11.囚われの身の上
この世界の地理など知る由もない雛菊にとって分かる事と言えば、自身が囚われの身の上だと言うのと、此処から脱出不可能だという事実だけだった。
内側に反り返った壁をなぞるように雛菊は室内を歩く。
寝具と小さなテーブルと椅子がなければ、窓以外何もない簡素な石壁の密室。
窓から広がる景色は日中なら海と空を眺められる絶景なのだろうが、夜間はその景色も味気が半減し、囚われの身の上だと天空に構えるこの状態は絶望的だった。どんなに頑張ってもシーツや天幕、カーテンを切って編んで繋いでもドラマや小説のように外への脱出も不可能な高さなのが一目瞭然なのだから。
「……っ」
思わず零れ落ちそうになった弱音を、咄嗟に唇を噛んで吐き出すのを堪えた。
涙が出る湿った感じはなかったが、深く重く長い溜息が溢れそうになる。その溜息の一つの要因が服装にあると気付き、雛菊は顔をしかめた。
夜会用にと着付けられたドレス。生憎と先程までベッドで気を失って寝ていた所為でスカートはだらしなく皺が入っている。しかしコルセットは緩みなく未だ雛菊の体をきつく締め付けている。
どうりで息苦しいわけだ。今後を考えるならこの動きにくい服装をどうにかした方がいい。
「――まあ、監禁の割には親切、だよね」
丁度いい具合に、雛菊は先程まで体を埋めていたベッドの枕元に新たなドレスがあてがわれているのに気付いた。
きちんと畳まれている上質の純白の生地、広げると雛菊が望んだように体を締め付けず、適度にゆったりと身に纏えそうなドレスだ。これが本当に自分の為に用意されたものかは分からなかったが、とにかく息苦しい服から解放されたい。
「そこにあるって事は私用で使ってもいいのかな」
このドレスが誰のとか気にするような場合でもない。雛菊は状況に応じて着替える事にした。
カシュクールの簡素なドレスは幅広の帯を巻くようだ。スカートの丈が爪先にかかる程長く、着物状の広がった袖が煩わしい面を除けば、着心地は大分良かった。靴もバレーシューズのような踵の低い布製の柔らかいもので、足首でリボンを結ぶ簡易な室内履きなのが、ヒールで靴擦れした雛菊には丁度いい。
「これはどうしよう……」
左手に収まったままの指輪。雛菊には未だ重苦しい存在なのだが、アサドの母親の大事な形見でむげには出来ない。だが、このまま指にはめたままも具合が悪い。
雛菊は申し訳なさそうに指輪を取り、先程のドレスのチョーカーの装飾に使われていた金の鎖に指輪を通して首から下げた。
その後は随分軽くなった体で再度脱出ルートを探ろうと、窓から上半身を乗り出す。海風がたっぷり顔に吹き付けてまともに目が開けないが、どう目を凝らして見ても外壁に手足をかける取っ掛かりの類いは見当たらない。
そもそも取っ掛かりがあった所で、岩登りをする技術も体力はない。例え勢いに任せて試した所で井戸をよじ登ろうと無理した時の二の舞いは目に見えていた。
「残りは正面突破しかないのか……」
挑むように鉄製の扉を睨む。勿論最初にドアノブを回してみたが、開く筈もない。叩いても蹴っても体当たりをしてもびくともしない。
中から窺う扉の外に人の気配はない。扉を破れば突破口はあるのだろうが、破れる筈もないから見張りがいないのだと開かずの扉を前に息を切らした雛菊は悟る。
決して脱出を諦めた訳ではないが、扉を破ろうと力任せな行動で体力を消耗したので一息を入れるつもりでベッドに腰掛けた。
そのまま背中を倒して仰向けになると、目覚めた時と同じ真っ白な天幕が雛菊を見下ろしている。
見慣れない天井というものは人に違和感を与えるが、この短期間でいくつか居住を変えているのでさほど動揺はなかった。
現状が漠然とし過ぎていていまいち感情が追いついていないような気がする。おかげで取り乱さずに済んでいるのだが、攫った相手が顔見知りだと言うのも一つの要因かも知れない。少なくとも正体不明の相手に怯える事はない。
「私、どうなっちゃうんだろう」
零して寝返りを打つ。
セイリオスは雛菊のセラフィムとしての力を欲していた。だが、雛菊にはセラフィムの力の兆候は何一つとしてないのだ。それをセイリオスが知ったらどうなるのだろう。
それ以上考えると、とても嫌な気分になるので雛菊はその思考にはすぐに蓋をした。
別の事を考えて気を散らそうとする。そうすると真っ先に思い浮かぶのは黒髪に真紅の瞳が灯る少年の姿だった。
最後に交わした言葉は喧嘩別れだったか。最後に見たあの赤い瞳は怒りが宿っていた。
「――シャナ……」
それがもし最後の記憶になってしまうとしたら、雛菊の胸は痛んだ。さっきまで何ともなかった筈の瞳には、訳も分からず涙が滲む。
助けに来てくれるだろうか。
そんな約束はしたが、喧嘩別れの後ではそれも自信がない。
「最後が喧嘩なんて嫌だなぁ……」
力なく呟き、涙が溢れる前に拭い取る。
今は泣くべき時ではない事を知っているから、どんなに心細くても雛菊は堪える。
とにかく何かをして気を紛らわせたかった。このままじっと考え事をしている方が、精神衛生上、都合に悪いと思ったのだ。
「……錠破りでも試そうかな」
着ていたドレスの装飾に付いていた金具を見つめ、思い付いた事を口にする。独り言でも、声を出す事で妙な安心感があった。
そうと決めたらまず行動あるのみ。早速ドレスから金具を引き抜こうと手を伸ばした時、あの鉄製の扉からこちらを尋ねるノック音が響いた。
雛菊はドキリとして手を止める。
声はない。かける様子もない。
雛菊の返事でも待っていたのか、暫し間を空けるが応答がないと分かると重い錠の回る音がする。錆び付いた重たい金属音を擦らせながら鉄製の扉は開いた。
開いた扉の先に立つのは勿論、右目に眼帯をし、緩やかに波打った金の髪を軽く結わえた線の細い青年。
「おや、ヒナ。目が覚めてましたか。白い装束、似合ってますよ」
全く悪意のない笑みを浮かばせ、青年はまるで何事もない調子で言った。
逆にその屈託の無さが雛菊を震えさせる。
「……シィリー君」
名を呼ばれた青年は、最初に出会った時のような人なつっこい柔和な様相を呈して穏やかに「はい」と答えた。
「それにしても、ワタシが用意した衣装をセラフィムに着て貰えるのは光栄ですね」
セイリオスが上から下へと雛菊を値踏し、満面の笑みを零す。
「うん。似合ってる。やっぱり聖女には純白が一番です」
そう言って近付くセイリオスに対し、雛菊は思わず後退る。その行動にセイリオスは心外そうに頬を膨らませた。
「そう怖がられると、傷付きますよ。ワタシが」
覗き込む金色の瞳が月みたいにキラキラ輝き、逆に雛菊は気圧される。胸の何処かで警鐘が鳴る。
今度は後退る事も出来ない雛菊に対し、セイリオスの手が伸びた。反射的にその手を振り払いそうになるのを堪えると、フワリと頭に何かがかかる。霞がかった視界から察するにヴェールをかけられたみたいだった。
「ん、完成」
満足気なセイリオスが雛菊の肩にかかる髪に触れた。
「ヒナのぬばたまの黒髪には白がよく映えます」
指先が髪から顎の下にまで伸び、雛菊は拒否の言葉を飲み込む為に唇を噛む。
「笑って。ワタシのセラフィム」
乞われるも、勿論そんな気分にはなれない。セイリオスは複雑そうに物憂げな雛菊の表情にむくれた。
「いい加減諦めたら? 君はもうワタシから逃げられやしないんです。酷いようにはしない。ただ、ワタシだけの願いを叶える花になればいいのだから」
「シィリー君だけ、の?」
「そう。その為ならワタシは何だってします。何だって与えます。貴方だけを愛します」
やっと口を開いた雛菊に対して、また穏やかに目許を緩める。そして思い出したように声を上げた。
「ああ、ワタシはヒナが目を覚ましたかの確認をしに来ただけだったんです。――そうですね。折角だから何か適当にスープでも持って来させましょうか。その間貴方は好きに寛いでいて下さいね」
「あ、シィリー君、私何もいらな……」
断ったが、セイリオスはそんな事は構いもせずにさっさと部屋を出て行く。再び重たい錠の落ちる音が響いて、乾いた足音が遠ざかるのを聞いた。
「意味分かんない」
口をついて出たのは正直な気持だった。
セイリオスがセラフィムとしての雛菊を必要としているのは本人の口振りから分かるのだが、具体的な内容が分からない。
国が欲しいのか、国を滅ぼしたいのか。
此処に来て急に言動が幼くなったのはそれが彼の素の姿なのだろうと想像は付くが、ただ、やはりこの状況であの幼さは雛菊には狂気の沙汰にしか感じなかった。
本気で人を恐いと思った。
自身を攫った張本人と対峙する事で、身の危険が現実味を帯びたのだ。
気が付くと体が震えていた。寒いのとは違う。
雛菊は我が身を抱き締めるように両腕を交差し、窓際に立った。
開いた窓から月の光が差し込んでいた。薄暗い部屋の中で、この窓の部分だけが明るく浮き出ている。その中にいるだけで幾分か心が落ち着く。
正直、先の見えない現状はどうしようもなく不安で恐ろしくて仕方がない。
此処でくじけて泣き喚くのは簡単だが、それでは一層自分が嫌いになると、それだけは我慢するのが雛菊のプライドだった。
異世界に夢見るだけだった頃は、こんな囚われの身となって天空にそびえる塔に幽閉される状況を考えただろうか。
「……私って、ホントに何も考えてないんだなぁ」
自分自身に溜息が出た。
自分の身一つ守れずに、何を過信して邁進していたのか今までが不思議なくらいだ。
不思議な力は欠片もない。
相手の気持に応えるべく、自分の本心も見付けられない。
幽閉される我が身を嘆くしか能がない。
次から次へと弱音は溢れて来る。
「お父さん、お母さん、お兄……」
懐かしい家族の顔を思い浮かべ、雛菊はゆっくりと息を吸った。
心細い今だから会いたい人達、声を聞きたい人達。
もし、今家族への電話が繋がるなら何を話すだろう。
雛菊は有りもしない事を想像する。あくまでも例えばの話だ。
大抵自宅の電話なら母親が最初に出るだろう。
開口一番に「今何をしているのか、無事なのか」とおろおろ心配する声が思い浮かんだ。
その母親に対し、雛菊はまず自分の身の安全を伝えるのだろう。怪我はない。衣食住に困ってない。病気もしていない、大丈夫だと。それからもっと話したがる母に代わり、父親が出る。
口数が多い訳ではない父は、「寂しくないか。辛くないか」と聞いてくれるかも知れない。それに対しては正直に「寂しい。辛い時もある」と答えるつもりだ。けれど帰るに帰れない状況なので、その後に「でも頑張る」と続けるのだろう。
最後に両親より息巻いた兄が出る。
雛菊がラキーアに旅立つのを目の前で見た兄は何と言うのだろう。すぐには想像が出来なかった。もし話す時間に限りがあるとしたら頭のいい兄の事、雛菊の欲しい一言を与えてくれるだろう期待があった。
「そうだなぁ、お兄なら体育会系っぽく‘今、出来る事を考えて動け’って言うかなぁ。前、バスケの試合の時にチームメイトにも言ってたし」
家族と話す妄想を膨らまし、思わず雛菊は吹き出した。
身近な人達を思い浮かべる事が功を奏して力を与えたらしい。少なくとも、弱気から溢れそうになる涙を堪える事が出来た。
雛菊は視界にちらつき邪魔なヴェールを取り払い、ベッドに投げ捨てる。肩に流した髪がサラリと風に煽られてなびき、スカートが風を吸い込み、膨らんではためく。
風が強くなっていた。
元より無謀な案ではあったが、壁伝いに脱出を試みるのは無理であると悟る。
他にも鍵を破って見張りもいるかも知れない、何処かも分からない場所から真っ正面に逃げられる筈もないと言う事も自分の能力と照し合わせたら不可能だとも分かりきっている。
今、出来る事は力任せに動くのではないのだと、雛菊はやっと結論を出す事が出来た。
現状の打開には別の道を探す必要がある。
その道が確実だという保証もないのだが、‘それが今出来る最善’だと思えたので、その可能性に賭けるしかなかった。




