑んでいた。
「だいじょうぶ。あまり、いたくないから」
嘘ではない。
気がついたら痛みよりも痺れの方が増して、感覚が鈍っているのだ。
だんだん意識の糸が緩くなっていくのが雛菊自身にも分かった。
その切れそうな糸に必死にしがみつく少女に、怖々とアサドは手を伸ばす。
気遣わしげに頬に触れる指に、雛菊は傾いて寄り掛かって応えた。
「ヒ、ナ……」
低くしゃがれた声の呼び掛けに、雛菊は更に頬を緩める。
「あさどくん……」
どうしても物憂い声になってしまうが、それでも動く左手で気丈にアサドを抱き締めた。
「あんしんして……。あなたがつけたきずは、ぜんぶわたしがなおすから、ね?」
「――……ああ」
泣き出しそうに、震える声が少女を抱き返す。
ふわふわとした腕の中で、ゆるゆると変化が起きるのが分かった。
抱き上げられていた体が低くなる。
抱きすくめる腕が人の肌の滑らかさになる。
獣臭さの取れた、柔らかい豊かな稲穂色の髪を掬い撫で、雛菊は目を細めた。
アサドの肩から覗く、薄く白い一条の光。
今日を告げる、黎明の空。
生まれたままの姿のアサドを抱き締める。
雛菊より頭二つ近く大きい筈の青年は、一気に張り詰めたものが抜けたように眠りに落ちた。
赤ん坊のように寝息を立てるアサドを、満身創痍の体で何とか支えるが、長くは持たない雛菊を更に背中から支えたのは、赤い瞳の青年だった。
「しゃ……な」
「黙って。もう誰の邪魔も入らないから」
「しぃりーく……」
「言うこと聞いて黙りなってば。彼らは消えたよ。陽の下では生きられないからね、粘り勝ちだ」
言葉を遮り、極力雛菊の負担にならないよう同じ目線に屈んで、シャナは羽織ったマントを少女越しにアサドへとかける。
「君も眠りなよ。あとは僕が引き受けるから」
ふわりと胸の上に回されたシャナの温もりに、張り詰めた緊張の糸がふつりと切れた雛菊。
朱に染まる世界の中、何か心に染みるものを噛み締めた。
長い夜の終り、浅い黄みの赤い光が体に染み入る。




