彼女を不機嫌にさせるとこうなる
「私の分も生きて、お前だけはどうかいつまでもレゼの傍に」
そう言ってザイレがエレノアに差し出したのは、紅く染まった宝珠だった。
ザイレが延命の力があると信じていた、魔素の種が浄化された証の宝珠。
ザイレがそれを身に宿したのは、もう何十年も昔のこと。
私達が生まれる前の、まだ魔素の種がこの世界に放たれていなかった平和な頃の話だ。
魔界から女神の遺産を持ち出した魔族の反逆者を討伐する為にこの世界に来て、そして何とかその反逆者を殺して女神の遺産は取り戻したものの、自らも致命傷を負い、本能のまま魔界に帰ったザイレは魔王に問われた。
「汝、我に何を望むか」
ザイレは、反逆者に捕えられていたある少女を思い浮かべて答えた。
「共に生きたいと願う者がいます」
魔王は部下の変化に少しだけ目を見開いて、ただ、玉座の前で永遠に水晶の中に閉じ込められても尚、己に頬笑んでいる愛しい女性からは視線を外さずに口を開いた。
「何を犠牲にしても、か」
魔王が発したその一言は自身に向けられたものではなかったのかもしれないが、それでもザイレは痛む身体に鞭を打って、最敬礼を以って肯定した。
それは、戦乱の果て、他の何を犠牲にしてでも愛する人を手に入れたいと願い、実際に手に入れることができた男への尊敬の念を見事に体現していた。
魔王はやがて薄く笑い、奪われていた女神の遺産――淡い光を放つ宝珠に己の力を通した。
透明だったそれが禍々しい力に染まる光景をザイレは血の少なくなった頭でぼんやりと見詰め、次いで襲ってきた自分の身体が捻じ曲がるのではないかと危機を感じるほどの圧倒的な力の波に身を委ねた。
もう一度、彼女の名を呼び、腕の中に抱き締めることができたなら、そこで死んでも構わないとさえ本気で想いながら――。
レゼのシナリオを思い出しながら、私は読んでいた本の最後のページを閉じた。
窓の外はいつの間にか夕方を通り越して夜だ。
こうして拘束されて一週間。
私が過ごしているベッドの周りに散乱する本は、優に三桁を超えていた。
監禁されて自由に動けるのは部屋の中だけというこの状況で、私にできることは限られている。
すなわち、誰も失わないよう考えて考えて、考えたことを実行する為に必要な物をどうにか交渉して差し出させること。
ゲームとは違った流れになってはいるが、問題の原因がゲームと同じであるなら考えられる対処法はいくつかある。
ゲーム開始前だからとれる、私が十年かけてゲームとは別の方法で魔素中毒を克服したような、シナリオ以外の方法が。
“大丈夫だよ。まだ時間はあるから”
かつて私達を支えてくれた父の言葉が、頭の中で何度もリフレインしていた。
本の読みすぎで凝り固まった全身をグッと伸ばすと、足に付けられた鎖がチャリッと無機質な音を立てた。
この鎖は私に付けられたときはただの鎖だったのに、もはや拘束用の魔道具と成り変わっていた。
ただの鎖に魔術をかけただけで魔道具に変化するなんて、本当に魔術は魔法の理論外だ。
本来なら魔道具はそれぞれに魔力の籠った材料にさらに魔力を加えて作製するものなのに、溢れんばかりの魔力に物を言わせて力押しでこうも簡単に作るなんて。
全身を解し終わって一息吐いたとき、タイミングを見計らったかのようにコンコンと扉が鳴った。
「どうぞ。今日の夕食は何? そろそろ良質な動物性蛋白質を食べたいのだけど。例えばお肉とか」
どうせ相手も用事もわかっているとばかりに言った私に、食事が乗ったトレーを持ってきたザイレは不機嫌そうな顔をした。
「見ればわかるだろう。それに今、聖都周辺では魔物が異常に強くなっていて、肉は高級品になっている」
「魔物ならその辺にいるんだから、狩ってくれば良いでしょう。いってらっしゃい」
「どこぞの次期公爵とは違って私は忙しいんだ。そんな暇はない」
そう。今、ランスは魔物狩りをしているのね。
ランスの現状をストレートに聞いても話さないのに、それとなく話題をそちら寄りにすれば、こうして鎌をかけられたことも気付かずに口を滑らせるザイレに私は内心を表情に出すことだけは抑えた。
ランスを守る防御魔法の気配は、この一週間、午前中は孤児院の一点から一切動いていない。
ただ、午後はいろいろな場所を動いているようで、何をしているのかと思っていたら、彼は牢を抜け出すか出してもらうかして、聖都周辺で魔物狩りをしているらしい。
大聖堂内で出される食事に、狩りの成果である新鮮な肉類が入っている味がしないということは、ザイレの命令ではなく、ランスが個人的に考えてやっているのだろう。
ザイレは村で私達がどう過ごしていたかなんて知らないだろうし、興味もなさそうだし、唯一、ランスが魔物狩りが得意だということを知る公爵家が、まだ教会に書類が受理されておらず、正式に跡取り息子であると宣言できないランスの情報を漏らすとも思えない。
特に平民の狩人の仕事である食肉用の魔物狩りが大得意だなんてことを貴族として容易に漏らさないだろうから、ザイレは実際にランスがそれをやっているのをここで知って発言したと考えられる。
村にいたときとは違って、ランスと相談ができないこの状況だ。
彼が何をしているのか把握して、何を考えているのか察して、私も違う方法で同じ方向に向かう必要がある。
その為にいかにこの頭の固い魔族から情報と譲歩を引き出すか。とても厄介で頭が痛くなる。
不満顔を取り繕って、渡された味気も栄養も大してない食事に手を付け始めた私を見下ろしながらザイレは深く溜息を吐いた。
普段ならすぐに退出してしまうのに珍しいことだ。
「人の部屋で憂鬱になる溜息を吐かないでほしいわ。神官長って随分と苦労の多い仕事なの?」
「……セルディオという騎士がお前達を探して教会に来た。只でさえ病人治療で忙しい中、あれこれ詮索されて迷惑している」
「自業自得じゃない。セルディオには二人で教会に行ってくると言ったままだから、行方不明ならここを探して当然よ」
「いないと言っても納得しない。自由に聖堂内を探させたが、見つけられないのに絶対にここにいるからと食い下がらない。すっかり居座られて、あげくに私の尾行までし出して仕事の邪魔だ」
私はつい一瞬止まってしまった食事の手を誤魔化すように、ゆっくりとザイレに向かって掌を上に向けた。
「白金貨一枚。それで簡単に追い払える方法を教えてあげるわ」
ザイレは指を慣らし、何処かの空間から取り出した白金貨を私に投げた。
白金貨一枚あれば豪勢な屋敷が一軒建つほどの値だが、さすがお金に価値を見出さないザイレだ。何の躊躇もない。
私はそれを一旦受け取ってから、思い切り振りかぶってザイレに投げ返した。
バジッと決して軽くはない音を立てて白金貨を受け止めたザイレが半眼で見詰めてきたが、涼しい顔で私は答えた。
「セルディオにそれを渡して、私が白金貨一枚分の価値がある物を欲しがっていると伝えて。できれば、手元で眺められる綺麗な物がいいわ。ここは退屈だから。そうね、来週聖都で開かれるフリーマーケットなんて狙い目かしら? きっと良いものがあるわ」
「物を手に入れたら、騎士はまた来るだろう。ここにお前がいることを認めてしまうことになる」
「馬鹿ね。もう私達がここにいることがバレているから、付き纏われているのよ。セルディオとお義父様には、万が一、この聖都内で私達をどうこうできるとしたら、空間魔術の使い手でこの世界最強の貴方しかいないって、王都を出る前に教えてあるから」
スッとザイレが雰囲気を変えた。
何故それを知っているのかとばかりに容赦なく放たれた射殺されそうなほどの視線は、しかし、何処か手加減しているようで私にとっては紛い物としか感じられず、私は不敵に笑って見せた。
「その理由を知りたい? だったら、今ここで私とランスの結婚を承認して」
「却下だ。大体、お前達をどうこうできるとしたら私しかいないことを知っていながら、お前はどうして私に対してそこまで傲慢でいられる?」
「傲慢? 失礼ね、これが貴方が決めた私の価値でしょう」
「私が決めただと?」
「そう。エレノアのあれほどの傷さえ完全に治すことができる私を貴方は殺せないわ」
それこそ傲慢に言い切った私をザイレは蔑み笑った。
「お前程度の力量の人間は探せばいる。私は偶々お前を見つけて利用しているだけに過ぎない」
「私のように何も事情を聞かず、大した抵抗もせず、無理に脅さなくても、貴方が使ってほしいときにエレノアを救う為の治癒魔法を使ってくれるような奇特な人間は、もう想定していた誰と比較しても貴方の頭の中に存在しないんじゃない? 貴方はエレノアの身体の中の傷まで気付くことができないから、そんな私に手を抜かせない為に私の要求をある程度叶えている。でも、私が治癒魔法を使う代わりに要求するのは、貴方が簡単に叶られる程度で、叶えても問題ないと判断できるくらいの些細なお願いだから、想像していたより貴方を煩わせることもない。私は此処で『ランスを返して!』、『ランスはどうしているの!?』、『家に帰してよ!』と鬱陶しく泣き叫んでみればいいかしら? そうしたら、貴方は私の物わかりの良さに気付いてくれる?」
ザイレは黙った。答えはそれで十分だ。
事情を知っている私にとっては、何処からどう見てもそれはザイレの強がりでしかないのだから。
「貴方はエレノアを愛している限り、とても協力的な私を手放せない。なんたって、私は、貴方が長年探し求めた高位魔力保持者で治癒魔法に適性がある、貴方に非常に都合の良い人間だから。私の願いを無碍にも扱えないし、ましてや、私が大事にしているランスを殺すこともできない。私が此処で大人しく言うことを聞いているのはランスの為だって、わかってくれているものね。何を犠牲にしても……たとえ自分さえ犠牲にしても、助けたい人がいるのはお互い様だもの。それがこの一週間で私が判断した貴方の中の私の価値よ。私を最大限に評価して、価値を認めてくれてありがとう」
私が止めていた食事の手を再開しながら素直に礼を言えば、ザイレは何も言わずに踵を返した。
その背中に追い打ちをかけるように、だが、あくまで独り言を装って私は呟いた。
「貴方はもうこれ以上、魔術制御回路を狂わせて死にかけるほど魔力が強い子供を攫って、手当たり次第に治癒に適性や特性がある子を探さなくても大丈夫よ。だからランスの邪魔をしないで」
「……二週間後だ。再び儀式を行う」
足を止めることはなく、ザイレは扉を閉める前に言った。
「とりあえず、ここにある本は全部読んだわ。また次、よろしくね」
扉が閉まった直後に要求を言ったが、ちゃんと聞こえていたらしい。
翌朝にはまたパチンと指先が鳴る音が扉の外から聞こえて、新しい本がバサバサと降ってきた。
――不器用だ。本当にどこまでも。
ザイレから渡された本は、ほとんど魔法薬や魔道具に関する物だった。
私は持ってくる本のジャンルを指定した覚えはない。
ランスと接触し、私が求めそうなものをランスに教えられていたのか。
どうか助けてくれ、と。
ザイレの無言のメッセージは、私にそう伝えていた。
二週間後、儀式の間で再会したランスは、何故かハーレムを築き上げていた。
「……これは予想外よ。さすが私の素敵な旦那様ね」
若干の嫉妬と本気の感想を込めてそう言えば、ランスは複雑そうに苦笑した。
「これは別に浮気じゃないぞ? なんか仲良く食事して、楽しく遊んでいたらこうなった」
「それを浮気と言わず何と言うの?」
自分の台詞を頭の中で字面にして悟ったのか、顔を引き攣らせたランスの両腕には、拘束のつもりか恋人よろしく腕を絡ませる女性二人がいて、その後ろにはバチバチと火花を散らしている大人らしくない大人達がいた。
その中に最初に会った治癒魔術使いの女性もいたが、以前よりもどこか艶々と肌に張りが出ていて、若々しく見えるのは気の所為ではないだろう。
あの時エレノアと共に助けた少年も混ざっていて、「ランスロット兄と次に遊ぶのは僕だ!」とか元気に言っているから、他の人間も身体は大人の孤児院の子供達だろうが。
本当、さすがランスだ。
この短期間でよくここまで、身体は大人でも、精神的に未熟な所為でふとしたときに乱れがちになる子供達の魔力を、こんなにも安定させられたものだと思う。
幼い頃の私に魔力のコントロール方法を根気強く、効率良く教えてくれたのはランスだ。
それと同じことをこの人数相手にやったのか。
すごくて、あのときが懐かしくて、ジッと見上げていたら、ランスは照れたように微笑んだ。
――空間を裂いて、レゼとザイレが現れた。
レゼは腕に大人の姿を取り戻したエレノアを抱いて。
ザイレは腕にボロボロの格好をした女の子を抱いて。
「……これで全員揃ったな」
ザイレの抱える女の子の顔を見ながら、ランスは小声で私に言った。
あれはゲームの中で六人目に犠牲になった少女。たしか名前はサラで、植物魔術の使い手だった。
ランスは調べたのだろう。この孤児院にいる子供の数と名前を。
そのランス曰く、これでレゼのシナリオに出てくる教会側の関係者が、全員此処に揃ったことになるということは。
「……まずはその子を救いましょう」
そして、本格的に始めましょうか。
私が口には出さなかった言葉に彼だけが頷く気配がした。




