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シャナと花のバラッド  作者: 藤和葵
第三章・玉響に咲く花
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07.暗転

 

 耳元で囁いた愛の言葉が初心な女の子を紅潮させた。瞳から溢れる涙が口に伝っていたのでそれを拭き取りたかったのだろうけど、やはり手の甲が唇を擦られると自然とアサドの眉間に皺が寄る。


「拭いたい程、俺とのキスが嫌か?」

「ちがっ! 今のはただ……」


 半分は冗談だが残りは本気で尋ねると咄嗟に否定を入れたので気を良くしてまた口を塞ぐ。最後まで喋らせたら否定してもらった言葉をまた否定されたくないので都合のいい部分だけ切り取った気分だ。

 これで何度目のキスだろうか。きっと初めての経験だろう少女に自分というものを刻んで染めたくて繰り返してしまう。

 悪いとは思いつつ舌を絡め、飲みきれずに口の端から零す唾液の雫に生々しさを覚えて震えた。

 唇が離れ、涙で滲む熱っぽい瞳に理性を抑えるのに苦心していると相手から目を空した。


「……ごめん、ちょっと一人にさせて」


 二人きりが気まずいからだろう。同意を得ない行為で避けられるのは仕方ない。アサド自身も頭を冷やす意味で物理的に距離を置いた方がいいと考える。でないと色々危うい。


「遠い所には行くなよ」

「うん、大丈夫。ちょっとだけだから……」


 今の雛菊の立場を考えれば一人にすべきではないのは理解しているが、アサド自身も照れ臭いので不安ながらも送り出す。雛菊は少しだけ安堵したように微笑んで、脱いだヒールをそのままに裸足で花園の奥へと消えていった。

 雛菊の向かった先が王族以外立ち入れない区域の庭園だった為、アサドも暫くは問題ないだろうと肩の力を抜いて息を吐き出し固めた髪をくしゃりと無造作に崩した。

 月光に照らされ、淡く光りの飛沫を上げる噴水広場に憂える美丈夫一人――ならどんなに絵になっただろうと思いながらアサドは今度は息を吸い込む。


「――で、お前はいつまでそこに隠れてるんだ。覗き見なんて悪趣味な真似はやめて出て来いよ」


 何処に向かって言うでもなく、アサドはわざと声を張ってごちた。

 その人物も彼の鋭い五感を前に隠れる事の無意味さを知ったのだろう。特に驚く様子もなく、木陰から姿を現したのはパーティー用に女性らしく着飾ったシャナだった。


「……言っとくけど、チェリウが勝手に着飾っただけで僕が望んだ訳じゃないからね」


 開口一番の言い訳は、対面と同時に腹を抱えて微痙攣をしながら息も絶え絶えに笑い転げるアサドの為だ。


「パーティーに出てないくせに、どんな意味がある仮装なんだよそれ」


 涙を拭い、アサドはもう一度シャナを頭から足の先まで眺める。

 肩まで伸ばした髪は緩やかに巻いてふわりと軽さを出し、頭の天辺には黒いレースのリボンをあしらったヴェール。ドレスは黒一色で総レース編みのケープで少年の体のラインを誤魔化し、ウエストで結ばれた大きなリボンが更にラインを女性的に引き締めて見せる。

 チェリウフィーの心遣いか、シャナの少年体型を上手くカバーした着付なのだがそれでなくとも違和感なく少女に見える容姿がアサドのツボを激しく刺激した。

 自分の前に姿を出せばこの反応も覚悟の内だろうが、笑われていい訳でもないのだろう。あからさまに面白くないという顔でシャナは頭の被り物をかなぐり捨てた。そしていつまでも腹を抱えるアサドに得意の精霊術ウィスでベンチから転がり落としてわずかばかりの意趣返しをする。しかしまだ気は晴れない顔でドレスをその場で脱ぎ捨て、下に着衣していた簡素なシャツとパンツ姿に変わる。

 些かアサドは残念な気もしたが、これ以上の悪ふざけも時間の無駄なのでさっさと本題に入るように先程とは打って変わった真面目な目付でシャナを見据えた。


「で、話戻すけど、人のラブシーン覗いて何してんだお前」


 咎める訳ではなく、ただどんな気分なのだとうかとシャナを見据えれば煩わしげに視線を外される。


「誰が覗くもんか。護衛に決まってるだろ。一応、僕はその為にわざわざ着たくもない女の子の格好までして此処にいるんだ」

「そうだな。お前はただヒナを守る為にわざわざ嫌な格好までして此処にいるんだよな」


 シャナの回答にアサドは納得したように大きく頷く。


「なのにお前がわざわざそこまでする子に対して俺がした事については、お前、何か思わねー訳?」

「……たかだか唇だろ。取り立てて騒ぐものでもない」

「異性としては何も感じねーってか?」

「くどい。君は僕のどんな答えが聞きたいんだ。‘好きだ’と言えば満足かい?」


 しつこいアサドの問いにシャナは睨んで言い返す。


「アサド、口紅付いてる。みっともないよ」

「お前もな」


 軽く親指で紅を拭い、アサドは緩慢に笑みを浮かべる。シャナはアサドの反論の意味が分からなかったようだが、チェリウフィーに顔も弄られていたのを思い出したのだろう。耳を赤くしてばつが悪そうに口を拭う。

 今夜のドレスアップにチェリウフィーが裏で糸を引いていたとしても、女の子のように化粧をしスカートを履いて着飾るということは普通の男としてはかなり抵抗が生じ、甘んじて受けいれるなんて真似が出来ないとアサドは思う。

 顔だけなら美人に仕上がる自信はある。が、鍛え抜かれた体躯でドレスを着ると滑稽になるのは目に見えていた。そもそも女装する必要もアサドにはない。シャナは少女を近くで守るために一番有効な手段を選択しただけだ。それはアサドが王子という立場を利用して雛菊を婚約者にしたのと似ているが、こっちは役得はあれどシャナには多分損しかない。

 ――これが単なる責任感だけで出来るだろうか。いや出来ない。


「なあ、いい加減気付かないか、シャナ」


 僅かに語調が低くなる声にシャナは逸らしていた視線を元に戻す。


「何に?」

「ヒナに対する気持に」

「馬鹿馬鹿しい」


 吐いて捨てるように息をついてシャナは大袈裟に肩を竦める。


「僕が誰かを好きになる事なんて有り得ない。仮にもし、例えば君の言う通りだとして、それを自覚させるような事を何で君が言うんだ? 彼女は君が選んだ、その、ジオンだろう?」


 慣れない話題に時折言葉を詰まらせるがアサドはそこを敢えてからかう真似はせず、何処か自嘲するように口の端を重たそうに持ち上げた。


「……歯止めを作りてーんだ」

「歯止め?」


 繰り返すシャナにアサドはぼんやりと首肯する。


「あの家でずっと三人だけなら黙ったままで良かった。でも、ヒナが俺を心配して此処まで付いて来くれたんだって思ったら欲が出た。気持ちを伝えたくなった。婚約はセラフィムとしての肩書きから守る意味もあるけど、このまま受け入れてくれたらって思った。一つ許すと欲ってどんどん膨らむんだ。……ヒナがいれば俺は幸せになれる自信があるけど、俺は誰かを幸せにする事に自信が持てないから、取り敢えず適当なライバル立てる事で自分を抑えてーんだよ」

「それで僕を焚きつけるのか。そのくせ初心な彼女を捕まえてキスをするんだな、お前は」

「アレでも抑えたんだ。だからお前の目があって助かった。でなけりゃ今頃もっとヤバかったかも……」


 普段とはまた違い、磨かれた今夜はまるで羽化した蝶のように艶やかで、手を伸ばす輩が増えそうだったから先に手を伸ばしてしまったと正直に明かせばシャナは呆れて肩を落とす。それに釣られてアサドも歯を零した。


「つかさ、怖くね? ‘こんな体’で誰かを幸せに出来るのかってさ」

「……ゴメン」


 アサドが雛菊に対しての気持を足踏みする理由の原因を深く自覚しているシャナは、息を詰めて重々しく吐き出した。

 星が瞬く空なのに、まるで雲がかかったように辺りが暗く見えるのは気持の問題だろうか。

 いや、やはりどこか何かが違う。


「――……何かおかしくねぇか?」


 先に異変を口にしたのはアサドだった。続いてシャナも怪訝そうに辺りを見回す。

 一見何の変哲もない庭の風景。だが、風の音も虫の鳴声すら先程から響いて来ないのに気付く。


「アサド、何か臭うかい?」

「人を犬扱いするなよな。それに特に怪しい臭いは……」


 シャナの指示に噛み付きながらアサドも辺りの気配を探るが、それらしき影は感じられない。しかし一瞬見せたアサドの訝しげな表情をシャナは見逃さなかった。


「何か気になる事があるの?」

「あ……いや、気になるというか、思い過ごしだ。俺の」

「そう……」


 もう少し問い詰められるかと思ったが、それよりも早くにシャナは駆け出していた。行く先は雛菊の元だろう。

 何者かがいるとは限らない。けれど辺りを漂う不穏な空気が全く関係ないとも言い切れず、シャナはとにかく大事に至る前に雛菊の元へと走った。出遅れたアサドは慎重に探りを入れる事にする。

 何事もなければいい。いきなり自分が顔を出すよりも、間にシャナを挟んで緩衝材になってもらおう。

 最近の様子からだと、雛菊とシャナも何か揉めたかギクシャクしていたからこれを機会に関係を修復した方がいいだろうとアサドは考える。

 まだ頼れる存在の少ない身の上だ。自分が気まずい雰囲気にしてしまったから、もう一方で補えとは少し乱暴な発想だろうか。

 それでも拒絶されるならされるで心の準備が欲しいのは人情である。

 そんな言い訳を心で唱えつつ、アサドはシャナが向かった方向から少し逸れて、生垣の影などを窺う。雛菊の安否確認はシャナに任せ、侵入者の痕跡を探るのだ。

 何かがいるか確信はない。むせ返る花の匂いに感覚も鈍る。ただ夜目はいいので光の届かない場所も丹念に覗き、ふと鼻先についた幽かな匂いに敏感に体が反応した。


「――シャナ!」


 生垣の向こう側の列にいたシャナを呼び、アサドは異変のある場所へ駆け寄る。

 目が良くて良かった、僅かでも嗅覚が戻って良かった。この時ばかりは己の超越した五感に感謝する。


「ヒナギクが見付かったかい」


 駆付けて真っ先にそうシャナは言ったが、アサドの状況を見て、そこに雛菊がいない事を察知した。

 アサドの腕には、頭から血を流し気を失っているランフィーがいた。茂みに突っ込んだからか髪や服には小枝と葉っぱが絡みついている。


「シャナ! ランの手当てをっ」

「ああ、分かってる」


 委ねられるランフィーの体を片手で支え、シャナは手を翳して傷の治療にかかる。出血量より大した傷でもなさそうなのが反応からも分かり、安堵した。


「誰にやられたんだ?」

「俺も知らねぇ。ただ、何かから逃げながら俺にある事を伝えようとしたみたいだな。俺を見付けた途端安心したのか気ぃ失いやがるから内容は分からねぇけど」


 そう言ってアサドは近くの植木に飛び移る。少しでも高い所で相手の気配を辿ろうと試みるためだ。

 そんな事をせずとも追手はすぐに現れた。

 突然シャナの目の前に起こった小さな竜巻のような旋風。周囲の草花を巻込み渦を作ったかと思うと、風は突然凪いで、その中心には華奢な人影。

 花の香を纏う長い紫暗の髪。長い睫毛が頬に影を落とし、俯き加減にシャナを見下ろす一人の美しい少女。

 表情なくシャナを見つめていた少女は、口角のみ吊り上げる形だけの微笑を作って小首を傾げた。


「……お久しぶり。シャナ、様?」


 シャナは信じられないと言った風に目を見開き、少女から目を離さずにただ固まった。それはアサドも同じで、その人に駆け寄りたい筈なのに体は縛りつけられたかのように樹上から身動き取れずにいた。

 見間違う筈はなかった。最初、懐かしい匂いにまさかとは思っていたが、思い過ごしではなかった事を知った。

 見間違う筈もない、不思議な色に染まった生まれつきの紫暗の髪。白磁のような白い肌。彼女が好きだった薄桃色のドレス。


「ニタム――……」


 シャナとアサド、二人は離れた所で同時に同じ人の名を呼んだ。

 

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