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シャナと花のバラッド  作者: 藤和葵
第三章・玉響に咲く花
28/61

12.セイリオス


 決意をした途端に二度目のノックが狭い室内に響く。


「……どうぞ」


 訪問者を招きながら、雛菊は緊張の面持ちで胸に下げたジオンの指輪を握り締めた。


「お加減はいかがですか、セラフィム。スープをお持ちしました」

「あれ、え……と、ニタムさん?」


 入って来たのは待ち受けていた筈のセイリオスではなく、菫色の長い髪を後ろで一つにまとめた侍女姿のニタムだった。

 盆に乗せたスープが湯気を立てていて、テーブルに置くと澄んだスープに波紋が立つ。その拍子にフワリと漂う香ばしい匂い。


「毒など貴方を蝕むものはございません。安心してお召し上がり下さい」

「そんな風に疑ってませんよ」


 言って、食欲をそそる匂いに雛菊の腹は正直に音を立てた。

 思い起こせばパーティー前の食事から緊張していてろくに味も覚えていない程、物を口にしていなかった事を思い出す。


「――いただきます」


 雛菊は素直に用意されていた銀のスプーンを手に取り、スープを掬う。温かい液体が胃の中に広がるのを感じながら、随分気持が和らいだ気がした。満腹中枢と精神安定は繋がっているのだろうかと、身を持って実感をする。


 あっという間に平らげた空の器を、ニタムは黙々と盆に乗せて片付け始めた。

 最近の王宮生活を含め、何かと人に世話になる機会が増えた雛菊は何となくとその様子を眺める。

 皿の下げ方、テーブルの吹き方。

 てきぱきと無駄なく動くニタム。手慣れているなと、ぼんやり思い、雛菊はふとニタムの肩書きを思い出す。

 いくら王家の血を継いではいないとは言え、彼女は国王の妃となったセラフィムの巫女の娘だ。引いてはれっきとした王女である筈なのに、まるで侍女そのものな行動。そこが腑に落ちない。


「えっと、ニタムさんはいつもこんな事してるの?」

「……こんな事、とは?」

「その、家事手伝いみたいな事」

「これは主の命であり、私の希望でもございます」


 ぴたりと動きを止めて向き合い、雛菊の問いに答えるニタム。まるでかしずく態度が、彼女をより王女の姿から離れさせる。

 今も声をかける雛菊に対し、自分の仕事の手を休めてまで姿勢を正して佇む。存在自体が眩い美少女を前に、こうもかしずかれては雛菊も落着かないのだが、ニタムは気にもしないように持っていた布巾に目をやり、会釈をすると再び元の仕事に戻った。

 眺める横顔には感情はなく、何事もないように作業に徹するニタムは、少し前までランフィーを襲った人と同一人物にはとても見えない。


「主って、シィリー君だよね」

「はい。セイリオス様が私の全てでございます」

「全て……」


 はっきり返された言葉に雛菊はつい赤面をしてしまう。

 告白とも同義語で取れる言葉一つにニタムの気持が込められていた。

 セイリオスに対する想いは彼女の正直な気持なのだろう。ただ、セイリオス本人から聞いた話と照し合わせると、どうも噛み合わない事に気付く。

 セイリオスの話を思い出すなら、ニタムはシャナと婚約をしたのだ。事実としてそれは何処まで信じてもいいのか分からないが、考え出すと一つの違和感に気付いた。

 目の前にいる少女、ニタム。まるで人形の様に美しい佇いで、同性の雛菊も圧倒されるものがある。

 だが、その見た目とは裏腹に存在感があまりにも希薄だった。

 覇気、生気と言ったものが一切感じられない。無機質な存在。


 人の形をそこにいるだけのようなモノ――……。


 そう思ってしまうのは囚われの身という、非常事態による緊張状態に置かれているから働く心理だからだろうか。

 けれど、一回覚えた違和感を拭い去る事は容易くなく、冷汗の吹き出る異常さに怯える雛菊に気付いたのだろう。ニタムは初めて人間のように微笑って見せた。


「やはりセラフィムには隠せないのですね。いくら“ニタムのフリ”をしても、例え上手く力が使えない無能だとしても悟ってしまう……」

「え?」


 ニタムの言っている意味を解そうとしていた雛菊は、突然弾かれたように視界を大きく右に外した。

 正確には、ニタムに不意の平手打ちを食らい、頭が横を向いたのだ。

 瞬間的な痛みが脳を揺らし、後から熱っぽい痛みが左の頬からじんじんと伝わる。


「セラフィムなど嫌い! 力も上手く扱えないのに、セラフィムというだけで私から全てを奪う存在なんて憎くて仕方がないわっ」


 叫ぶニタムをじっと見つめ、雛菊は頬の痛みに左手を当てた。大した痛みではない。それよりも、顔を真っ赤にして自分を睨む少女の必死の形相に胸が痛んだ。


「――ごめんなさい……」


 気の効いた言葉が思い付かなかった。するりと口をついて出た言葉が怒りを鎮めたとは考えられない。だがニタムは呆然とする雛菊を見下ろすと、深々と頭を下げた。


「こちらこそご無礼を致しました。申し訳ございません」


 顔を上げた少女は、再び人形の仮面を被り片付けを済ませるとそそくさと部屋を後にする。


 残された雛菊は叩かれた頬を擦り、ニタムの事を考えていた。

 勘違いでなければ、あの表情は雛菊に嫉妬を向ける恋する女の目だった。

 彼女は自分自身を“ニタムのフリをしている”と言っていた。

 それではニタムのフリをした、ニタムそっくりの少女はセイリオスに仕えながら主に恋心を抱いていて、あまつその主はセラフィムである雛菊を必要としている。


「うーん、異世界版昼ドラ的泥沼? 頭痛くなっちゃうよ」


 こめかみを押さえて窓際に頬杖をついて夜空を見上げた。

 静寂に瞬く星が煌煌と煌めく。

 懐かしい、シャナの家から見上げた夜空を思い出した。


「何か、無性にあの家に帰りたいや……」


 頬杖を崩して、そのまま自身を腕を枕に顔を埋める。


 そのまま、少しの間だけ意識を閉じていたのだろう。

 気が付くと肩に毛布をかけるセイリオスが隣りに佇んでいたので、慌てて雛菊は体を起こして椅子から立上がり、彼と同じ目線に立った。

 その慌てぶりにセイリオスが吹き出す。


「寝痕、付いてますよ」


 クスクスと笑われ、ばつの悪い雛菊は無言で頬を拭ってセイリオスと対峙した。

 出だしは多少不格好だったが、今が正念場だと知る。

 セイリオスもそのつもりで来たのだろう。単刀直入に切り出して口火を切った。


「さて、先程のワタシの想いに対する貴方の答えを聞きましょうか」


 まるで自分が拒絶されるとは欠片も思っていない、純真過ぎる瞳を前に雛菊は惑わされぬように大きく深呼吸をした。


「シィリー君だけの花になれって話なら、私、断る」


 口にしながら心臓がそこから飛び出すのではないかと思えるくらい、雛菊の胸はドキドキと激しく言っている。

 この一言でセイリオスが逆上するのではないかと、内心ひやりとした物があるからだ。

 だがセイリオスの反応は落着いたものだった。


「何故?」


 断られると微塵にも考えていなかったのか、目を丸くしてきょとんと雛菊を見つめる。


「ワタシはセラフィムを、ヒナを大事にしますよ? 何が不満ですか?」

「不満とかじゃないよ。聞くけど、シィリー君は私に何を願いさせたいの? 玉座が欲しいの? 国を滅ぼしたいの?」

「何度か口にしてますよ。分かりませんか?」


 愚問だとセイリオスは緩く唇を歪め、逆に雛菊に尋ね返した。


「ワタシはね、ヒナ。この国が憎いんです。体のいい嘘を吐いて、ワタシが妾腹だから玉座から遠ざける。ワタシだって王家の血は継いでいるのに何が足りない。母の血? 貴族の娘ではないから? ただの慰みで抱いた娼婦の女の血が下賤だと? 民は平等に国の宝だと、命に貴賤はないと言う輩の実情は排他だ。ワタシはこの国から見たら、いない存在なんですよ」

「でも、アガートさんに優しくされてたでしょ? 皆が皆、シィリー君をそんな目で見てた訳じゃないでしょ?」


 語りながらセイリオスは熱くなる癖がある。

 ただただ熱くなるセイリオスに圧倒されていた雛菊に、隻眼の金色の瞳は柔らかく目尻を細めた。


「ヒナ、貴方は本当に綺麗ですね」

「へっ⁉︎」

「あぁ、中身の……心根の事ですよ。見た目は可愛らしいと言った方が適切ですが」

「ありがとう……」


 唐突の台詞に思わず頬を赤らめる雛菊に、セイリオスは言葉を付け足す。どちらにしても褒め言葉には違いないのだが、雛菊は複雑な心境で反射的に礼を述べた。

 そのやり取りが心地良かったのか、セイリオスは機嫌良さそうに雛菊から一歩の距離を置いた真向かいに近付く。

 雛菊としては本当は少し距離を置きたい所だが、セイリオスの警戒を緩める事が身を守る術……引いては脱出の糸口を掴む可能性を高めるものだと考えていたから、すんでの所で堪えた。

 その緊張は容易くセイリオスに伝わったらしく、彼は軽く吹き出して両の手を肩の高さにかざして無害を主張する。


「硬くなってますよ。ヒナ、殿方と寝具のある部屋で二人きりになるのは初めてですか?」

「え、いや……その」


 セイリオスが何を言わんとしてるかは分かるのだが、緊張の理由とはおおよそ外れているので返答に詰まる。


「貴方は男の味というものをまだ知らないのでしょうね」


 クスクスと含み笑いを浮かべるセイリオスの言葉に、更に返答に困っていると、突然トーンダウンした声が息を吐くように囁いた。


「ワタシは知ってますよ」


 雛菊は息を飲んで瞠目した。

 言葉尻を捕らえるならそのままで解していい筈だと思うのだが、どうにもそのまま納得したくない内容に唇をつい歪める。


「少し、昔話をしましょうか」


 まるで舞台の下から混乱する雛菊を観る観客のように、セイリオスはこの部屋唯一の腰掛に座してゆったりと足を組んだ。

 口許は弧を描いた笑みを形作っているのに、温かみのない表情。紡がれる言葉にも感情の込められてない、酷く冷えた声音が発せられた。


「――ワタシを取巻く環境に変化があったのは、ワタシが十の頃、父王が逝去し、喪も明けぬ内に、剛雄で謳われていた叔父君が即位をした後からでした。父という王の後ろ盾をなくしたワタシは、ワタシの血筋を良く思わない大臣らの格好の餌食となりました。恐らく、娼婦の血を引く子など王族と認めたくなかった血筋至上主義者でしょう。何も知らないワタシはただ怯えて泣くだけでしたよ」

「……そんな酷い事、誰も気付かなかったの?」


 恐る恐る雛菊が尋ねると、セイリオスは自嘲気味にさらりと言った。


「ヒナ、子供に当たり散らすような矮小な心根の人間はね、外の目には見えないように行動するんです。だからワタシに対する迫害は、叔父君やアサド兄様らも気付かないし、助けもない。ワタシ自身、プライドもありましたから告げ口する真似もしなかった。それに、やはり泣かされたなどとニタム姉様に知られたくはなかったですしね」


 何故かセイリオスはニタムの名を口にする時、愛しそうに口許を歪めるのに酷く傷付いた顔をした。

 その表情に雛菊は少しだけ気を取られたが、すぐに元の冷たい顔に戻ると何事もなかったように話を続ける。


「それでもね、唯一の救いはあったんですよ。伯爵家の次男でワタシの教育係を勤めてた青年です。ワタシの泣言を優しく聞いてくれた存在でした。時にはワタシを庇ってくれたりとしてくれて、随分兄のように慕いました。――ですがね、その後に酷い結末があったんですよ。何だと思いますか?」


 問い掛けられても、雛菊には答えようがなかった。素直に首を横に振ると、セイリオスは愉快気に唇を更につり上げた。


「裏切りです。彼はワタシでの仕事を評価されて、別の役職が決まった途端、掌を返したんです。疑いもせず泣言を言うワタシが滑稽だったと、疎ましいと聞きもしない事を勝手に話してくれましたよ。それだけ彼も我慢していたのかも知れません。でも、彼は言葉だけでは足りなかった。溜まった鬱憤は言葉だけでは晴らせなかったから、肉体的にワタシを傷付けたかった。それも目に見える傷ではなく、内側をえぐる傷です。相当な血筋至上主義者だったのか、単なる性癖かは分かりませんがね。ああ、でも後者も色濃かったんでしょうね。何しろその彼の行為は――」

「もういいよっ!」


 雛菊は声を張り上げた。

 気付いたら頬には涙が伝い、雛菊は耳を塞ぐ。

 これ以上の話を聞きたくはなかった。

 放って置けば、もっと具体的に内容を話しそうだったからでもあるが、辛い過去である筈なのにそれを淡々と語るセイリオスが何より嫌だった。

 雛菊は涙を拭い、目の前に居住うセイリオスの頭を引き寄せて抱き締める。


「もういいよ。どんな酷い事されたのかは分かったから。それでシィリー君が国ごと憎んじゃう理由なんだって分かったから。嫌な過去は話さなくてもいいよ」

「それじゃあ、ワタシの為に願いを聞いてくれますか?」

「それは……願い事による……」


 言って、雛菊はセイリオスを放してしっかりと向き合った。

 相手の隻眼の青年は雛菊の言葉に小首を傾げ、不満そうに眉をひそめる。


「どんな願いは駄目なんですか?」

「まず、国を滅ぼしたいだとか、誰かを不幸に落とすとかそういう類いは駄目」

「玉座が欲しい、は?」

「無理に奪うのは駄目。あのね、シィリー君。これでも私、色々と考えたんだよ」


 子供と目線を合わせる母親のように、腰掛けるセイリオスの視線の高さに雛菊は膝を折る。


「何で私がセラフィムなのかは分からないけど、セラフィムが人の形をした花なのはきっと理由があるの」


 雛菊は一息ついて、セイリオスを窺う。特に何か口を挟む様子もなかったので、そのまま続けた。


「――あのね、願いを叶えるだけなら本物の花でもいいでしょ。そうじゃないのは心があるからなんだよ。人の形で人の気持、心があるから、何でも願いを叶えられるセラフィムだけど、その願いを良心で測って決める事が出来るから」

「それでは貴方の良心はワタシの願いは悪だと言うのですね」

「正直、叶える術を知らない私が言えた立場じゃないけど、ごめんね」


 責める口調のセイリオスに肩を竦めて雛菊は謝る。だが、すぐに声音を上げた。


「でも、他の願いなら私、頑張る。他の道を探そう? 復讐よりもっと楽しいコト。物語だってなんだって、憎しみは何も実らせないんだよ。一緒にお城に帰ろうよ。ニタムさんも連れて。シィリー君がした事を許して貰えるくらいには、きっと私でも何とかなるから、ね?」


 セイリオスの改心を誘う。

 それが非力な雛菊の考えた方法だった。言ってる言葉には嘘はないつもりだ。

 人質の身で自分の意見を口にする事は勇気のいる行為だが、それも恐怖を飲み込んで我が身を奮い立たせて必死に雛菊はセイリオスの瞳をじっと見つめる。

 この誠意を伝える事が雛菊の精一杯の目論みだった。

 セイリオスの金色の左目が厳しく光っても怯まなかった。ただただ乞うようにじっと見つめた。

 すると、ついには折れたのか、ぽつりとセイリオスが息をつく。


「――本当に、ワタシの罪は許されるのでしょうか」


 言われた直後はぽかんと少し口を開いた雛菊だったが、すぐにぱっと顔を輝かせて力強く頷いた。


「大丈夫だよ! だってシィリー君がした事って、私を誘拐したのと、ニタムさんを隠してたくらいでしょ? 二人が無事なんだもん。許して貰えるよ」

「ワタシがニタムを殺し、その躰に別の魂を入れて傀儡にしたとしても?」


 その瞬間、目を見開いた雛菊にセイリオスは満足そうに目を細める。


「他の人は本当にワタシを許してくれるでしょうか。ワタシはワタシを女のように嬲ったその男の命を奪ったとしても。強い憎しみに駆られ、男の心臓を食いちぎり、既に人ですらなくなっているワタシを……」

「シィリーく――」


 呼び終わる前に、突然雛菊を衝撃が襲った。

 何が起こったのか考える暇もなかった。

 急に何かの力に圧倒されてベッドに背中から倒れた後、そのままセイリオスに上から見下ろされている現在。

 それを見上げる雛菊は目に涙を滲ませ、息も切れ切れに喘いでいた。セイリオスの手が雛菊の口を割って、親指で強引に舌を押さえていれば当然の結果だ。

 抗おうにも男の力に敵う筈もなく、容易く四肢は押さえ込まれてしまう。


「考え直しませんか。説得されるのはワタシじゃない。貴方の方ですよ、ヒナ。何もワタシは国をすぐに滅ぼしたい訳じゃない。それではワタシの傷は癒せないんです。ねぇ、ひとまずワタシに滅びない肉体を与えてくれませんか」


 息がかかる程間近でセイリオスは囁いた。押さえる力が強くなる。口内の指が更に呼吸を困難にさせる。


「――っ」


 しかし声にならない声で首を振って必死に拒絶を示した。その拍子に舌を押さえていた手の力が緩んだのを機に、同じ手を食らうまいと歯を食いしばった。だがそれと同時に目の前に星が飛ぶような衝撃が左頬に走る。

 殴られたと知るのは口内に血の味が滲んでからだった。

 ニタムの時とは比べ物にならない程の痛みに、脳天がくらくらと雛菊の意識を朦朧とさせた。

 此処で気を失ってはその後どうなるか分からないという一心から、何とか意識を手放さずに堪えたが、痛みが恐怖を煽る。


「貴方が悪いんですよ。ワタシを怒らせるから」


 殴った張本人は悪びれもなく、唇の端に滲んだ雛菊の血液を指で救い取って舐める。その味が舌に馴染んだのか、物足りなさそうにまた指を舐めた。

 その行為に雛菊は痛みに加えて顔を歪める。


「あぁ、この手もあったか」


 何を思い付いたのか、口を開いたセイリオスだったが、誰に言った訳でもない独り言。


「ヒナ、名案です。貴方を意のままにする術がありましたよ。カタカネスの存在を知ってますか」


 雛菊の耳に馴染まない言葉だった。知らないと首を振って答えようとも思ったが、痛みが尾を引いて無言でいる事にする。どのみち雛菊の返答など待っていないセイリオスは勝手に話を続けた。


「ワタシはね、ワタシを犯した男の心臓を食らったその日から、鬼と化したんですよ。他者にワタシの牙を貫く事でその者を支配するのです。此処まで言ったら分かるでしょう。喜びなさい。貴方は貴方のその下らない良心を放棄出来るのですから」


――いやだ。


 思っても声に出す事が出来なかった。話し方を忘れたかの如く、魚のように口を開いて閉じるだけ。


「怖いのは一瞬です。ほら、ワタシの目を見て」


 初めて解かれた眼帯の下は、一目では瞳がないかと見まがうような白銀の眼があった。

 透けるような綺麗な色なのに、氷のように凍付く感じもする。その底冷えする寒さに最初で気付けば良かったと、後で雛菊は後悔する。

 僅かでも見惚れたら最後。

 体はセイリオスの拘束が解けても身動き一つ出来なかった。ぴりぴりと全身が痺れて、指一本もまともに動かないのだ。


「……綺麗な象牙色の肌ですね」


 セイリオスの指裏が雛菊の首筋を撫ぜる。背筋が泡立つ嫌悪感なのに、身動ぎ一つも許されない。

 自由なのは涙と思考だけ。

 いやだいやだと心の中で唱え、目から涙が伝って耳元のシーツを濡らした。


 ――シャナ!


 針が僅かに食い込んだみたいな、圧迫する痛みが首筋に走った。

 身に起こる全てを拒絶するように、雛菊は目を瞑る。

 それなのに数秒経っても思いの他首への痛みは少なく、それどころか吐息と牙が離れる気配に異変を感じた雛菊はうっすらと目を開く。

 心なしかセイリオスの白銀の眼の呪縛も弱まり、僅かながらに体を動かす事が出来た。上体を起こすと、セイリオスは全く別の方を向いていた。

 雛菊から見えるセイリオスの横顔は険しく、歯噛みして憎しみをたぎらせた顔。

 一体何に怒りを向けているのか。

 その視線の先をセイリオスの肩越しに垣間見て、雛菊は叫びたい気持でいっぱいになった。



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