06.夜会と庭と王子様
星を集めて飾り立てたとでも言うようなを見た事もない豪奢なシャンデリアを見上げ、あまりの眩さに雛菊は目を細めた。
室内に星でも散りばめたかのような明りの下、ダンスホールにはそれぞれが思い思いに着飾ったパーティー客で賑わっている。殿方は燕尾服姿の貴族やマントの下から勲章を覗かせた将校など位ある者が集い、淑女もまた胸や背中が大きく露出した華やかなドレスで己を飾って見知った相手と和やかに会話を楽しんでいる。
脇では給仕やメイドが慌ただしく来賓客の対応に当たって慌ただしい。運ばれる料理も豪勢で、何種類も用意されたアルコールには雛菊は匂いだけで酔った錯覚を覚える。
今夜は件の王家主催の夜会の日。
全てが別世界だった。
まるで中世を舞台にしたハリウッド映画でも見ている感覚だが、これは現実で雛菊は視聴者でもなければエキストラでもない。この華やかな世界の本日の主役なのだ。
そして、その主賓の雛菊とアサドは夜会の頭からは参加せず、軽い晩餐を別室で済ませてからホールの階上から優雅に機を見ての登場予定となっている――のだが、改めて自分の舞台を見直して雛菊は不安のあまり隣りで窮屈そうに襟元を弄るアサドを見上げた。
鮮やかな真紅の騎士服を身に纏ったアサドはいつも以上に華やかで、礼服の効果か頼もしさが増して見える。少なくとも王子という身分で夜会参加が初めてということはないだろう。アサドを寄る辺として裾を握った手は情けなく震えていた。
「やっぱり無理だよアサド君。あんなハリウッドばりな人達の中にこんな極東のアジア人が溶け込める筈ないって」
「ハリ……なんだって? ヒナの世界の基準じゃ俺には分からねーっての。つか大丈夫、一流の美容班が更に磨きをかけたんだぜ。十分、可愛い且つセクシー。自信持てよ」
軽く背中を叩かれて雛菊は小さく唸る。
原因としては用意されたドレスにも問題があった。
唯一無二のセラフィムをそこらの子女より見劣りさせては王宮の美容班の名折れだと言わんばかりに力が入っていた。
まるでウェディングドレスのような純白でノーブルなAラインドレス。トップ部分がデコルテを見せるワンショルダーでストラップ部分はリリィローサを象っている。ウエスト手前部分には大きなリボンをあしらい、ふんわりと膨らんだスカートは光沢と透け感のある布地でタッキングとティアードフリルを組み合わせて可憐に咲き綻ぶ花のような仕上がりだ。
ヘアスタイルは普段通りのダウンヘアだが、緩やかに巻いた髪に白と薄紅の真珠が編まれて動く度に朝露を含んだ花のように光沢を放つ。普段殆どした事のない化粧もされ、蜜のように甘いグロスを塗られた唇はまるで自分の一部ではないように落ち着かない。
「高校生には大人っぽ過ぎるんだよ。もう嫌だ、恥ずかしい。部屋に帰りたい……」
泣き言を吐きながら首を振る雛菊の肩をしっかり抱いて、アサドは逃がさないと意地悪く笑う。
「俺だってホントは嫌なんだぜ。その俺が主賓の所為で逃げられないのに、ヒナの逃亡を許すと思うか?」
「私は道連れなんだね」
「そうそう、一連託生。婚約者同士の仲には相応しいじゃねぇか」
安心させるように金色の瞳を優しく細めるとアサドは恭しく雛菊に左腕を差し出した。腕を取れという事なのだろう。ホールへと続く階段の中程では琥珀紺のマントを翻したウルが「早くしなさい」とアサドに催促している。
セラフィムとして名乗るからには今更引けない大舞台だ。
アサドの力になろうと、セラフィムの名を利用した。それが人々の目に晒されようとも、そこから逃げる事は決意に反している。
今ある自分の役割を演じる必要があるのだ。
雛菊は意を決して階下を睨むと、薄手の総レースグローブを通した右手を、そっと差し出された左腕に乗せた。それをアサドが満足そうに微笑い、雛菊をリードして階段を降る。
真紅の絨毯で続く道を一段一段と踏んで行く。
周りを見る余裕などない。それでもざわついていた会場が、一斉に息を飲んで静まる瞬間を聞いた。
この場に集まった人々は一体何を見ているのだろう。
一晩の魔法をかけられた、セラフィムという幻だろうか。
真夜中になればガラスの靴を残して消えてしまないだろうか。などとぼんやり考えながら、雛菊は眩し過ぎる会場に今度はゆっくり俯いて光を逸らしたのだった。
「まぁ、何て愛らしいお嬢さんなのかしら。貴方がアサドさんのジオンのヒナギクさんなのね」
招待客の前に姿を現せてから間もなく、フワリと甘い白粉の匂いを放つ女性が祈るように両手を合わせて雛菊に声をかけてきた。
穏やかに垂れ下がった目に、ぷっくりと膨らんだ唇。少しふくよかな体に、小振りな目鼻立ちは決して美人とは言えないのだが健康的で温かな魅力のある女性だ。
「アサドの婚約者」という肩書きにどう反応を示したら良いか雛菊は悩む。肝心なアサドは姿を現した瞬間に、レオニス国王の傍を固めていた側近達に掴まり堅苦しい挨拶を交わしていた。アレがいずれ「セラフィムの自分」にも来るのかと思うと気が重かったが、今もそれなりに困る状況には違いない。たった今話しかけている女性の他にも、次は自分がと機を窺っている者がまだいるのだから。
「あの、えーと、初めましてこんばんは」
無難に挨拶をと思いながら、雛菊はスカートを持ち上げて膝を少し曲げて自分がイメージする社交界用の挨拶をしてみる。それを見て女性は柔らかい笑みを浮かべた。
「ごめんさい。緊張させてしまったかしら? あまり堅苦しい挨拶はいらないから楽にしてちょうだいね」
笑うと笑窪の出来る女性は、手持ちの扇をパタリと閉じて改まって雛菊を見据える。
「ご挨拶が遅れまして、わたくし、ウル・グルラが妻のメイズと申します。アサドさんの義理の姉と言えば分かりやすいかしら?」
「アサド君のお義姉さんですか!?」
驚く雛菊にメイズは「だから仲良くして下さいね」と、優しく語りかけるような言葉に雛菊は僅かに緊張が解ける気がした。
温和な口調に柔和な顔は警戒心を解きやすい。おまけに雛菊がこれまでに出会って来た人はレオニス国王を筆頭に、チェリウフィーやランフィーと気も灰汁も強い人ばかりだったから一入だ。
「今夜はこの場に慣れないヒナギクさんの助けになって欲しいと主人に頼まれましたの。だからヒナギクさん、遠慮なく私を頼って下さいましね」
「そんな、ご主人に悪いですよ」
「あら、お気になさらないで? わたくしも貴方とお話をしたくて喜んで引き受けましたの。だから断られる方が心苦しいわ」
コロコロと鈴を転がしたような笑い声。小粒だが大きな虹彩は愛玩動物にも似た表情で、それを前に次第に雛菊は自分の頬が緩むのが分かる。メイズは雛菊の緊張が和らぐのを確認すると、ふくよかな手で腕を引張って壁際に設置されている布張りの長椅子に腰を下ろした。
「立ち話も疲れるでしょうから、ゆっくり休めるこちらでお話をしましょうか」
ニコニコとよく微笑う彼女は多分年の甲は三十路を越えているように見えるのに、十代の少女のように愛らしい。
メイズは給仕が運んで来たジュースのグラスを受け取り、ゆったりとした寛ぎモードでもう一つのグラスを雛菊に差し出す。
「ご一緒にいかが?」
「頂きます」
鳥を模した銀のグラスマーカーが鈍く光るグラスを受け取り、雛菊は落ち着いて腰を据える。
視界を低くすると談笑する招待客はとても忙しなく見え、まるで自分だけが窓の外から眺めているだけのようで変な気分だ。
さっきまでセラフィムに一声かけようと落ち着きのなさそうだった人も、もう雛菊の事を気に掛けている風ではない。
「意外に皆さん、ご自分より下の視界にまで意識を寄せないのですわ」
まるで雛菊の疑問に答えるかのようにメイズは言って、またニコリと微笑った。
「だからその間はわたくしが未来の義妹を独占ですわね」
「義妹って私はまだ――……」
慌てて否定の言葉を挟み、雛菊は渋い顔で甘いジュースと言葉を飲み込む。
都合上、表向きはセラフィムはこの国の第二王子のアサドと婚約中である。それを誰の耳があるか分からない中で否定をする訳にもいかなかった。そこには雛菊の意思以上に政治が絡むのだから仕方がないと理解している。ただ気付かぬ内に外堀が埋まって来ている気がして、つい顔をしかめた。
「……そんなにセラフィムとアサド君の結婚は喜ばれるんですか?」
「勿論ですわ」
口をついて出た雛菊の疑問にメイズはきっぱりと即答した。
「セラフィムはどんな願いも叶える至高の花ですもの。民の上に立つ方が手に入れたとなれば、国の繁栄は約束されたも同然。セラフィムの力で国造りを成した話が語り継がれるくらいですからね。――戦が起こりそうな不安な情勢の中では殊更に……」
「戦……」
この前もメイドの口から耳にした不穏な単語に雛菊は眉をひそめる。
一見、目の前のきらびやかなパーティーからはそんな世界は別次元のような話のようだが、よく注意をして見てみればアサドの周りに輪を作る人達は何処か物々しく感じられる。ホールの出入り口付近にも警備に当たる兵士が複数立っているし、何よりレオニスのすぐ背後に立つチェリウフィーがすっかり騎士の顔になっているのだ。
「大臣達は、こんな警備の中でも無理に夜会を催してセラフィムを誇示したいのでしょうね」
初めて表情を曇らせたメイズが重い息を吐き出す。
「この国の民は十年前の戦を覚えていますから、その当時の英雄とセラフィムの婚儀は何よりの希望に映るのですわ」
「私が希望ですか?」
「えぇ。この国の未来ですわね」
またもやきっぱりとした返答に雛菊は複雑な心境だった。自分の意思の及びもしない所に進んで行く物語を読んでいる感じで、背中にズシンと重しが乗っかっているような気がした。
「――あら、どうかしたのかしら」
不意に声音を元の柔らかい色に戻してメイズが立ち上がる。
彼女が見詰める先には、琥珀色のマントを翻したウルがこちらに向かって歩み寄って来る所であった。
「ウル様、いかがなさいましたか?」
「すまないメイズ。セラフィム嬢を君にお願いしておいて何だが、少しこちらを手伝ってくれないか? ケレス卿が君を直に祝いたいと仰せなんだよ」
「まぁ。ケレス卿のお気持は嬉しいけれど、ヒナギクさんをお一人には出来ませんわ」
「だからアサドが入れ替りに来る所だよ。ほら、今見えただろう。せっかくの夜会なのだから二人並んでる姿をよく見せるのも必要だろうしね」
「またそんな屁理屈を……」
「そんな訳だからセラフィム嬢、我が妻を返して貰うよ。君には愚弟を返すから」
「え、あ、はい」
目尻の黒子を下げ、ちっとも悪びれた様子もなくウルはメイズの肩を抱いて輪が元へと引き寄せた。それをメイズが申し訳なさそうに雛菊を見詰めて肩を竦める。
「許してちょうだい。この人、わたくしの妊娠が嬉しくて仕方がないみたいなのよ」
「え! じゃあメイズさんのお腹には……」
「二ヶ月らしいですわ。結婚して何年も経つけど、初めての子だから浮き足立つのでしょうね」
「当たり前だろう。君と私の子なんだから」
喜んで何が悪いのかと言いたげなウルをメイズは優しく受け流しながら、再度雛菊を見やる。
「ヒナギクさん、母になるわたくしもやはりセラフィムがアサドさんとご成婚されるのは嬉しいわ。でもね……」
「メイズ、ほら早く」
ウルに急かされてメイズは困り顔で少し笑い、雛菊に申し訳なさそうに会釈をして最後に言葉を残した。
「でも、ヒナギクさん。結婚は好きな人とが幸せよ。貴方にもそれをしっかり選んで貰いたいわ」
「――はい」
メイズの言葉は嬉しかったが、雛菊は複雑な面持ちで一拍おいて頷く。メイズはそんな複雑な気持も汲取り、もう一度頭を軽く下げて人の輪へ入ってしまった。
「好きな人と結婚……か」
呟いて雛菊は公式の場だからと左手の薬指にはめたアサドからの指輪を眺める。
ほんの数日前まではそれは簡単で当たり前の事のように思えていたのに、今ではやけに難しい事のように感じた。
視線を上げると早足で人混みを縫って駆け寄って来るアサドを見つけ、胸が痛く苦しくなるのであった。
* * *
「休憩がてら、庭園でまったりしねぇ?」
アサドの提案に、初めは二人きりになるのは気まずいと思った雛菊だったが、慣れない夜会の空気に居座るよりは幾分気が楽な気がして頷いた。
庭園はホールを抜け柱廊を渡った先にあり、広大で立派な造園に雛菊は目を奪われる。ラス・アラグルが湾岸沿いに建つからか遠くからかすかに潮騒が聞こえ、だいぶ心が安らいだ。
アサドとも最初の気まずさなど何処吹く風と、見慣れぬ樹木を指差してあれこれ聞きながら率先して庭園を散策する。並木を縫った小道をなぞって行くとその中央には仄かにライトアップされた噴水が幻想的な光景で、夜でも視界は良く、見る者を楽しませる造りに雛菊はあちらこちらを見渡しては息を漏らす。しかし、慣れないドレスとヒールに軽く躓いたのを見兼ねたアサドに手を取られた。
「お姫様、少し休んだらどうですかね」
「はい、そう致します。王子様」
ふざけ合った掛合いでそう答え、雛菊は噴水の脇に設置されたベンチにヒールを脱いで膝を折って腰掛ける。
「わちゃー。やっぱ靴擦れしてるよ」
「俺が唾付けてやろうか?」
「遠慮しときます」
舌を出すアサドの名乗りに雛菊は首を振って傷んだ足を気休め程度に左手で押さえる。途中、やけに足が一部ひんやりすると思ったら、薬指の指輪に気付いて慌てて抜き取った。
「良かった、血は付かなかったみたい」
アサドの大事な形見の指輪なのに汚してしまっては申し訳ない。安堵する雛菊を横目に、一部始終を見ていたアサドはくすりと笑う。
「そんなに重く見るこたぁねぇよ。これはもうヒナのもんなんだぜ?」
フワリとアサドは雛菊の左手を取って、我が身へと抱き締める形で引き寄せた。
「ア、アサド君っ⁉︎」
アサドに抱き締められるのは何もこれが初めてではない。けれど出会ったばかりの頃と、アサドの気持を知った今ではその行動がもたらす意味は大分異なり、余計に雛菊を混乱させる。
「アサド君、離して……」
困った雛菊は顔を上げて訴えるが全く意に介されない。力で押し離そうとも、男の、取り分け一般人以上に逞しいアサドに敵う筈もなく、結局は抵抗空しく腕の中に収まった。固くて大きい左手が雛菊の肩に添えられて、まるで逃がさないと誇示するように包んでいる。
素肌を晒した肩を覆ったアサドの手。そこに先程足に触れたのと同じ、ひやりとした部位がある。抱き締められて目線の定まらない雛菊は自然とその手に目が行き、アサドの薬指に収まった指輪に気が付いた。
琥珀色の石がはめ込まれた指輪。
見覚えのある指輪だった。雛菊が預かった指輪と似てはいるが太さやディティールは男性もので、記憶違いでなければその指輪はランフィーから時間を貰う為に人質代わりに渡した品だ。
「気になるか? ヒナの指輪の対になる指輪だぜ?」
視線に気付いたか、アサドは説明しながら雛菊の指輪を抜き取り、自分の指輪と並べて月明りに映し出す。二つの指輪の琥珀色の石の指輪が鈍く光った。
「きれい……」
思わず口から漏れた言葉に、アサドは満足そうに口許を緩める。
「そういや話してなかったけど、このプレヤード・ジオンは元は一つの石だったんだ。二つが揃って本当の力を発揮するって逸話があるやつだ」
「それじゃあアサド君の指輪も、もう一つの形見?」
「まぁな。だから要はさ、ジオンが婚約に使われる訳はそんな理由なのよ。二人が夫婦で一対って、そんな感じだろ?」
そう言ってアサドは雛菊の指に指輪を戻し、そのまま流れるような動きでその手を搦め取って指先に唇を落とす。その上わざと息を吹掛けて煽るように僅かに舌先で舐めた。
「――っ」
不意打ちの愛撫に雛菊は息を飲む。
宵闇の中でも分かるくらい紅潮する頬に、高くなる体温。
早くなる呼吸から伝わってしまう緊張。
その緊迫感すらどこか甘ったるく、抱きすくめられ顎を掬い取られても拒絶が出来ない。
「なぁ、そろそろマジで俺のもんになんねぇ?」
「アサドく――……」
耳元で囁く低温に雛菊は背筋を震わせ、更に近付くアサドの顔に再び息を飲んだ。
雰囲気に浮かされている場合ではない。
迫る吐息にキスをされるのだと恋愛経験に乏しくても分かる。と、同時に反射的に寄せられた唇を手で覆ってそれを防ぐ。アサドの眉間には皺が寄った。
「……ケチ」
「ケチって何⁉︎ 心の準備もなしで酷いのはアサド君の方でしょ! わ、私、婚約とかセラフィムとか戦争とか、色々頭が痛いのに……それに、まだ恋愛とか真剣に考えた事なくて、よく分からないのに、そんなに急かされても……」
困る、と、呟いて雛菊は本気で泣きそうになったのでさっと俯く。
アサドの顔がまともに見れなかった。心臓は早鐘のように、胸の中で忙しなく鳴り響く。
「俺の事、嫌いか?」
俯く顔を、アサドに顎を引いて持ち上げ尋ねられ、雛菊はそれでも顔を横に逸らして振り払う。
「そんな聞き方は、狡い。その質問には私、嫌いじゃないとしか答えられないよ」
答えて、雛菊はキュッと唇を噛み、更に言葉を編む。
「アサド君には悪いけど、やっぱり、まだ私は恋とかはっきり気持が分からない。それ以上に考える事が多過ぎて、頭が追い付かないんだよ。それに、今、とても恥ずかしい気分なの」
「こうやって俺に迫られるのが?」
茶化すようなアサドに、雛菊は首を振って否定する。
「これも恥ずかしいけど、そうじゃなくてさ。とにかく、恥ずかしくて不安で、自己嫌悪なの。セラフィムだってシャナとアサド君に言われて、大した特技もない私にも役目があったんだって正直嬉しかった。だから多少は無茶しても冒険がしたくて、お城にセラフィムと名乗って乗り込んで、それを今更後悔してる自分が、凄く恥ずかしいの」
「セラフィムは重荷か?」
その問いに雛菊は少し考えて、ゆっくりと頷いた。
「私は、覚悟も考えも足りなかった。此処では殆どの人が私をセラフィムって呼ぶの。セラフィムが戦争の抑止にもなれば引き金にもなるなんて知らなかった。セラフィムとして崇められて、セラフィムとして王子様と婚約してさ。私は何一つ特別な力は持ってないのに……。それでも、セラフィムとしてこんなに着飾っている自分が、凄く情けなくて恥ずかしいんだよ」
長い言葉を言い終えて、雛菊はふと息を零す。唇がやけに湿っていて、しょっぱいと思った。頬を拭うと、水滴が掬い取れ、漸く雛菊は自分が泣いていた事に気付いた。
「あれ、やだな、いつの間に……」
慌てて目許を拭い、鼻を啜って雛菊は照れ臭そうにはにかんだ。金色の瞳でその様子を見詰めるアサドと目が合う。
「それで、セラフィムとして悩む事が多いから俺の気持ちを考える余裕がない?」
「考えてるよ、アサド君の気持ち、嬉しいよ。初めての告白だもん。でもね、アサド君との事を考えると結局はセラフィムの方に思考が行っちゃうの。酷いでしょ? 怒ってもいいよ。私が悪いんだもん」
雛菊は明るく笑って振る舞おうとしたが、唇が変に歪み、出来損ないの笑顔になった。アサドは笑わない。
やはり怒っているだろうか。当然だろうなと、雛菊は息を吐いて肩を竦める。
アサドが何も言わなかったので、てっきり本当に怒っているのだろうと思った。雛菊はどんな文句を言われるのだろうと覚悟を決めて待っていると、ふと体を傾けたアサドが口付けをして来た。
「――悪いと思うなら、これくらいは許されるよな?」
「なっ……」
思わず雛菊は口を塞いだが、もう遅い。先程の攻防も間に合わず、あっさりと初めてのキスを奪われてしまった。
「ヒナが悪いんだぜ? キスしたくなる顔してるから」
「そんな顔、してないよ」
意地悪く口の端をあげるアサドに、雛菊は腕を突っ撥ねて逃げようとする。しかし、アサドはそれを物とはせず、雛菊の両手首を掴み取って再び唇を重ねた。
触れるだけの先程のものとは違い、今度は何度か角度を変えての深いキス。
「――んっ」
息苦しさに漏れた熱っぽい吐息がまるで自分から出た声に聞こえなくて、雛菊は顔を赤らめる。
最後に、強く抱き締められて「愛してる」と囁かれた時は、我慢していた筈の涙がまた零れてしまった。
困った時に泣くのは嫌いだった。
泣いたって何も解決しない事を分かっているからだ。
でも、どうしても溢れてしまった。
泣く事で頭の中を乱すものが一時でも静まるから楽なのだ。
その一方で胸の奥で小さな歪みが生まれているのに気付いていない訳ではない。
まだ、気付かないようにしていただけだ。




