彼女の惚気と不信感
ふわりと舞う桜の花弁の中に佇むヒロインは、まるで桜の精のようだと思ったことがある。
入学式のスチルの中で描かれた彼女は、桜と同じ色をした柔らかい髪を風に流しながら、学園が絶景として世界に誇る桜並木の背景ですら味方につけて、自分を美しく魅せていた。
すべてが彼女のために用意された舞台。それが此処、アイリステイル魔法学園だ。
入学式の会場の外では、ここ数年ろくに花をつけなかった桜が今年は見事に咲き誇って、この日と彼女の訪れを歓迎しているかのようだった。
季節は春。私達がとうとう魔法学園に入学する日がやってきた。
そう、ゲーム本編の開始である。
しかし、壇上ではゲームでは有り得なかったことにランスが新入生代表挨拶を読み上げていた。
ゲームでは攻略対象者であるこの国の第二王子が読み上げていたし、実際、その通りに今年は第二王子に新入生代表挨拶の依頼が行ったという噂を耳にしたのだが、ランスが入学試験で過去最高成績を叩き出したから話は変わってきたらしい。
第二王子のキャラは、一言でいうとチャラい。
十五歳で成人のこの世界で、十五歳を迎える前から娼館に通っていたり、特定の相手をつくらずに多数の婦女子に手を出したりと、女好きの遊び人として有名だ。
ゲームの中でも、授業はサボるし、テストは名前を書いて提出するだけだし、女人禁制の男子寮に余裕で女の子を連れ込むなど問題児だった。
実はそう見せなければならない理由があるだけで、本気を出せば優秀で真面目な人物なのだが。
馬鹿を演じて本気を出さない人物が、ゲームの中でこの国で将来を有望視されている新入生が行うことになっている代表挨拶をよく引き受けたなと思っていたら、どうにも王家のゴリ押しの結果だったようで、嫌がって逃げ回る第二王子に頼み込まなくても、今年はもう一人、身分も将来性も文句なく、何より試験成績が素晴らしいランスがいるからと役目が回ってきたということだった。
裏では、魔法学園の運営や教育に国代表として関わっているお義父様が「うちの息子のほうが優秀で適任だ」と大役を掻っ攫ってきたなんて噂もなきにしもあらずだが、素直じゃないお義父様のことは置いておいて。
文言が決まっている新入生代表挨拶をあまりにも情緒的に読み過ぎた所為で、周囲から感嘆の溜息と待望の眼差しを一身に受けたランスが壇上からにこやかに下りてきた。
紺色のジャケットに同系色のチェック柄のズボン、若干緩く締められた臙脂色のネクタイがランスによく似合っている。
まだ学園の制服に着られている感が拭えない新入生達の中でも数少ない、ランスは制服に着られていない側の人間だ。
カフスや白いシャツの襟に飾られた公爵家の紋章が、これがオルトランド公爵家の自慢の跡取り息子だと言わんばかりに輝いて見えた。
さらにオルトランド公爵家の血を間違いなく受け継いでいるとわかる銀髪がサラサラと揺れ、落ち着き払ったアメジスト色の瞳が、芸術的なバランスでパーツが配置された端正な顔をより魅力的なものにしていた。
諸々の事情で社交界に出席したことはないが、容姿だけでもあまりにも格好良すぎて、これはもう視線を集めて当然だろう。
だが、しかし。
コソコソと黄色い声を上げている未婚女性に加えて、静かに頬を染めている未婚ではない淑女達にも彼の左手薬指を見ろと言ってやりたい。
たとえこの世界に結婚指輪の概念はなくとも、彼の左手薬指にはエンゲージに加えてマリッジリングもはまっている。
私の左手薬指も同じものがはまっており、私の隣りに戻ってきた彼の顔が、私に褒めてと言っている。
……はっきり言おう。
これは、諸々の事情で蜜月を満足に堪能できなかった私による、世間に対するこれ見よがしの惚気である。
「ランス、お疲れ様。さすが私の素敵な旦那様ね」
「もっと褒めてくれていいぞ」
私の腰を引き寄せて頭に口付けを落とす彼もまた、自分の容姿をよく理解していると思う。
まだ後ろで聞こえていた黄色い声が、一気に悲鳴または落胆の声に変わった。
未婚の女性達がランスに甘い希望を抱く前に絶望してくれて何よりだ。
ふと、彼がよく不機嫌なときに放つヒヤリとした空気を感じ、ちらりと綺麗な彼の顔を見上げた。
ランスは大衆用に微笑みを保ちながらも、本人は頑張って抑えているのだろう殺気を放ち、決定的に目が笑っていなかった。
雰囲気が変わった原因を探れば、ランスが見詰める先には教師紹介で壇に上がったザイレがいた。
どうやらランスも、蜜月を十分に過ごせなかったことに対する不満があるらしい。
――あれから三ヶ月。
ザイレに宿った魔素の種を強制的に浄化させ、王都に戻ってきたあの日から三ヶ月経った。
聖都にいる間に結婚関係の書類の一部に期限切れが発生しているものがあって、また取り寄せたり、再提出したりしていたら、蜜月なんて一週間も残らなかった。
学園は王都にあるくせに特例を除いて全寮制で、三年間も男子寮と女子寮に隔てられて別々の部屋で暮らさなくてはならないのに、公爵家ではちゃんと書類が受理されるまではダメだとランスと一緒に夜を過ごすことを許してくれなかった。
しかも、なかなか書類が整わず、二人で先に新婚旅行を企てていたら、レゼが大聖堂で聖女としての指導を受けているヒロインに執拗に追いかけ回されたと泣きながら公爵家に避難してくるし。
その数日後にはエレノアが、レゼの姿が見えなくなったらあっさりとヒロインがザイレのほうに粘着対象を変え、ザイレもザイレで普通に接しているから一度してみたかった夫婦喧嘩をするなら今だと思って、という訳のわからない理由で家出してくるし。
エレノアを迎えに来たけど人間の感情をいまいち理解していない所為で当の本人に追い返されて落ち込むザイレを見兼ねて、嫉妬という感情を教えた結果、“喧嘩するほど仲が良い”を目の前で実践され、お前ら余所でやれと叫んだランスと私の苦労は報われても良いはずなのに、レゼも私達と一緒に学園に通いたいと駄々を捏ね始めるし、エレノアまで昔から学生生活が送ってみたかったと言い出すし、ザイレはちゃっかり自分も学園に教師として潜り込むとかそういうところだけは対応が早いし、いざ新婚生活だという段階になっても入学式は待ってくれないし。
イレギュラーばかりのこれまでの苦労を思って遠い目をしていたら、私を挟んでランスとは反対側に並んでいたエレノアとレゼに心配された。
学園の入学許可年齢を満たすため、十五歳の姿になった美少年美少女なこの二人に純粋に心配されたら文句も言えなくなる。
とりあえず二人には大丈夫だと言っておいて、今も絶賛続行中のランスとザイレの睨み合いに私も全力で参加しておいた。
恋人とのささやかな時間が経つのは早いものである。
入学式が終了し、新入生達はいくつかの班に分けられて寮に案内されることになった。
一時の別れを惜しむ間もなく、ランスは入学式に来賓として呼ばれていたお義父様に早々に連行されていった。
寮の部屋のことで話があるとのことだが、ゲーム通りならランスと同室になる予定の第二王子の素行について面倒をみろとでも言われているのだろうか。
「リリア姉?」
「あ、ごめんなさい。荷物を運んでくれてありがとう、レゼ」
「ううん。それじゃ、オレ達は家に行くね」
「ええ。また明日ね」
寮に入らなくても良い特例条件を満たしているレゼとエレノアが手を振って、目の前から空間魔術で消えた。
家族が学園教師の場合、学園敷地内に教師用の家が一軒与えられるので、入寮が免除されるのだ。
これを知っていてザイレが教師枠で学園に入ったなら随分な策士だと思っていたが、聞いてみたら本当の策士はお義父様のほうだった。
一般的なことには常識外れでそんな風には見えないが、ザイレは神官長としては各国に高評価されている。
空間魔術で全国何処でも指先一つ鳴らせば移動できるし、そこら辺の魔物や盗賊など歯牙にも掛けない強さなので、重宝されていたというべきか。
教会に本物の女神の力を持った新しい聖女が来たことで、稀な魔術特性を持っていてなかなか聖女を辞められなかったエレノアがもう働かなくてもよくなったこのタイミングだ。
エレノアと一緒にザイレも教会を辞めようと考えていたところを、他国に獲られる前にお義父様が魔法学園の教師として王国に引き抜いた、と。
ザイレは私達を拉致監禁したり、息子や妻が公爵家で世話になったりと、お義父様にはなかなか頭が上がらない様子だ。
「お前達親子はよく似ている」と、私とお義父様を見てザイレは溜息を吐いていた。
何故、そこでランスじゃなくて私を見るのか。
お義父様は満更でもなさそうな表情をしていたが、私はさっぱり意味がわからなかった。
意味がわからないといえば、女子寮に到着してから渡されたこの鍵もそうだ。
私に渡された寮の部屋の鍵には、ゲームの中のリリアとは違って、最上階のある一室のナンバーが刻まれていた。
寮は基本的に二人で一部屋で、学園内では貴族だろうと平民だろうと身分は関係なく皆平等とされているが、貴族の家同士の摩擦は懸念されていて、お義父様が寮の部屋割りやクラス分けに少なからず関与しているから、悪いことにはならないだろうと高を括っていたのだけれど。
部屋に辿り着いた私がノックすると、やはり生来の美しい金髪を綺麗に結い上げた青い瞳の貴族令嬢が、自ら扉を開けて出迎えてくれた。
荷物を床に置き、貴族の決まりに従って、私は制服の裾を摘まみ上げてゆっくりと腰を落とした。
「お初にお目に掛かります、レイスリーネ・フォルスクライン様。この度、同室させていただくことになりました、リリア・オルトランドと申します」
「顔を上げてくださいまし。この学園内では身分は関係ありませんわ。同じ年齢ということですし、今日からよろしくお願いしますね。リリアさん」
この国の第一王子――いや、今は第二王子の婚約者となったフォルスクライン侯爵令嬢が私に笑いかけてきた。
差し出された手には笑顔で応じながら、胸中では複雑な思いが駆け巡る。
この侯爵令嬢は、ヒロイン次第では魔素の種に貫かれて死んでしまうかもしれないのに。
私達がゲーム通りに魔法学園に入学したのは、王都を本拠地とする高位貴族である以上、この学園を好成績で卒業しなければ、他の貴族達に侮られるからだ。
私達の目的は学歴であって、もう私達が他の攻略対象者達に介入することで容易く誰かを救えるとは思っていない。
それなのに、あえてこの部屋割りにした理由は――。
同じ部屋では、死ぬかもしれない人間だからと避け続ける訳にはいかず、何らかの感情を特別に抱かないことは無理だ。
私に同じ空間で過ごした人間をまた永遠に失う悲しみを味わえというのか、それとも失くさないために尽力しろというのか。
そう考えてしまうのは、私のただの自意識過剰な被害妄想からくる杞憂ならば良いのだが。
ザイレの件でランダム要素に介入してきた誰かがこの部屋割りに関わっているという線もなくはないが、そうだとしても私達の事情を知るお義父様が調整役でいるから止めてくれると思っていたのに、こうなっているということは、杞憂じゃなければ、お義父様自身が私にそれを求めているということで。
父や母を亡くしたときの、傍にいた誰かを失う悲しみをもう一度?
部屋に帰っても、見慣れた人影が見つからない寂しさをもう一度?
――何となく理解した。
ザイレが言いたかったのは、私とお義父様のこういうところだろう。
自分の思い通りに事が運ぶよう、相手の感情を誘導するところ。
ヒロインの恐怖心を余計に煽って運命以上の浄化魔法を引き出そうとしたりした付けが、このようなところで回ってくるとは思わなかった。
ちょっと自分でも、さすがにこれは嫌気が差した。




