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シャナと花のバラッド  作者: 藤和葵
第三章・玉響に咲く花
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13.願う


 その者はこの部屋唯一の窓辺に立っていた。

 背中から受ける海風によって身に纏うマントがはためいている。月の逆光を浴びている所為で細かな表情までは分からない。

 いくら姿が大人になっていようが、それでも燃えるような真っ赤な瞳の君を雛菊は忘れる筈もなかった。


「シャ、ナァ……」


 呼び掛けた声は思いの他弱々しく掠れた音になってしまった。それでも呼ばれたシャナは雛菊の方を向き、和ませるようにほんの少しだけ口許を緩めた。


「もう大丈夫だから安心して」


 こんな時に限ってどうして優しい顔をするのか。嬉しくてほっとして涙を滲ませながら雛菊はうんと小さく頷く。


「さぁ、セイリオス――ヒナギクを返して貰いに来たよ」


 低い声が冷たくセイリオスに問う。その声は雛菊は過去に一度しか耳にした事がないが、それでもこんなに安心出来るものはないと心底思った。


「邪魔、しないで下さいませんか。“風の王”(ウィンドゥル)」

「戦場の通り名で僕を呼ぶな! お前はさっさとヒナギクから離れろっ」


 怒号と共に、突如彼を中心に風が渦巻いた。狭い室内では更に威力を増し、その力にセイリオスが怯む。その瞬間をシャナは見逃さなかった。

 僅かな隙を埋め、瞬く間に雛菊の体を掬い取って抱き上げた。


「ちくしょう! セラフィムを返せっ」

「誰が。返すも返さないも居場所を決めるのはヒナギクだ。彼女はお前を受け入れたのか」

「受け入れる所だった! それをお前が邪魔したんだっ」


 形振を忘れたセイリオスの狂気を帯びた悲鳴から逃れ、すがるように雛菊はシャナの胸元にしがみつく。その様子にシャナはほくそ笑んだ。


「邪魔か。彼女はそうは思っていないみたいだけどね」

「黙れっ!」


 叫び、セイリオスの手から青く冷たい炎の塊が飛び出す。その火の玉をシャナは意ともせずマントを翻して容易に掻き消した。


「無駄だって。大人しく拘束されなよ」


 得意そうに喋るシャナに、歴然とした力を見せ付けられたセイリオスが憎々しげに唇を噛んだ。

 状況は優勢になったかと思った矢先、張詰めた空気に飛込む鉄製の扉が勢いよく開く音が飛び込む。


「セイリオス様、アーシェガルドからの追手が。急いでセラフィムを連れて――」


 駆け付けて足を踏み入れたのはニタム。既に部屋にも招かれざる来客がいると知ると、素早くシャナへ戦闘の構えを取る。


「セイリオス様、お怪我は」

「ない」


 主の身を案じながらニタムはシャナを強く睨む。菫色の不思議な瞳を見返してシャナは尋ねた。


「プリンシパティウスのニタム。歯向かうなら応じるけど、その前に質問だ。君にニタムの意識はあるかい?」

「……微かな断片的なものは……ですが、記憶にもなりませんし。私は、セイリオス様の為に咲く花です」

「そうか……残念だよ」


 言葉とは裏腹に確証を得た顔で呟いた。そして、そっと雛菊に耳打をする。


「逃げるよ」


 言うが早いかシャナが元来た窓へと雛菊を抱いたまま走る。


「ニタム!」


 セイリオスの号令に間髪入れずにニタムも動き出す。

 振りかざしたのは柄の長い矛。

 表情のない少女は刹那に間合いを詰め、素早く振り上げた。


「――くっ」


 咄嗟にシャナも応戦し、向かう切っ先に手をかざす。


「セラフィム、今です」


 その言葉は一瞬だった。


 何が起こったか雛菊に考える間はない。

 セイリオスの言葉が雛菊の思考を奪った。

 その時僅かの意識の遮断の後、これが彼が言っていた牙による支配だとは気付く。

 気づいた頃にはもう遅い。

 ニタムが矛を振り下ろし、シャナが精霊術で応戦しようと手をかざすその手を雛菊が掴んで止めるとどうなるのか。どうなってしまうのか気づいた頃には手遅れだ。体は命じられるがままに動いている。

 正気に返り、反撃を封じられたシャナは成す術もなく肩に傷を負い、倒れた。

 その拍子に体を手放され、先に床に着いた雛菊は目の前に広がる鮮血には堪らずに叫んだ。


「シャナッ!」


 蹲るシャナに動きがなく、雛菊はより焦る。


「シャナ、シャナ、シャナッ! やだ、死んじゃやだ。ごめんなさい、私が腕を掴んだから!」


 泣いて、掠れる声で倒れる青年に寄り添おうと体を引きずる雛菊。だが、触れる前にセイリオスの腕の中にまた囚われてしまった。


「残念。君のシャナは敗れてしまった。見てごらん、今にニタムがとどめを刺すから」

「やだ! お願いシィリー君、やめて!」


 みっともなくても構わない。抱きすくめるセイリオスにすがりついて必死に命乞いをする。


(私があの時にシャナの手を止めなければ……ううん、そもそも無謀にもお城について行くと言わなければこんな事にはならなかったのに……)


 何度後悔しても足らない程、無力さが歯痒かった。自分自身を憎いとさえ思えた。


(力が欲しい。今すぐシャナを助けられる程の力を)


 しかしどんなに強く願っても、現状はセイリオスの腕すらほどけない。

 見てる事しか出来ない。

 血が滲むくらい唇を噛んで、雛菊は今にもシャナの心臓を貫きそうなニタムの矛を睨んだ。


「衝けっ」


 セイリオスの合図で容赦なくニタムが腕を振り下ろす。


「――テルミドゥレ」


 切っ先が届く手前でシャナが唱えた。

 瞬間、シャナを中心に熱風が渦巻き、ニタムが吹き飛ばされる。

 そして、目も眩むような閃光の後は鼓膜を震わせる爆音が響いた。


「きゃあっ」

「くそっ」


 口々に雛菊とセイリオスが叫ぶ。

 立ち上がる粉塵。強くなった風と、大きな鳥の声。

 視力を些か奪った閃光の効果も薄れた頃、雛菊は目を凝らして驚いた。

 目に飛込んだのは、半壊となった塔の壁。

 窓の辺りを中心に、天井の空まで見渡せるぐらい部屋と外の境界は爆発によって取り除かれていた。

 そしてその上空で待ち構えていたのは、闇夜にも生える純白の翼をはためかせていた大きな鳥。


「シルフィー!」


 見えた一縷の希望に雛菊は口許を緩めた。

 彼女の翼があれば天にそびえる此処からも脱出が出来る。幸い、さっきの爆発の影響でセイリオスの拘束も破れた。


「ヒナギク、時間がない。夜が明けたら東の援軍が来てしまう。逃げるよっ」


 シャナが早口で捲し立てる。思ったより深く刺され、血に染まる肩を押さえながら余裕とは言えない表情だ。

 此処は自分の足で彼の元へ行かなければと悟った雛菊は、長いスカートをたくしあげて足に力を入れる。

 大丈夫。立ち上がれた。走れる。

 自分の足を確かめて、雛菊はこちらに手を伸ばすシャナの手に自らの手を伸ばす。


「セラフィム行くんじゃない!」


 セイリオスが激昂した。けれど先程の衝撃で吹飛ばされた時に体を打ち付けたのだろう。頭から血を流し、よろよろと立ち上がるセイリオスの手を雛菊は難なく交わす。

 シルフィーの背に飛び乗ったシャナが手を伸ばす。後はその手を取ればいいだけ――の、筈だった。


「いけませんっ」


 一番間近で熱風を受けて吹飛ばされたボロボロのニタムが渾身の力を込めて矛を投げた。

 その切っ先がシルフィーの翼を貫いた。

 甲高い鳴き声が鼓膜を震わせる。

 痛みに暴れるシルフィーが起こす突風が雛菊の足を阻んだ。

 そのままシルフィーは力の出ない翼を引きずるように地に墜ちて行く。


「シャナーッ!」


 喉がはち切れんばかりに雛菊は叫んだ。

 シルフィーは何とか堪えるように塔より少し下の所を彷徨って羽ばたいていたが、長くは保ちそうもない。


「セラフィム、大人しくして下さい」


 ニタムが近付いて来る。

 此処で掴まればまた元の木阿弥だ。

 今日だけで何度自分の非力さに絶望したか分からない。

 それでも諦める訳にはいかなかった。諦めてしまえば、それこそ何の為にシャナとシルフィーが傷付いたか分からない。

 もう、可能性に賭けるしかなかった。

 雛菊はゆっくりと深呼吸をする。

 右手にはニタムが、背後からはセイリオスが待ち構えている。

 そこには逃げ場がない事は百も承知だ。

 残りは此処より下を飛行するシルフィーの翼。

 けれども傷付いた彼女の羽根で、この強風に煽られる高さまで上昇するのはキツいだろうし、何よりシルフィーを待つより先にセイリオスに掴まってしまう。

 ‘“私に力があれば”と雛菊は何度願っただろう。

 願いを叶える花の筈なのに、何一つ形に出来ない。

 自分の願いなど何一つ叶えられない。


 ーー花自身では自分の願いは叶えられないのだ。


 まるで霧が晴れたかのようだった。

 その事を理解するのに時間がかかってしまったが、基本さえ知ってしまえば後は決死の覚悟で自分を信じるだけだ。

 塔の縁に立って、見下ろすといやでも自分の足元の高さを知って足が竦んでしまう。

 怖くない訳がない。でも道はそこにしか見えない。

 覚悟の時だ。

 雛菊はくるりと身をよじってセイリオスを見据えた。

 雛菊には怖い人の印象だが、哀れな人でもある。和解出来ればどんなに良かったか、後悔の念すら感じる。


「――ごめんね」


 自分を拉致した彼に対する思い付いた言葉が謝罪だった事に雛菊自身も驚いて、何故かさいごに微笑ってしまった。

 後は何も考えなかった。

 雛菊はとんと、爪先で蹴り出して虚空に身を投げた。

 全てを投げ売って塔から飛び下りる。

 上からセイリオスの叫ぶような声と、下からシャナの驚いた声が聞こえた気がした。

 雛菊は大の字に体を広げ、痛いくらいの風を全身に浴びて下方の目的地を見据えた。

 塔からの目測で、シルフィーまではおよそ十メートルと少し。

 いくら下で受け止める人がいようと、強風に煽られながらのダイビングでは対象から外れる可能性だって低くはない。そもそもが無事では住む高さの着陸地でもないのだ。

 でも雛菊にはこれしかないのだと不思議な確信があった。


「シャナ、願って!」


 目一杯雛菊はシャナにそう訴えた。

 赤い瞳が雛菊を見据える。

 シャナが何か言ったような気がしたが、風の切る音が凄まじくて上手く聞き取れない。

 だが、その瞬間、雛菊の中で何かが弾け出した気がした。

 途端、雛菊の中で全ての速度が緩慢になる。

 不思議な感覚だった。

 落下している筈なのにふわふわと空中にとどまっているような浮遊感。まるで扉をくぐった中の真っ白の空間を思い出させる。

 恐怖など微塵も感じない。

 まるで背中に翼が生えた気分で、待ち受けるシャナの胸の中に飛込むだけでいいのだから。

 気が付いたら瞬きでもしてた具合に、雛菊はシルフィーの上のシャナの腕の中で抱き竦められていた。


「驚いた。受け止める瞬間、羽根みたいに君が軽くなるから」


 大きく息を吐き出したのは、安心して力が抜けたからなのだろう。


「私、シャナの願いを叶えられたんだよ」


 雛菊もまた力が抜けてぐったりと吐き出した。


「シャナが“お願いだから助かってくれ”って願った気がしたから」


 更に言葉をついでシャナを見ると、彼は顔を赤らめた渋い顔になっている。


「――君、セラフィムの力を?」

「使えたみたい。何だかね、私が叶えたいと思える人の願いしか叶えられないみたいだよ」


 事も無げに言うと、驚いたシャナが悔しそうに呟いた。


「願うって、君に心の中を見られるみたいだ」


 それが照れている為に出た言葉だと知ると、雛菊は思わず頬を緩めてシャナの肩に手をあてる。

 激しい出血は治まったようだが、鮮血に染まる衣服の下には刀傷が疼いていた。


「これも治すって願わない?」

「僕はいいよ。自分の傷くらい自分で治す。それよりシルフィーを……」


 そう言ってシャナはゆっくり下降するシルフィーを見下ろす。

 彼女は相変わらず雛菊を背に乗せる事が気に入らないらしく、シャナの顔を覗くと不機嫌に鳴いた。

 彼女の嫉妬をシャナは苦笑いで受け止める。だが、彼が表情を緩ませたのはそこまでだった。


「――まずい」


 本気で焦りの色を帯びたシャナの声に、雛菊もその視線の先を急いで追う。

 シャナが見ていたのは地上。

 松明の灯がいくつも浮んでおり、辛うじて雛菊はそこに幾人かの兵士達が刃を交える姿を捕らえる事が出来た。

 セラフィム奪還の為の兵士なのだと気付くと、雛菊の中に有難い気持と申し訳ない気持でいっぱいになる。しかしシャナの言葉があてはまる状況はそこではなかった。

 よく目を凝らして雛菊は混戦する兵達以外の場所を見る。

 塔の入口前に「彼」はいた。

 灯りを返す金色の髪が暗闇でも分かる。

 分かるからこそその光景に雛菊は息を飲んだ。叫ぶとかそんな間もない。

 目に映った光景をどう信じたらいいのか分からなかった。

 背中から胸を一衝きにされたアサドの姿を――。


 

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