第五十三話 浴室にて/夜間飛行
家に戻ると母さんはアンナマリーさんを快く迎えてくれて、スーさんも最初は少し驚いていたが、すぐに俺の仲間ということで、友好的に接してくれた。
夕食を終え、母さんに頼まれてソニアを風呂に入れる。三歳と少しのソニアはけっこう自分でも洗えるのだが、背中や頭を洗うのが苦手なので、兄として責任をもって綺麗にする。
「おにーたん、ありがとー。あわあわ、あわあわ~♪」
ソニアは石鹸の泡がお気に入りのようで、手で集めて息を吹きかけて飛ばしている。
無邪気だな……ちょっとおませなところもあるけど、まだまだ可愛くて、放っておけない妹だ。
「ソニア、流すから目を閉じてるんだぞ」
「あい! きゃーっ、ざばーん!」
頭からぬるめのお湯をかけてあげると、ソニアは手足をバタバタさせて喜ぶ。
この子が今のリオナみたいになり、そしてゆくゆくは大人の女性に……全然想像がつかないな。
「お疲れ様です、坊っちゃん」
「ヒロトくん、ボクもソニアちゃんと一緒に遊んでいい?」
「あ、おねーたんたち! お兄たん、おねーたんたちもはいるって!」
「っ……い、いやあの、スーさんは分からないでもないけど、アンナマリーさんはなんで……っ」
布をしっかり身体に巻いているとはいえ、扇情的な姿であることに変わりはない。やっぱり胸が昔より健やかに成長されており、谷間が見えるような布の巻き方をされると、その危うさに俺の本能が危険信号を出し始める。
(スーさんも一緒に同じような巻き方を……バストはもっとちゃんと隠しなさい!)
とても口に出せないので、心の声だけは厳格になる俺。そんな俺の葛藤などつゆ知らず、アンナマリーさんはソニアを抱っこして、湯船に入れてくれた。
「わーい! ありがとー、アンナおねえちゃん!」
「どういたしまして。ソニアちゃん、いっぱい遊んで大きくなりなよ。お兄ちゃんもそうしたら喜ぶから」
「うん! そにあ、早くおっきくなって、おにいたんのお嫁さんになりたい!」
「そ、ソニア……お兄ちゃんのお嫁さんはちょっと難易度が高いぞ」
「公国法では、貴族にあたる方の場合、血統維持の名目で妹との結婚は禁じられておりませんが……坊っちゃん、ご存知なかったのですか?」
「な、なんだって……!?」
ソニアがお嫁さんになりたいというのが、法で禁じられていない――なんて国だ。いや、基本的にはナシなのだろうが、法規制がない。俺は妹と結婚する気などない普通のお兄ちゃんなので、法律がどうなっていようとまるで問題がない。
そして俺は貴族にあたるというが、まだ貴族の義務の自覚がないというか、気持ちは村人のままだ。ジョブも村人だし。
「……おにいたん、そにあとけっこんするの、いや?」
(うぁぁぁぁぁ! そんな目で見ないでくれ、お兄ちゃんはわりと真剣に、普通の兄でいたいんだ!)
「そにあはおにいたんとけっこんしたい……そしたらおにいたんと、もっといっしょにいれるもん」
「うっ……さ、寂しい思いをさせてごめんな。お兄ちゃん、できるだけ家にいるようにするからな」
「ほんと!? まいにちそにあと遊んでくれる!? おうちでかくれんぼできる!?」
「か、隠れんぼか。お兄ちゃんから逃げきれるかな?」
「にげれるもん! そにあ、おとーさんにもつかまらないもん!」
元気なのはいいことだが、そうか……今、町に同年代の小さい子が少ないから、ソニアは遊び足りないんだな。
「あはは……ソニアちゃんには、ヒロトくんもたじたじって感じだね」
「あ、あの……二人とも、タオルつけたままだと身体が洗えないし、俺は上がった方がいいかな?」
――そこで俺は、スーさんとアンナマリーさんが、何のためにここにやってきたのかを悟った。
「……ヒロトくんには十回お礼しなきゃいけないから……一回目、背中を流してあげようと思って」
「私は……坊っちゃんのお世話をするのが、メイドの勤めでございますから……」
「そにあもおにいたんのことあらってもいい?」
23歳、22歳、3歳。しかしいずれも同じような目をして俺を見ている――なぜか3歳のソニアが一番切なそうにしているが、彼女はもしかしなくてもブラコンなのか。3歳で兄に対する禁断の感情に――というのは言いすぎだが、ちょっと俺になつきすぎていないだろうか。嬉しいけどお兄ちゃんはとても複雑だ。
「あ、洗ってもいいけど……スーさんとアンナマリーさんは、やった分だけやり返すからな」
「……坊っちゃんに洗っていただくなど……光栄の極みに存じます」
「ま、まあ……そうしたらおあいこだもんね。いいよ、ボクなんて、スーさんと比べたらたいしたことないし」
(全然大したことある……あるんですよお姉さん……!)
アンナマリーさんが好む革系の鎧を脱ぐと、鎧越しには目立たなかった胸の大きさがよく分かる。昔秘密の交流を持ったときの大きさと比べて、1.5倍ほどに成長している――こんな胸を抱えて、あのスピードで移動していたなんて。毎回戦闘力の高い女性と知り合うたび、驚かされる部分だ。
そんなことを考えているうちに、俺はスーさんとアンナマリーさんに促されて風呂場の椅子に座らされ、あれよと言う間に身体を洗われ始めていた――アンナマリーさんは後ろにいるからいいが、スーさんは横にいて腕を洗ってくれているので、とても正面から視線を向けられない。
「……坊っちゃんは変わらず純粋でいらっしゃいますね……こちらまで意識してしまいます」
俺との関係の変化について、スーさんはまだ黙っていてくれるようだ。いや、隠すつもりもないのだが、この状況で言うのも問題があるということだろうか。どのみち、今のところは伏せておきたい。
「ヒロトくんの背中、すごく広いね……でも、まだ少年っていう感じも残ってるっていうか。微妙なお年ごろだね」
「おにいたんのおなか、かちかちになってる。さわってもいーい?」
「お、お腹ならいいけど……ソニア、正面は危険だから、アンナお姉ちゃんと一緒に背中の方をだな……」
ソニアは俺の正面から身を乗り出し、俺の腰を覆ったタオルがずれようと気にせずに身を乗り出してくる。子供だからしょうがないが、大人になってもこのことを覚えていたら、兄妹の間に気まずい空気が流れてしまいそうだ。
「そにあもおおきくなったら、かたくなる?」
「ど、どうだろうな……女の人でも腹筋は割れるけどな」
ぺたぺたと俺の腹筋に触れてくるソニア。つぶらな瞳できらきらと憧れるような視線を送ってきているが、この幼さでそこまで腹筋に興味を持つのもどうかと思う。お兄ちゃんは妹が筋肉フェチにならないか心配だ。
「私も、それなりに鍛えておりますが……はっきりと割れているほうが、坊っちゃんはお好みですか?」
「い、いや、適度な方がいいんじゃないかな。マールさんでも、腹筋は割れてないんだよ。それでもあれだけ力があるからな」
「いろんな人のお腹をチェックしてるんだ……ヒロトくんったら、普通の冒険じゃなくて、女の人の方を冒険しちゃってるんじゃない?」
「ちょっ、アンナマリーさん、ソニアの前でその言い方はどうかと……っ」
「そにあもおにいたんとぼうけんしたい……ねえおにいたん、つれてって?」
ソニアが大きくなったら本気でついてきそうだ。一人で森に行けるんだから、成長は俺と比べても遅くはないだろう――と考えて、俺はソニアのステータスを確認しなければ、ということを思い出す。
一部が???となって伏せられていたソニアのステータスは、やはり対応する鑑定技能がなければ、全て見ることはできない。
(鑑定技能……どのジョブが持ってるかは分かってるけど。この町に、持ってる人がいるのか……探してみるか)
「……ソニアちゃん、お兄ちゃんのこと好きすぎない? ねえ、お兄ちゃんって優しい?」
「うん、やさしい! そにあがおふとんにはいってもおこらないし、ソニアのきらいなものたべてくれるし、だっこしてくれるし、おにいたん大すき!」
(その好意が純粋なものでありつづけるよう、お兄ちゃんはお前を守り続けるよ……)
「いいお兄ちゃんだね。布団に入っても怒らないし、抱っこしてくれるの?」
「うん、おとーさんよりじょうず!」
「ぶっ……そ、ソニア。そろそろ父さんがかわいそうだから、少しくらいお兄ちゃんより好きなところをあげてやってくれ」
「……おとーさんは、木をきるのがじょうず。あと、へんなかおをするとおもしろい」
「旦那様も、ソニア様から十分に敬愛されていらっしゃるのですね。それは何よりです」
「ふふふっ……あはははっ。なんかいいね、ヒロトくんの家族って仲良しで」
アンナマリーさんはそう言って笑うけれど、そのあとで、他の二人に聞こえないくらいの声で言った。
◆ログ◆
・《アンナマリー》はつぶやいた。「ボクもそんな家族が欲しかったな……」
アンナマリーさんの過去を知った今、彼女がどんな気持ちで俺たち家族を見ているのかと思うと、胸を締めつけられるものがある。
「……あの。アンナマリーさんは、眼帯を外されないのですか?」
「うん、気にしないで大丈夫。今はヒロトくんの背中を流しにきただけだから」
「あとで一人でゆっくり入るってことか?」
「そうそう、そういうこと。じゃあ泡を流すからね」
アンナマリーさんは桶で汲んだお湯を、俺の肩からかけて流してくれる。ソニアも泡まみれになっていたので、アンナマリーさんはソニアの耳をふさいでお湯が入らないようにしつつ、頭からお湯をかぶせた。
「はぅー! きゃはははっ!」
「ソニアちゃん、そろそろおねえちゃんと一緒にあがろっか。のぼせちゃうと、お母さん心配するからね」
「おにいたんとスーおねえちゃんは、まだいっしょなの?」
「うん。お兄ちゃんはスーお姉ちゃんの身体を洗ってあげたいんだって。ほら、お姉ちゃんはお胸が大きいからひとりだと大変でしょ?」
「ぶっ……あ、アンナマリーさん、変なことを妹に教えないでくれ」
そんな話をしていたところで、風呂場の引き戸がからからと開いた。
「ヒロトったら……そんな格好で、いつまで若い娘さんたちと話してるの? お父さんに怒られるわよ」
「か、母さんっ……!?」
ソニアを俺に任せると言ってくれていたのに、母さんはあまり遅いので様子を見に来てしまったようだ。
しかし今の話、どこまで聞かれていたことか……き、気まずい。
「スー、アンナマリーさん、私もご一緒していいかしら? 入ってきてから言うのもなんだけど」
「もちろんです、奥様。そちらにお座りになってください、お背中をお流しいたします」
「ありがとう、スー。アンナマリーさん、お風呂のついでに冒険の話を聞かせてもらってもいい?」
「あっ、は、はいっ! え、えーと、ヒロトくん、じゃあまた後でね。ここからは女三人水入らずってことですよね、お母さん」
「っ……お、お母さんって、よその娘さんに言われるとどきっとするわね。アンナマリーさんも、ヒロトとの将来を考えていたりするの? この子ったら手が早いんだから」
(ここにいると、針のむしろにされそうだ……しかし母さん……)
風呂場で見るのは久しぶりだが……昔サラサさんたちにコンプレックスを感じていた母さんはもういない。二人の子供を育てた結果、二十六歳にして、母さんは円熟を迎えていた。何がというのは息子として、はっきり口にすべきではないだろう。
「そ、ソニア、一緒にあがろうな。湯冷めしちゃいけないから」
「うん! おかーたん、おねーちゃんたち、またあとでね!」
ソニアは脱衣所に駆け出していく。その後についていく途中で、後ろから三人のやりとりが聞こえてきた。
「奥様……長らくお目にかからないあいだに、美しさに磨きをかけられましたね」
「やあね、こんなおばさんに向かって。スーもそうだけど、アンナマリーさん、ずいぶんしっかり布を巻いてるのね。そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに」
「いえ、ボクはちょっと事情があって……あとで一人で入らせてもらえますか?」
「照れ屋さんっていうこと? でも息子の前では随分大胆だったみたいね。あの子、何か粗相をしなかった?」
「そんなことは全くございません。アンナマリーさん、そうですね?」
「う、うん。何もなかったよ」
脱衣所でソニアの身体を拭いてやりながら、俺は風呂場から聞こえてくるやり取りに身悶えしていた。
◆◇◆
部屋に戻って休む前に、一日を振り返る。あまりにも密度が濃い一日だった――しかし疲労をほとんど感じない。空腹や睡眠不足が限界を超えるとライフが減るが、まだ減る気配がないので、元気が有り余っている。
まず朝にフィリアネスさんとクリスさんと一緒に領主の館に行き、セディと会談をした。明日になったら、フィリアネスさんに魔石鉱の採掘の件がどうなったか、新しい砦はどれくらいで建つのかを聞き、メアリーさんと今後の方針を相談したい。
『軍規』によって軍師の欲求を上官が満たすことになっているから、メアリーさんに助言を仰ぐたびに、何か見返りを求められてもおかしくない――こんなチートスキルを、身長小さめながら発育のいいエルフ少女に与えたのは一体誰だ。彼女を魅了した俺が悪い、それは認めよう。だがもっと悪いのは、あの時クリスさんにくしゃみをさせた環境だ。そうだ、俺は清廉潔白だ。自分で言っても空々しいので、自己弁護はほどほどにしよう。
――そんなことを考えていると、不意に頭の中に慣れ親しんだ声が響いてくる。
(……マスター)
(ユィシア?)
もう迷宮の奥から出てきて、念話ができる範囲にいたのか。いつから見守られていたんだろう。
(領主の館から出てきたあとはずっと見てた。スーと戦うところも、鍛冶屋に入るところも……森でハインツと戦っているときは、危なくなったら出ていこうと思ってた。でも、ご主人様なら大丈夫だと思った)
(……俺とアンナマリーさんだけでやれると信じて、見ててくれたのか。ありがとう、俺も何としてでも、自分の力でハインツに勝ちたかったから)
(ハインツが転移したあとの気配を追いかけることもできたけど、距離が遠くて、すぐ魔力の波動が消えた。あれは魔王の力……魔王はこの近くに来ていたけど、気配を完全に断った。完全に魔力を隠蔽すると、解放するにも手間がかかるはず。それでも隠しているのは、何か目的があるからだと思う)
今の魔力を隠蔽しているリリムを見つければ、簡単に倒せるのでは――そう思ったが、ユィシアが気配を辿れないということは、簡単に見つけることは難しいということでもある。
(私は魔王の気配が生じたらすぐに対応できるように、町全体を見てる。マスターは、自由に行動していい。町の住人も、マスターの周りの人たちも、私が守る)
(……そうか。騎士団も来てくれてるんだけどな……ユィシアも見ててくれたら百人力だ)
(……千人力と言ってもいい。人の子では何人集まっても、私に傷はつけられない……マスター以外は)
(ははは、まあそうだな。ユィシアがそんな冗談言うなんて、珍しいな)
ベッドに座ったまま、俺はユィシアに語りかける。彼女が人間の心の機微を理解し始めていると感じるたび、俺は何とも言えず嬉しくなる。
元の無機質な目をしたユィシアも例えようもなく綺麗だと思ったが、その目が感情の光を宿すようになっても、魅力は全く損なわれてない。むしろ表情が出てきた最近の方が、愛らしく見えて仕方がない。
(……皮を脱いだからかもしれない。大人になるほど、皇竜は魂に色がついて、個体としての自我が芽生える。私の中に刻まれた祖竜の記憶が、そう言っている)
(祖竜……? ユィシアの祖先のことか?)
(そう。全ての皇竜のはじまり、始皇竜レティシア)
今まで聞かなかったから、といえばそうかもしれない――しかし、俺にとっては驚嘆に値する情報だった。
(始皇竜……レティシア……それは、マザードラゴンとは違うのか?)
(それは……わからない。私の母は、私が仔竜のうちにいなくなってしまったから……)
(……そうか。ユィシアも、ずっと一人だったんだな……)
俺は彼女を仲間にするとき、調教をした。自分より強い彼女を仲間にしたい、そして限界突破の恩恵を手に入れたい――そんな思いで。
その時はまだ想像できていなかった。彼女を隷属させるということは、家族になるのと同じだということを。
(……私の家族は、ご主人様だけ)
(……もしかして、それで仔竜が欲しかったっていうのもあるのか?)
ユィシアの答えは、しばらく帰ってこなかった。意識は念話で繋がったままで、彼女が深く思慮していることが伝わってくる。
(……そうかもしれない。マスターが今言ってくれたから、気がついた。マスターは私の心を、私よりよく理解している)
(人の心を読む力は持ってないよ。俺ができるのは、本当か嘘かを見抜くことくらいだ)
(…………)
かすかに、ユィシアが笑ったような気配が伝わってくる。声を出さずに、本当にわずかに笑ったような気がするだけで、けれど確かに嬉しそうで。
(……私は人じゃないから、マスターは心が読める。マスターの言うことが、私の意志)
(俺の言うことが、ユィシアの意志か……じゃあ、一つ教えてくれないか。今夜のうちに何かしたいことはあるか?)
俺は立ち上がり、窓の近くに近づいた――すると。
夜空に浮かんだ、いくらか欠けた月。
その淡い光を浴びた、銀色の人の姿が見える。
銀糸のような髪を翻しながら、まるで妖精のように、人影は俺の部屋の窓の外――フィリアネスさんの屋敷よりはいくらか狭いバルコニーに降りたつ。
窓の鍵を外して、中に迎え入れる間に、まとった月光が軌跡を残すように見えた。その艶髪に見とれる俺の前に立ち、ユィシアは俺をいつものように静かに見返す。
夕焼けの湖で会ったときは髪がおろされていたが、今は編み込みをしている。俺が呼ぶとは思っていなかったと言いながら、彼女は身だしなみに気を遣っていた。それは、俺が呼んでくれるようにと期待していたからに他ならないと思った。
魔力で編んだ薄衣も、相変わらずよく似合っている――大人になったからか、一回り大きくなった胸を覆う部分は、見ていて少し頼りない。人目につく場所に出るには、気をつけないといけない部分だろう。彼女も俺の奥さんになる女性の一人なのだから、他の男に肌をあらわにした姿は見せられない。
「……マスターは、もう休むと思ったから。私も竜の姿に戻って、森のなかで寝ようと思ってた」
「じゃあ、起きてて良かったな……巣の方はどうだった?」
「眷属が守ったから、宝は大丈夫……全部そのまま。もしマスターが必要になったら、いつでも使える」
「ユィシアは宝が好きなんだよな? じゃあ、それは使わない方がいい。大事にとっておこう」
金の稼ぎ方は他に幾らでもある。しかしユィシアはいたく感激したみたいで、顔を赤らめ、目を潤ませている。
「……町を見ていたら、貨幣のことで目の色の変わる人間が沢山いた。マスターは違う」
「俺もお金を集めること自体は好きだよ。でも必要な分は貯まってるし、足りなくなっても稼げばいいと思ってるから。ユィシアの宝石には、金に変えられない価値があると思う。ユィシア自身にもな」
「価値……私に……」
ユィシアはよくわからない、という顔をしている。信じがたいが、彼女はあれほど強いのに、『自分の価値』ということには無関心だったようだ。
「ユィシアが脱いだ皮には、ものすごい価値があったんだ。でもあんな綺麗なもの、絶対金には変えられない。将来、家に飾っておこうと思うんだけど……」
「……恥ずかしい。マスターの部屋に飾るだけならいい」
「やっぱりそうだよな。分かった、そうさせてもらうよ」
「……マスターは、変わったものが好き。皮なんて、必要がないから脱いだものなのに」
竜の甲殻には宝石が含まれていることがあり、雌皇竜でなくても高値で取り引きされるのだが、ユィシアは別格だ。脱いだ皮がすべて宝石に変化するのだから。
「……人間の雌は、皮を脱がない。マスターは、竜の皮が好き。私の方が、人間の雌より好き」
「っ……そ、それは……」
「……どちらでも構わない」
ユィシアは言ってみただけ、というように微笑んでみせる。でも、彼女のことだ――思ったままを口にしたのだろう。
やはり竜である彼女は、人間に近づいたとはいえ、価値観は竜のものなのだ。それを今確認して、感慨を覚える――俺は、竜と気持ちを通じ合わせられている。
「……マスターに見せたいものがある。空を飛んでいたら、きれいなものが見えた」
「きれいなもの……?」
「宝石みたいに、きらきらしたもの。夜のうちだけしか、見られないと思う。一緒に飛びたい……来てほしい」
「っ……ゆ、ユィシアッ……!?」
ユィシアは俺の手を引くと、後ろを向かせて抱きしめる。突然で、けれど自然な動きで、俺は身構えることもできなかった。
そしてそのまま、彼女は後ろに飛ぶ――次の瞬間、浮遊感が訪れたかと思うと、俺は人の姿のユィシアに抱きしめられたまま、窓から夜空へと飛び出していた。
「うぉぉっ……!?」
「大丈夫。私に触れていれば落ちない。マスターは、竜に乗るのが上手になったから……こんなふうにしても、たぶん平気」
「っ……す、凄いな……これは……っ」
星空へと向かって回転しながら上昇し、急に背中から落下して――宙返りするように浮き上がる。
人の姿の竜が可能にする、物理法則を超えた飛行。けれど俺は、全く三半規管をやられることなく、落ち着いていられた――きっとそれは、まだ5しか取っていなくても、存在感を発揮している『竜騎兵』スキルのおかげだ。それを示すように、脳裏にログが流れる。
◆ログ◆
・あなたの『竜騎兵』スキルが上昇した!
「うぉぉぉっ……凄い……凄いよ、ユィシア……っ!」
「……喜んでくれてよかった。でも、それだけじゃない……下を見て」
「下……?」
星空と、目まぐるしく移り変わる空中の景色ばかりを見ていた俺は、眼下に広がる世界に目を向けていなかった。ユィシアは町の周りを静かにゆっくりと旋回しながら、俺に見せてくれる。
まるで、イルミネーションのようだった。
夜になると真っ暗になるはずのミゼールの町に、今日は明かりが残ったままだ。祝祭の日の、夜まで熱気を残した首都のように。
「これは……なんで、夜まで明かりが……?」
「……ミゼールの町は、今収穫の祝いをしてる。狩人と、農民のための祝い。町の明かりを夜遅くまでつけて、次の実りを祈って、働いた人々をねぎらう」
「そういうものなのか……俺、こんなに長く暮らしてきたのに、そんな催しがあるって知らなかったよ」
「大人にならないと、意味を教えてもらえない……そう町の人間が言っているのを聞いた。明かりを夜遅くまでつけておくと、豊穣を司る地の精霊が喜ぶらしい」
ユィシアはそのことを知って、この景色を俺に見せたかったのだろう。
翼を持つ者――そして、雌皇竜を従えている俺だけが見られる、煌々と夜の底にきらめく町の明かりを。
「なんか、クリスマスみたいだ……」
「……クリスマス?」
「俺が知ってる、人間の祭りだよ。神聖なものなのに、なぜだか、恋人同士が一番盛り上がるというか……俺には、縁がなかったんだけどな」
クリスマスを祝ったのは、前世でも子供だった頃までだ。
ゲームの中にも年中の行事はあったし、この世界にも、サンタクロースのコスチュームくらいはあるのかもしれない。コスチューム集めが趣味の麻呂眉さんのために、みんなでイベントクエストをこなしたことを思い出す。
浮かんだ月を背中に浴び、その青白い光を浸食するように、ユィシアはほとんど停止しているくらいの速度で、少しずつ上昇していく――そして。
「……マスターの考えてる、赤と白の衣装……私は、魔力で衣装を編める……」
「ゆ、ユィシア……っ、何を……」
ユィシアが俺を抱きしめている手が、彼女の発した魔力に覆われる――そして、その手首から先が、白い綿毛に縁取られた、赤い手袋に変化する。
――俺が想像した、サンタ装備。ユィシアは、それを再現してくれていた――後ろを振り返ることができない今、彼女の姿をすぐに確かめられないことがもどかしい。
◆ログ◆
・《ユィシア》は『擬装』(イミテーション)を発動した!
・《ユィシア》の『ドラゴンケープ』が『聖夜の仮装』に一時的に変化した。
「……何とか、つくれたと思う。完璧じゃないかもしれないけど……」
「すぐにでも見たい……そこまでしてくれるなんて。俺、めちゃくちゃ感激してるんだけど……」
抱きしめられたままで言う。ユィシアの胸の鼓動が、とくんとくんと早まっていく――毛皮のようなサンタ装備らしい感触ごしに、柔らかいふたつの弾力を改めて意識する。
「……手を離しても、落ちない。マスターは、『私に乗ってる』から……『降りなければ』大丈夫」
「……そういうことか。よし……!」
ユィシアが人の姿で飛行を可能にしているのと同じ原理だ。彼女に乗っていることになっている俺も、飛行の恩恵を得られる――離れさえしなければ。
俺はユィシアの腕を、慎重に外してもらう。もう支えがなくなっても、俺の身体は落下しない。
後ろを振り向き、ユィシアと両手を結び合わせる。すると静かな表情で見ていた彼女が、目を細めて微笑んだ。
「……よくできた。マスターは、勇気がある」
「ああ……本当は、心臓がバクバクしてるけどな」
ユィシアはサンタ帽子をかぶり、肩があらわになった赤と白の衣装に身を包んでいた。完璧もいいところだ――銀色の髪の、サンタクロースの姿をした少女がそこにいる。
俺たちは空中で手を結び合わせたまま、互いに見つめ合う。そして、二人で広がる眼下の世界を眺める。
「……人間が綺麗だというものが、宝石以外私には分からなかった。ただの風景に価値はないと思ってた。でも、今は違う……マスターと一緒に、色んな世界を見たい。そのこと自体に、『価値』を感じる」
「俺もそうだよ。俺も……」
引きこもっていた前世のことを思い出さずにいられなかった。リアルでは何の出来事もなく、ゲームのイベントに時間を費やして過ぎ去ろうとしていたクリスマスの夜に、俺はドアの向こうまで来た母親に、どうしても窓の外を見て欲しいと言われ、カーテンの隙間から外を見た。
――そこには、明かりの付く、クリスマスツリーの形をしたカードを掲げている陽菜の姿があった。
一秒か、二秒か。俺の姿が見えた時、陽菜が確かに笑ってくれたことを覚えている。
けれど俺はすぐに背を向けて、ゲームのイベントに戻って、みんなと談笑していた。今見たものを、脳裏から消し去ろうとするかのように。
陽菜の恋人になったはずの相手と過ごすのは、中学三年生には早かったのかもしれない。あいつがそこに立っていたのは、ただ時間があったからかもしれない。そう考える事自体が、ただ逃げているだけだと分かっていた。
陽菜が恭介よりも俺を選んだのだと思うこと自体が、何かを裏切っているように思えた。
それすらも逃げでしか無かった。俺は言い訳をひたすら重ねて、自分は悪くないと思い込もうとした――。
「……今のマスターは、昔とは違う。私は、リオナには何も言わない。マスターはいつか、リオナに自分で言えると思う。昔のことを、悔やんでいるのなら」
「……ユィシアは……焼き餅妬いたりしないのか?」
こんなときに、他の女の子のことを考えてる俺を、責めないのか。
ユィシアは少し考えてから、そっと手を伸ばしてきて、俺の鼻をつまんだ。
「ふがっ……」
「……嫉妬という気持ちを、ご主人様に教えられた。でも、私のことを忘れないでいてくれるならそれでいい」
無粋なことを聞いてしまった。それを詫びる前に、ユィシアは俺の鼻からそっと手を放して――何かを待つように目を閉じた。
「んっ……」
空に浮かんだまま、俺たちは口づけを交わす。
忘れることなど、あるわけがない。それを言葉にする代わりに、誓いに変えるためのキスだった。




