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第十九話 女神の命題

 竜の巣を出て外に向かって走る時には、モンスターは襲ってこなかった。ソードリザード、ファイアドレイクは全てユィシアの眷属ということらしい。


 リオナがなぜここまで来られたのか――それはおそらく、リオナが魔王であることを感じ取れるからだろう。魔王の転生体に魔物が攻撃を加えることはない。ユィシアに確かめてみないと確証は持てないが、フィリアネスさんたちが奥まで進んでいないなら、リオナは単独で、まだ魔物が残っている区間を抜けてきたことになる。


(俺はリオナに助けられた……今度は、俺があいつを助ける番だ)


 思いついた方法を実行するには、サラサさんの許しを得なければならない。そして同時に、サラサさんからあるアイテムを譲り受ける必要がある。

 魅了に頼らず、事情を話すしかない……サラサさんとリオナの血が繋がっていないことにも触れなければならない。それが、サラサさんを苦しめることになるとしても。


 サラサさんも、リオナのことを案じている。その彼女に、翼を生やしたリオナの姿は見せられない。

 俺がやろうとしている方法で、リオナの姿を元に戻せるのかは分からない。しかし、今の俺には、それ以外に出来ることが見つからない。


 リオナは俺のために力を目覚めさせ、石化を解いてくれた。


 危険を顧みず、竜の巣にまで来てくれた。いつも俺があいつを守っているつもりだったのに、俺が守られていた。


 そのリオナが、陽菜そのものに見えた。


 俺は前世でも、陽菜に守られたことがあった。


 ――だいじょうぶ……ヒロちゃん、だいじょうぶだよ。リオナがきたから、リオナがまもるから……!


「なんで……」


 子供の頃に登山で行った山で道に迷い、怪我をして動けなくなった。そんな馬鹿な俺を、唯一探し出してくれたのが陽菜だった。


 陽菜はGPSのついた携帯を迷子になったときのために持たされていたから、陽菜と一緒にいるだけで救助が来た。父さんと母さんにはこっぴどく叱られて、俺はその時の感謝を、陽菜に伝えられないままだった。


 格好悪いというだけの理由。そんな意地を張っていなければ、前世への未練を一つは無くすことが出来たのに……。


(俺はまだ、忘れられてなかったんだ)


 リオナの姿を見るたびに、俺は何度も浮かんだ考えをそのたびに打ち消してきた。


 陽菜もあの時に命を落として、俺とは別に女神に邂逅し、そしてこの世界に転生したんじゃないのか。


 ――少しでも、そうであって欲しいと願う自分を打ち消し、否定したかった。


 もう一度出会いからやり直せるのなら。俺は間違わずに、正しい道を選べるんじゃないのかという期待を抱いた。


 そんなことは、あまりにも虫が良すぎる考えだ。自分を中心に世界が回転していると思うくらいに、傲慢な考えでしかない。


(……リオナは、リオナだ。でも、俺は……)


 確かめたい、という思いが湧く。もしリオナが何も知らないと言うなら、この話はそれで終わりだ。

 宮村陽菜という名前を知っているか。森岡弘人という名前は……。

 けれどそれは何もかもが、元の姿を取り戻すことが出来たときの話だ。



◇◆◇



 洞窟に入ってすぐの所で、フィリアネスさんたちのパーティを見つけた。


「ヒロトッ……よく無事で……!」

「ヒロトちゃんっ! 良かった、戻ってきてくれて……ほんとに良かったぁ……!


 フィリアネスさんたちは俺の姿を見るなり、駆け寄ってくる。マールさんもアレッタさんも、目に涙を溜めて俺を見つめてくる。


「ごめん、無茶なことして……奥まで行けたのはみんなのおかげだよ。ありがとう」

「その顔を見るに、手に入れられたようじゃな……竜の涙石を。よくぞやった……!」


 俺はポーチに入れていた涙石をネリスさんに見せる。行かせる時は厳しい態度だったネリスさんも、感極まって声を震わせていた。


「竜の涙……お師匠様は、ドラゴンを倒しちゃったんですか? それとも……」

「それは今のところは秘密にさせてくれ。みんなも、もう奥に行っちゃだめだ。ソードリザードとファイアドレイクは、もう人を襲ったりしない。でも、宝を奪おうとする場合は、話は別だよ」

「宝があると聞いても、誰も奥に行こうとは思わないだろうね……小生も、あまりに彼らが手強くて疲れ果てたよ。麻痺や眠りの魔術で時間を稼ぐことしか出来なかった」


 ウェンディと名無しさんはレベル25だから、45のフィリアネスさん、30で恵体70のマールさんと比べれば、やはり苦戦は免れない。常に回復系のスキルを使い続けただろうアレッタさんも、額に汗をにじませている。洞窟の中は溶岩の熱気でかなり暑くなっているし、全員が疲労を隠しきれずにいた。


「さて……協力してもらっておいて悪いのじゃが、わしはヒロトと共に庵に戻らねばならぬ。皆は先に町に戻っていてもらえるか」

「了解しました、賢者殿」


 フィリアネスさんの恭しい呼び方に、ネリスさんはゆっくりと首を振る。


「わしはミゼールの魔女と呼ばれておる。賢者などではない、ただの鷲鼻のおばばじゃよ」


 そうは言うが、今の姿はフィリアネスさんと同年代にしか見えない。マールさんたちも姿と発言のギャップが大きすぎて苦笑していた。


「えっと……それじゃヒロトちゃん、私たちは先に戻って待ってるから!」

「賢者様から、秘薬を作ると聞きました。無事に完成することを祈っています」

「お師匠様、えっと、おばば様、頑張ってください!」

「おばば様というのは違和感があるな……小生はネリス殿と呼ばせていただこう。では、ヒロト君。気をしっかり持つんだよ……小生たちは、いつでも君のことを思っている。それを忘れないでくれ」

「うん……本当にありがとう、みんな」


 マールさん、アレッタさん、ウェンディ、名無しさんが先に町に戻っていく。残ったフィリアネスさんは、俺が予想していた通りのことを尋ねてきた。


「……私たちが戦っているうちにリオナが来て、止めても聞かずに、ヒロトを助けると言って駆けていった。奥で、リオナとは会えたのか……?」

「うん。リオナは無事だよ……でも、今はまだ帰れない。俺が迎えに行くまで、安全な所で待ってる」

「ヒロト……皆には、秘密にすると言っていたが。リオナが無事ということは、ドラゴンを倒したのか? それとも、まさか……」


 俺がスライムを調教テイムしたことを知っているフィリアネスさんでも、俺が同じように皇竜を仲間にしたというのは、可能性は考えられても、とても信じられない様子だった。


 嘘をつき通すことは出来る。けれどフィリアネスさんには、知っておいてもらっても良いと思った。聖騎士である彼女なら、むやみに口外しないし、マールさんやアレッタさんにも機会が訪れるまで秘密にしてくれるだろう。


「……俺は、竜の巣で宝を守ってた竜を仲間にした。だから、リオナは安全なんだ」

「……お前は……いつの間にか、私よりずっと先を歩いていたのだな……」


 フィリアネスさんは小手をつけたままの手を俺の肩に置いて言う。そして、皇竜に攻撃を受けて負った傷をいたわってくれた。


「そんなことないよ。俺はフィリアネスさんに、まだ教わりたいことがいっぱいあるんだ」

「……そうやって気を遣わせてしまうようでは、私はますます情けなくなる。今は私のことよりも、母君のことだ。必ず秘薬が効いて、回復すると祈っている」

「うん……ありがとう、フィリアネスさん」


 俺が離れていくように感じているのなら、そんなことはないと伝えたかった。だから俺はフィリアネスさんの手を、両手で包むように握る。


「ネリスさん、行こう。俺は全力で走って行くけど、ついて来られる?」

「儂を誰だと思っておる。この空飛ぶ箒を使えば、瞬く間に庵まで着くところぞ」

「賢者殿……いえ、ネリス殿。どうか、よろしく頼みます」


 フィリアネスさんは一礼して俺たちを見送る。彼女を残して、俺はネリスさんと一緒に庵に向かった。



◇◆◇



 ネリスさんは俺が竜の涙石を取ってくると信じて、最後の仕上げの段階を残して、エリクシールの作成を進めてくれていた。


 マンドラゴラのエキスを抽出してフラスコのような容器に入れ、それを溶媒として、他の材料からも適切に成分を抽出して溶かしこむ。今は虹色の液体になっていて、火精霊の炎で温められていた。


「……涙石をこれに。一度の生成で、わしの魔力はほとんどが失われる。エリクシールが完成したあと、わしは意識を失うじゃろうが、心配はない。目が覚めた時には、元のばばに戻っておるじゃろうがな」

「ネリスさん……ごめん、いっぱい苦労かけて……」


 謝罪する俺を見て、ネリスさんは、おばば様の姿だった時と同じように優しく笑った。姿が変わっても、同一人物なのだとこれ以上ない形で確かめられた。


「お主を見ておると、若いころを思い出す。わしも天才と呼ばれ、出来ぬことは何もないと思っておった。しかし広い世界を知り、それが驕りであると思い知らされた。ヒロト……お主も広い世界を見て、わしと同じように学ぶべきじゃな。お主がエリクシールを手に入れるために揃えた材料、それを持つ神獣たちが、どんな姿をしているのか。それを見た時、またお主は一つ大きくなる」

「……うん。分かったよ、ネリスさん」

「うむ。素直な子じゃ……レミリアは、必ず治る。そう信じて、エリクシールを使いなさい。エリクシールは、普通の器に入れると器を溶かしてしまう……この水晶の瓶に移し、厳重に封をしなさい」


 ネリスさんはフラスコに両手をかざし、集中し始める。その口が動いて、俺には聞き取れない呪文を紡ぐ。


「うわっ……!?」


 ――そして。涙石をひとつフラスコに落とした瞬間、眩い光が視界を埋め尽くす。

 その光が収まったあと、フラスコの中の液体は、紅薔薇のような深紅に染まっていた。


「……命を示す赤色……緋色のティンクトゥラ。お主にこれを託す……我が弟子、ヒロトよ……」

「おばば様っ……!」


 ずっと黙って見守っていたミルテが、倒れたネリスさんに駆け寄る。ネリスさんはミルテの頭を撫でて微笑みかけたあと、眠るように目を閉じる。言っていた通り、彼女のマナはほとんど尽きて、一桁を残すのみとなっていた。


「ヒロト……おばば様は私がみてる。おかあさんを、助けてあげて」

「ああ……分かった。ミルテ、心配かけてごめん」

「ううん……だいじょうぶ。わたしも、後でいくから」


 ミルテも母さんの回復を祈ってくれている。このエリクシールは俺だけじゃなく、皆の想いの上にあるものだ。

 俺はフラスコの中の液体を、ネリスさんが用意してくれた専用の薬瓶に移し替える。そうしても、まだエリクシールは半分ほどが残されていたが、これ以上は持ち運べない。



◆ログ◆


・あなたは「エリクシール」を手に入れた。



 俺は薬瓶を握りしめ、母さんのいる診療所に走った。

 そこで、俺は父さんの姿を見つける。父さんも俺の姿に気づくが――予想していた通りに。

 父さんは拳を振り上げる。無断で居なくなった俺を叱るために。


 けれどその手は、振り下ろされることはなかった。そのままリカルド父さんは、膝を突いて俺を抱きしめる。


「良かった……ヒロト。父さんはお前が居なくなって、町中を探したんだぞ……!」

「……ごめん、お父さん。おれ、どうしてもお母さんを助けたかったんだ」


 父さんは俺を離すと、真っ直ぐに見つめてくる。その頬はこけて、目には酷い隈ができている……母さんの状態が思わしくないことを知ってから、ほとんど寝られていなかったということだ。

 それを俺に気づかれないように、父さんは常に強くあろうとした。そんな父さんを、俺は心から誇りに思う。


 ――その時、診療所の扉が勢い良く開かれる。姿を見せた助産師さんは、顔を蒼白にしていた。


「リカルドさんっ、レミリアさんが……!」

「っ……レミリア……!」


 父さんが走り出す。俺はその後について、母さんのもとに駆けつける。

 頭のなかから、他の考えが全て吹き飛ぶ。母さんを助けたい、それだけしか考えられなくなる。


「レミリアさん、聞こえますか、レミリアさんっ!」


 医者の呼びかけに答えず、母さんはベッドの上で動かない。

 ――もう、一刻の猶予もない。俺は母さんの傍に駆けつけ、医者が何か言っているのにも構わず、母さんの口元に薬瓶を近づけ、エリクシールを一滴その口元に垂らした。



◆ログ◆


・あなたは「エリクシール」をレミリアに飲ませた。

・しかし、効果はなかった。



 ――そんな。


 薬を届けられたのに。エリクシールなら、どんな状態でも治るはずなのに。


「母さん……いやだ……死んじゃいやだっ……」

「ヒロトくん、何を……リカルドさん、この子は何をして……っ」

「……ヒロト……母さんのために、薬を……?」


 医者と父さんが何かを言っている。その言葉の意味さえわからないで、俺は青ざめたまま、眠るように目を閉じている母さんに取りすがる。


 遅くなんてない。医者だって、これから手術をする体力があるって言ってたじゃないか。


「うそだ……そんなの嘘だ……母さんっ……お母さんっ……!」

「……レミリア……」


 現実を受け入れられない。振り返ると、父さんも俺と同じ……何が起きているのかを、頭が理解しようとしていない。


 間に合わなかったのか。もう、遅かったのか。俺は歪む視界の中に、母さんのステータスを映しだす。



◆ステータス◆


名前 レミリア・ジークリッド

人間 女性 22歳 レベル12


ジョブ:令嬢

ライフ:0/76



 ――いやだ。


 ダメだ、絶対にダメだ。死ぬわけない。母さんは……母さんはエリクシールがあれば、必ず……。


「お腹の子供だけは助かるかもしれない……これから、」


 言いかけた医師を、リカルド父さんが掴みかかって止める。その鬼のような形相を見ても、俺は少しも怖いと感じなかった。


「レミリアを、こんなになってなお傷つけようっていうのか……!?」

「リカルドさん、お子さんの命は助かるかもしれないんです……レミリアさんだって、きっとそれを……っ」


 ――望んでいる。母さんは優しい人だ……俺だって母さんの考えることはわかる。血を分けた息子なのだから。


 だけど……それでも。


 数字が諦めろと告げていても、俺はどうしても諦められない。


 どれだけ無様でも、女神に笑われようとも、最後の最後まであがき続ける。


 母さんに、生きていて欲しいから。


「レミリアさんっ……!」


 病室にサラサさんが駆け込んでくる。彼女は母さんの状態に気づくと、直ぐに駆け寄って治癒術をかけ始めてくれた。


「レミリア様……っ、しっかりなさってください! あなたはまだ生きなければならないっ!」


 次に現れたのはフィリアネスさん……そしてモニカさん、ターニャさん、フィローネさんも入ってくる。


「レミリア! こんなに可愛いヒロトを置いて、先になんて行かせないっ! 行っちゃだめっ!」

「レミリアッ! あんたが居なくなったら、私がヒロトちゃんを取っちゃうからね! それでいいのっ!?」

「戻ってきて、レミリア……お願いだから……!」


 彼女たちだけじゃない。母さんを、そして俺たち家族を知る人たちが、次々にやってくる。

 マールさん、アレッタさん、ウェンディ、名無しさん、セーラさん、メルオーネさん、エレナさん……バルデス爺に、アッシュ、ディーン、ステラまで。


 みんなが母さんの名前を呼ぶ。その声が、既に命の火が失われたはずの母さんの頬に、わずかな赤みを取り戻させるように、俺には見えた。


 ――エリクシールはまだ残っている。最初のひとしずくは、母さんの口に入っても、喉を通らなかったのだとしたら……希望はまだ、残っている。


(母さん……少しでもいい。飲んでくれ……!)


 もう一度俺は、エリクシールの瓶を母さんの口元に運ぶ。そして赤い液体が流れ、母さんの唇に伝い落ちる。


(頼む……お願いだ……お願いだから……っ!)



◆ログ◆


・あなたは《レミリア》に依頼をした。



(依頼……今の母さんに……?)


 ライフがゼロになっている母さんが、俺の依頼の対象になった。


「……んっ……」


 次の瞬間、母さんの喉が少しだけ動く。エリクシールが喉を通ったのだと理解した直後、母さんの身体が、温かな光に包まれた。



◆ログ◆


・《レミリア》の体内に入った「エリクシール」が効果を発揮した!

・《レミリア》は母子ともに生命力を取り戻した!



「……あ……」


 言葉にならなかった。そのログを見たすぐあと、俺は、もう一度母さんの状態を確かめた。








◆ステータス◆


名前 レミリア・ジークリッド

人間 女性 22歳 レベル12


ジョブ:令嬢

ライフ:1/76



「あ……あぁ……っ」


 回復している。ゼロになっていたはずの母さんのライフが、1に……。


 母さんが、息をしている。その頬に赤みが戻り、胸が安らかに上下し始める。


 その場にいる誰もが息を飲む。最も近くで、母さんが息をしていることを確かめた父さんは、大粒の涙をぼろぼろと流していた。


「……レミリア……あぁ……生きてる……レミリアが、生きて……」


「女神の慈悲よ……深き癒しをもたらし、全ての苦しみに穏やかなる赦しをもたらしたまえ……!」



◆ログ◆


・《サラサ》は「リザレクション」を詠唱した!

・《レミリア》のライフが回復した!



 サラサさんは息を吹き返した母さんに、さらに治癒術をかけてくれる。完全回復するはずのエリクシールだが、母さんの命を呼び戻すために効能を使い果たしていた……しかしもう、母さんの顔に死の影は感じない。


「レミリア……ばかっ、死んじゃうかと思ったじゃない……っ!」

「良かった……レミリア……本当に良かったっ……」


 モニカさんたち三人娘が、母さんに泣きつく。それを見ていた騎士団の三人も、とめどなく涙を溢れさせていた。


「はぅぅ~……わ、私、もうだめ……もう我慢できない……うわぁ~んっ!」

「ま、マールさん、そんな子供みたいに……フィリアネス様も……」


 マールさんもアレッタさんも号泣している。フィリアネスさんも……。


「ひっく……ヒロト……お母様が……レミリア様が、助かって良かった……本当に良かった……っ」


 フィリアネスさんは泣きながら、俺を後ろから抱きしめてくれる。その温もりに安堵を覚えながら、俺も涙をこぼしていた。


 医者の先生は、奇跡のような出来事に茫然自失という状態だった。それでも母さんが死地から回復したことを確かめ、父さんに深く頭を下げる。


「私の力不足をお詫びします。ヒロトくんが持ってきた薬が、レミリアさんを救った……私は医者を名乗るのもおこがましい。彼女を助けるどころか、諦めるようなことを……」

「いえ……先生、謝らないでください。うちの息子が奇跡を起こしてくれた……私も、ヒロトが頑張っているのも知らずに、何もしてやることが出来なかった。至らぬ父親です」


 リカルド父さんは涙を拭うと、俺の隣に立つ。そうして、俺の頭を撫でてくれた。

 父さんは、母さんを失うことを他の何よりも恐れていた。魔剣の護り手になり、その危険に向き合い続けることよりも。

 俺は父さんが、母さんをどれだけ深く愛しているのかを知った。そうして俺が生まれてきたのだと思うと、心はただ感謝で満たされる。


 俺もいつか、父さんが母さんを想うように、人を愛せる日が来るだろうか。


 ――いや。ずっと誤魔化し続けるつもりもない……子供である今は、まだ形には出来ないことでも。


 フィリアネスさんは、こんな俺にも想いを伝えてくれた。リオナも、ミルテも……ステラだって。


 子供たちはみんな泣いている。ディーンは顔をぐしゃぐしゃにして泣いていて、アッシュも涙ぐみながら、苦笑してなだめている……ステラはお母さんのエレナさんの胸で泣いている。


 メルオーネさんは眼鏡を外して涙を拭いている。彼女は目を真っ赤にして、俺と目を合わせると気恥ずかしそうに笑った。

 そして……モニカさんは俺と目を合わせると、近づいてきて、正面から抱きしめてくる。


「ヒロト……置いていかれたときは、どうしようかと思ったけど。やっぱり、怒れなくなっちゃった」

「うん……ごめん、モニカ姉ちゃん。みんなを呼んでくれて、ありがとう」

「……いいよ。次に無茶する時は、必ずあたしも連れていってね……もう、心配させないで」


 今なら、そう約束することが出来る。もう危ないことはしないと。


 ――けれど、これで終わりじゃない。俺は母さんに治癒術を施してくれているサラサさんを見やる。

 彼女に、尋ねなければならないことがある……リオナを救うために。


 しかし今は、母さんが生きていてくれること……その幸福を少しでもいい、感じていたい。

 俺は眠っている母さんの手を握り、そばでその寝顔を見つめる。苦しさも何もなく、安らかで……確かな生命の活力が感じられる。


 ふと顔を上げると、ずっと黙って見てくれていたバルデス爺と目が合う。バルデス爺は微笑み、深く何度か頷いてくれた。



◇◆◇



 俺はサラサさんに大事な話をしたいと頼み、彼女の家に向かった。

 サラサさんはリオナが居ないことに、薄々と、何が起きたのかを悟っているようだった……リオナはどうしたのかと、取り乱したりしない。


「……ヒロトちゃん。リオナは、無事でいますか?」

「うん……でも、今はまだ帰れない。帰ってくるまで、とても時間がかかるかもしれない……」


 俺の思う方法で、リオナの魔王化が止められるのかどうかも、あの翼が消えるのかも分からない。

 もし今魔王化を止めることが出来ても、それはいずれ訪れる未来を、先延ばしにするだけなのかもしれない……でも。


「おれは、リオナに助けてもらった。だから今度は、おれがリオナを助ける番なんだ」

「……ヒロトちゃん。リオナは……あなたの前で、何か特別な力を使いましたか……?」


 サラサさんの問いに、俺は頷きを返す。ここで誤魔化しを言えば、それはリオナの母さんであるサラサさんへの裏切りになる。


「リオナは……魔術を使って、おれを助けてくれた。すごい治癒術だった」

「……あの子はまだ、魔術を使えるような歳ではありません。それでも、私が及ばないほどの魔術を使った……そういうことなのですね……」

「……うん。石に変えられそうになった俺の身体を、元に戻してくれたんだ」


 サラサさんは迷っているようにも見えた。けれど俺の目を見ているうちに、その瞳に決意が宿る。

 彼女はずっと被っていたフードを外した。そこには普通の人間より長く、尖った耳が隠されていた。


「私は……本来なら、この町に居てはならない種族です。ハーフエルフという……」

「どうして、居ちゃいけないの? ただ、耳が少し長いだけなのに」

「それは……エルフと人間の間には、交わりを持ってはならないという掟があるからです。ですからハーフエルフである私は、耳を隠さなければ、人間の町では暮らせません」


 それはゲームの中から続いている設定だった。ハーフエルフは独立した自治都市を持ち、その中でのみ暮らしている。

 しかし、エルフやハーフエルフはその魔術の適性の高さから、人間や魔物たちに狙われることが多い。

 ゲームに登場した『サラサ・ローネイア』は、死霊の王と呼ばれる黒魔術師によって、捕らえられたハーフエルフのうちの一人だった。彼女は黒魔術師によって奴隷の枷をつけられ、消えることのない奴隷の印を刻まれている。その黒魔術師がクエストボスとして登場すると予告されていたが、俺が生きているうちにそこまで実装されることはなかった。


「……リオナはハーフエルフとしても、まだ小さいのに、とても難しい魔術を使った。ヒロトちゃんは、それを見てしまった……」

「……リオナの耳は長くない。だから、おれは分かってたんだよ」


 リオナはサラサさんの娘じゃない。

 けれどそれを言葉にすることが残酷に思えて、俺ははっきりと口にはしなかった。サラサさんが自分で明かしたいと思う時が来るなら、そのときを待つべきだ。


 しかしリオナの魔王化は、もう放置しておけるものじゃない。今も進行しているとしたら、早く封印しなければ取り返しがつかなくなる。


「サラサさん……どうしておれがそんなことを知ってるのかって思ったら、怒ってくれていい。どうしても、お願いしたいことがあるんだ」

「……はい。聞かせてください。私は決して怒ったりはしません……ヒロトちゃんが言うことなら」


 それだけの信頼を得てもなお、俺は、それを言うために途方も無い勇気が必要だった。

 ――初めから知っていたなんて、とても言えない。この町で平穏に暮らしているサラサさんが、過去に奴隷だったことがあるなんて……。

 それでも言わなければいけない。彼女が奴隷であったことが、同時にひとつの可能性を導くのだから。


「……サラサさんは、首輪をつけてるはずだ。それを、俺に渡してほしい」


 サラサさんは驚かなかった。首もとを覆うショールのような布に触れて、何も言わずに俺を見ていた。


「……これを外すことは、今は出来ません。これは私にかけられた枷……今は、まだ……」

「おれなら外してあげられる。おれは、そういうものだって知ってるんだ」

「っ……そんな……そんなことが……」


 エターナル・マギアにおいて、人間やハーフエルフなどの、大別して人族の奴隷に強制される装備。それが、「奴隷の首輪」だ。


 奴隷として買われた場合、その価格の分だけ奴隷としての仕事を果たすまで、奴隷の首輪は外れない。ハーフエルフであるサラサさんは、人間よりも奴隷としての価値はとても高く設定されているはずだ。


 ジョブを「セージ」に上書きすることは出来ても、奴隷スキルは消えなかった。今もサラサさんのステータスを見れば、10ポイントの奴隷スキルが残ってしまっている。


 ゲームでは剣闘奴隷が自力で奴隷から解放される以外に、「解放のための代金を支払う」ことで、剣闘奴隷の奴隷スキルを一気にゼロにし、NPCとして仲間に加えることができた。


 ――それならば。俺がサラサさんの価値に見合う金額を払い、身請けをすることで、彼女は奴隷から解放される。


「ヒロトちゃん……この首輪は絶対に外れません。これを付けた者でなければ……っ」


 サラサさんがこんなに動揺した姿を見せるのは初めてだった。いつも穏やかだった彼女が、まるで俺を恐れてでもいるかのように、少しずつ後ずさっていく。


 俺はすぐに距離を詰めたりはしなかった。彼女を怖がらせないように。


 子供の俺からは見上げるほどに背丈の差がある女性が、少女のように怯えている。奴隷から解放されるなら、それは嬉しいことじゃないのか……試してみて、損はないんじゃないのか。そういう問題ではなかった。


 彼女は、希望を抱いてはいけないと思っている。俺に解放されてはならないと……今のサラサさんの反応は、そうとしか見られなかった。


「……この首輪を外すのは……ハインツでなくてはならないんです。あの人は……私を奴隷から解放するまでは、何も……」


 ――そういうことだったのか。

 サラサさんはハインツさんを夫と呼ぶけれど……リオナは二人の子供ではない。それだけではなく……。

 サラサさんとハインツさんは、まだ、夫婦と呼べる関係にもなかった。だからこそハインツさんは、リカルド父さんが苦言を呈するほど、夜に仲間と飲み歩いていた。

 二人の間に何があって、ミゼールで暮らすようになったのかは分からない……リオナをどうして娘として育てるようになったのかも。


 もう少し時間が経っていれば、ハインツさんとサラサさんが本当の夫婦になり、首輪も俺以外の手で外されていたのかもしれない。

 ――けれど、俺は……サラサさんの首輪を外しても。彼女を縛らず、ただ自由にしてあげたいと思うだけだ。


「……おれはリオナを助けたい。そのために、出来ることがしたいんだ。何を言ってるのかと思うかもしれないけど……」

「リオナを……この首輪があれば、助けられるんですか……?」


 サラサさんは隠されている首元に触れる。そこに、奴隷の首輪があるのだろう。

 彼女はしばらくの間、ここではないどこかを見つめていた。

 ――それが終わったあと、サラサさんの瞳から怯えが消える。


「……ひと目見た時から、ずっと思っていました。あなたに出会ったことで、私も、リオナも、何かが変わる……そんな気がしていたんです。夫に対する感謝とは別に、私は……いつも、ヒロトちゃんに……」

「おれは赤ん坊の頃から今まで、サラサさんが良くしてくれること、いつもありがとうって思ってる。だからおれは、サラサさんが思うとおりにしたい。本当に首輪を外しちゃだめだっていうなら……」

「……そんな言い方をされたら、断れません。どうしてヒロトちゃんは……まだ、4歳なのに……」


 困惑しているサラサさん。無理もない……俺はいつも子供らしくないことをしてきたけど、今日のことは、今までで一番と言っていい。

 大人のサラサさんがつけた奴隷の首輪を外すために、対価を払おうっていうんだから。


「おれはみんなより早く大人になると思う。だけど、今まで通りに子供のままでいたい時もある。都合のいいことを言ってると思うけど、父さんと母さんの前では、まだ子供でいたいんだ」

「全部……分かっているんですね。それだけ小さいなら、本当は分からないようなことも……私がハインツを、どう思っているのかも分かっていますか……?」

「……大事な人だから、裏切りたくない。違うかな……おれ、こういうことには勘が鋭くないから」


 自分で言って恥ずかしくなる。本当なら二十年にもなる俺の精神年齢で、恋愛に感して全く疎いなんて。

 少しくらい理解出来てきたのかもしれない。前世よりは、女の人の気持ちを理解しようと努めているとは思う。

 けれどサラサさんがハインツさんを誰より大事に想うなら、俺は……例えリオナを助けるためでも、無理に首輪を外させるわけにはいかない。


 ――無理を強いることはできない。他の方法を、探すべきだ。

 そう思いかけたとき、サラサさんは首に巻いていた布を外した。そこには、金属片と黒い革で作られた、途中で切れた鎖のついた首輪がつけられていた。


「……夫は……いえ。ハインツさんは、私の首輪を、いつか外すと言ってくれました。私も、それを待ち続けようと思った……でも、それでは、リオナがここに戻ることは出来ない。ヒロトちゃん……そうなんですね……?」

「……うん。俺が考えているとおりなら、方法はそれしか思いつかない。そんなに都合のいいことはないかもしれない……でも、何もしないよりはずっといい」


 いつかリオナの魔王の力を、本当に封印することが出来るまで。

 それまで、リオナが家族と一緒に居ることが出来ないなんて、あまりにも悲しすぎる……だから。



◆ログ◆


・《サラサ》はあなたの命令を待っている。命令しますか? YES/NO



 魅了が発動せずとも、サラサさんはずっと変わらないままだ。

 ハインツさんと同じか、それ以上に、俺への好感度が高い。彼女がそれを裏切りだと思っていたなら……俺は、長い間、何も知らずに彼女を苦しめてしまった。


 そして俺はもう一つ、罪を犯す。サラサさんから手に入れた首輪を……娘のリオナに、嵌めなくてはならない。

 リオナが了承するなら、彼女のジョブを奴隷に変えられる。

 ――そうすれば、「破滅の子」ではなくなる。魔王の転生体としての宿命を、先延ばしにすることが出来る。俺が本当にリオナを救う力を手に入れられるまで。


 もしそれが叶わなければ……俺はリオナを救うために、どんなことでもする。

 リオナが自分を犠牲にして、俺を助けてくれたから……理由はそれだけじゃない。

 俺がリオナを助けたいから。人として生きて欲しいから。それが至上であり、最大の動機だ。


「……その首輪を、リオナにつける。それでもいいなら、渡してほしい」

「……それがあの子を救うことに繋がると、信じます。私はヒロトちゃんを信じる……初めから、そう決めていましたから」


 サラサさんは久しぶりに微笑む。それは諦めたからでも、投げやりになったからでもない。

 奴隷の首輪がリオナを助けるために必要だなんて、そんな馬鹿げた話を、彼女が信じてくれたからだ。一寸も疑うことなく。



◆ログ◆


・あなたは《サラサ》を二千枚の金貨で身請けした。

・あなたは《サラサ》の「奴隷の首輪」の装備を解除した。

・あなたは「奴隷の首輪」を手に入れた。



 インベントリーに入れていた資産のほとんどを、サラサさんを『買う』ことに使う。それを俺は、全くためらうことはなかった。システムとしては『買う』という行為でも、俺にとっては『解放』だ。使った金貨がどこに消えたのかは分からないが、女神の懐にでも入っているのだろう――なんて、皮肉なことを考えもした。もしくは、サラサさんを奴隷にした黒魔術師の元に支払われているということもあるだろう。だが今は、そんなことはどうでもいい。


 首輪を外したサラサさんの白い首筋には、赤く締め付けられた痕が残っている。それが薄くなり、いつか消えたときに、彼女は今よりも晴れやかに笑うことが出来るのだろうか……ありのままのサラサさんに戻って。


「……あの子のことをお願いします。私は、この家で待っていますから」

「うん、必ず連れて帰るよ。リオナを、この家に送り届ける」



◇◆◇



 もう一度洞窟に向かう。やはりモンスターは襲ってくることはなく、俺の護衛獣となったソードリザード二体は、途中で出迎えるようにして待っていた。俺の姿を見つけると、頭を下げさえもする……思ったよりも知能が高いのだろう。


 竜の巣に入ると、竜の姿をしたユィシアの前に、リオナは前と変わらぬ姿で横たわっていた。

 彼女は俺が近づいてきたことに気づいて、薄く目を開ける。そして、身体を起こして、背中にある翼を見やり……それでも、気丈に微笑んだ。

 今にも、泣き出しそうな笑顔で。


「ヒロちゃん……私、羽根が生えてきちゃった。これじゃ、みんなのところに戻れないね……」

「……そんなことない。これからも一緒に暮らせるよ。お母さんと、お父さんと……」

「ううん……だめだよ。だって、私は、お母さんとお父さんの、本当の子どもじゃないから……」

「っ……!?」


 今まで、そんな素振りを見せたことは一度もなかった。

 ――それこそが、驕りだった。いくら幼くても、自分の身体のことに気付かないわけがない。サラサさんがどれだけ隠しても、耳を見てしまう機会もあっただろう。


「お父さんは、お母さんを助けてくれただけなの……そのお母さんが、私を助けてくれた。教会の前に捨てられてた私を拾ってくれたの。それで……いままで、ずっと……」

「……リオナ……全部、知ってたのか……?」


 自分の親が、本当の親ではないこと。それを知ってなお無邪気に振る舞い続けたリオナは、どんな思いでいたのか。

 ヒロちゃん、ヒロちゃんと俺のあとをついて回って、いつも無邪気で、時々我がままで……眩しくなるほどに、明るかった。

 前世の陽菜と同じ。太陽みたいに明るく育つようにと、つけられた名前だと聞いたことがあった。

 ――でも、違ったんだ。リオナは……明るくあろうとしていただけなんだ。

 涙に潤んだ瞳を隠すように、リオナが俺に背を向ける。その小さな背中が震えている。


「本当の子供じゃないのに、ずっといたらだめだよね……こんな、羽根が生えちゃったら……お母さんのところになんて、もどれない……」

「そんなことない……リオナが戻らなかったら、お母さんがさみしがるよ。だから、おれと一緒に帰ろう。その羽根は、おれがなんとかしてやる……!」


 リオナを振り向かせると、その瞳から涙がとめどなく溢れていた。

 笑おうとすることなど、もう出来はしなかった。笑えるわけが、なかったのだ。


「だめだよ……おかあさんが困るから、もどれないよ。わたしは……わたしはっ、まものだから……っ」

「……魔物じゃない。人間の心があって、人間の姿をしてるじゃないか。それを人間って言わずに、なんて言うんだ」


 リオナを抱きしめ、背中を撫で、出来るだけ優しく語りかける。ここで説得できなければ、リオナはもう戻ってこない……それは絶対にだめだ。


「ヒロちゃん……だめ……私と一緒にいたら、ヒロちゃんにも、迷惑が……」


 「迷惑」なんて言葉、普段のリオナなら絶対に使わない。

 俺はずっと馬鹿げていると思って、言わずにいたことを、ついに口にした。


「……リオナ。俺たちは……この世界に生まれる前に、知り合いだった。そう言ったら、笑うか……?」


 俺たちを見守っているユィシアが、小さく喉を鳴らす。無理もない、俺が言っていることは、ただの……。


 ただの、絵空事だ。


 絵空事でなければならなかったのに。


 ――リオナは。


「……笑わないよ」


 声を震わせながら、それでもはっきりと答えた。


「他の人がみんな笑っても、私は笑わないよ。だって……私は……」



 ――ヒロちゃんの知ってる、陽菜だから。



 そうリオナは言った。俺は既に確信していながら、それでもその事実を受け入れられなかった。


「……陽菜……なのか……?」


 信じない、信じられるわけがない。けれど『陽菜』という名前を、リオナが知っているとしたら……俺が言わなければ、その名前が出てくるわけがないのに。俺は一度だって、前世のことは言ったことがない。


「助けたはずなのに……なんでここにいるんだ……なんでっ……!」


 やはり助けられなかったのか。俺も、陽菜も事故のときに命を落としていたのか……。

 憤りとやるせなさを、俺はリオナにぶつけてしまう。助けたかった相手に怒るなんて、そんなことをしても仕方がないのに。


 最後に陽菜を助けて終わったのなら、それでいいと思っていた。どこかで、そう自分を納得させていた。

 もし、助けられなかったのなら……俺は本当に、前世の最後で何も出来ずに終わったということだ。

 意味のある死が全てではない。自分の死に意味を求めることが驕りだと分かっていても、足元が崩れ去り、俺を支えていたものが失われようとする。


 ――ごめん。


 守れなくて、ごめん。


 謝りたいのに、言葉が出てこない。謝らなければならないのに。浮かんでくる言葉は、別の言葉だった。


「……ずっと……学校来いって言ってくれてたのに。俺は、それを無視した……」

「……私が無理を言ったのがいけなかったんだよ。悪いのは、私なんだよ」


 まだそんなことを言うのか。何も悪いことをしていないのに。

 少なくともこの世界で、魔王として生まれ変わるようなことは、何も……。


「ヒロちゃんは何も悪いことしてないのに……先生は、ヒロちゃんと喧嘩した子の味方だったから。学校に行きたくなくなっても、仕方ないよ」


 そんなこともあった。始まりは些細なことだった。

 学校が嫌いになり、居場所を失った。でも俺は、学校になんて行かなくていいと思っていた。

 そうして引きこもる俺を見て、陽菜がどれほど苦しんだのかも分かろうとせずに、現実から目を背けた。

 そんな俺は、選ばれなくて当然だ。

 当然なのに、俺は嫉妬していた。俺とは違う明るい場所を歩き、陽菜を手に入れたあいつに。


「……なんでここにいるんだ……あの時一緒に、死んじまったのか……?」


 俺は自分がまだ子供であることも忘れ、森岡弘人に戻っていた。

 幼かったはずのリオナも、宮村陽菜に戻っていた。泣き顔まで、生まれ変わる前の幼いころと全く同じだった。


「ううん……ヒロちゃんは……ヒロちゃんだけが……私を庇って……」


 死んでしまった。やはり、俺だけが……。


「なら、どうして……どうして、『リオナ』に生まれ変わったりするんだ。生きてたのなら、そんなこと……」


 あるわけがない。俺が陽菜を助けられたのなら、転生する理由がない。

 けれど陽菜はリオナとして目の前にいる。それが曲げることの出来ない事実なら……。

 陽菜は望んでこの世界に生まれ変わったということになる。彼女にとって輝いていたはずの、あの世界を捨てて。


 ――その、輝いていたという認識さえ。

 俺が一方的に抱いていた、誤解でしかなかったとしたら。


「……ヒロちゃんのお通夜が終わったあとに、ヒロちゃんのお母さんにお願いして、部屋を見せてもらったの。ヒロちゃんがやってたゲーム……エターナル・マギアっていうんだよね」

「俺の部屋に……入った……陽菜が……?」


 リオナはこくりと頷く。

 そして彼女は、「そんなことは絶対にない」と思っていた俺の予想を、まるでなぞらえるかのように話を続ける。


「そのゲームを起動してみて、少し動かしてたら、意識が遠くなって……女神様って言う人に会ったの。ヒロちゃんは死んじゃったけど、違う世界に生まれ変わったんだって教えてくれて……それで……」

「……お前も、生まれ変わったっていうのか。生きてるのに……助かったのに、なんでなんだよ……っ!」


 成績も良くて、みんなに憧れられて、クラスの中心で。俺が知っている陽菜は、いつもそんな存在だった。

 幸せだったはずだ。俺の方なんて向く必要もなく、光を浴びて、きらめくような時を過ごして、大人になっていくはずだった。

 やがて俺のことなんて忘れてしまって、子供の頃の思い出に変わる。

 それを、俺も受け入れていた。諦めるということと同じ意味だと知りながら。


「……ヒロちゃんに、謝りたかったから。ごめんね、意地っ張りで……」

「……意地っ張りって……何の……」


 リオナは小さな手で、自分の髪に触れた。

 それは、陽菜がいつも、俺がプレゼントしたバレッタをつけていた場所だった。


「似合わないって言われても、ずっとつけてたかった。ヒロちゃんにもらった、プレゼントだから……」

「……馬鹿やろう。なんでそんなに……俺のことなんて、そんなに思う必要なんて無かっただろ……こんな、どうしようもないやつを……っ!」


 怒って、投げ出して、忘れてしまえばよかった。そうすれば陽菜は、こんな苦しみを味わわずに済んだ。

 女神は生まれ変わった陽菜を、魔王の転生体にした……そうすることで、陽菜に苦難が訪れることを分かっていたはずだ。

 悪意なのか、それとも女神にとっては、ただの悪戯のようなものに過ぎないのか。

 これでは、陥れられたのと同じだ。陽菜が、あまりにも可哀想だ……。


「どうしようもなくなんてないよ。子供の頃のヒロちゃんは、私を守ってくれてた……今だってそう。私のことを助けるために、こうやって戻ってきてくれた。ヒロちゃんはずっと変わってないよ。私の中では、いつも、いつだって……っ……」


 言葉の最後は泣き声でかすれて、聞き取れなくなる。

 どうしてそこまで信じられるんだ。俺はお前のことを、簡単に諦めてしまったのに。

 他のやつに取られても、それを祝福すれば、自分が惨めにならずに済む。そんなくだらないプライドを守ることしか、俺は考えられなかった。


「……ヒロちゃんの所にね……生まれ変われるようにって、女神様にお願いしたんだよ……そうしたら……ひっく……私は少し不幸になるかもしれないけど……望み通りにしてあげるって……言って……」

「そんな条件でいいって言ったのか……どうしてなんだ……っ、自分が不幸になって、前の世界の全部捨てて、そこまでする意味なんてなかっただろっ……!」


 一度溢れだした気持ちは、もう抑えることが出来なかった。陽菜を責める資格なんて俺にはないのに。

 陽菜がエターナル・マギアを起動しなければ、転生なんてすることはなかった……そう思わずにはいられなかった。


「……俺が……ゲームなんてしてなければ……お前は……っ」

「ううん……違うよ。ヒロちゃん、ゲームは現実よりもすてきなんだって言ってたよね。私も少しだけ、キャラクターを作って、ゲームを進めてみたの。すごく楽しかったよ」

「……なんで、そこまで……あいつと、上手くやってたんじゃなかったのか……?」


 もう一人の幼なじみ。陽菜は、付き合っていたはずなのに……この世界に転生することを、迷わず選んだように見える。


「何か、操作を間違えたんだよな……生まれ変わるなんて、思ってなかったんだ……そうだろ……?」

「ちがうよ……私は自分でちゃんと選んだよ。女神さまと話して、生まれ変わるって決めたの」


 もうリオナは泣きやんでいる。うさぎのように赤くなってしまった目を恥じらいながら、それでも気丈に言葉を続ける。


「ヒロちゃんのところに、行きたかったから」

「……なんで、そこまで……」

「ヒロちゃんに、本当のことを言いたかったから。私は、恭ちゃんと付き合ってなんていないよ。恭ちゃんには私よりもずっと素敵な人がいるからって、断ったんだよ……それなのに、言えなくて……っ」


 それを伝えるために、転生したのか。

 なんて馬鹿で、なんて愚かで……そして。どうしようもないほどに。


「……お前は馬鹿だよ。あいつでも、そうじゃなくても、もっといいやつを見つけられたのに……こんな所に来ちまって……」

「こんなところじゃないよ。ヒロちゃんが好きだった、素敵な世界だよ……ほら。私、魔法とか好きだから」


 四歳のリオナじゃない、十六歳の陽菜の話し方。そのギャップが、どれほど周囲を驚かせるか……こうしてみると痛感させられる。

 俺も気をつけてはいても、どうしても無理が出ることはあった。陽菜はこれまで、ほとんど違和感を感じさせなかった……それは俺の様子を見て、演じていたってことなのか。それとも……。


「……生まれた時からずっと、記憶があったのか?」

「ううん……ヒロちゃんが石になっちゃうって思ったら、トラックに轢かれそうになった時のことが、頭の中に広がって……私は陽菜だったんだっていうことを、思い出したの」

「そうか……そうだよな。でも……」


 リオナが生まれて初めて、俺の名前を呼んだのは……それだけは、忘れずにいてくれたってことなんだろう。


「……俺はお前のこと、馬鹿なんて言えないな。俺の方がよっぽどの大馬鹿なんだから」

「前の世界では、少し上手くいかなかっただけなんだよ。私はこの世界のヒロちゃんが、すごく生き生きしてて……素敵だと思う。今のほうが、私の知ってる、一番元気なときのヒロちゃんだよ」

「す、素敵って……俺は、ボーナスもらっただけで……」

「それだけじゃないよ。ヒロちゃん、他の子がしないような色んなことをして、練習してたでしょ。私はヒロちゃんと遊びたくてしょうがなかったから、ずっと見てたよ。ヒロちゃんが粘り強くて、すごいんだってこと」


 遊びたくてしょうがない。リオナがそう思ってくれることが照れくさくて、俺は傍で見ていなければいけないと思いながら、時には素直に会いに行かず、距離を置いたりもした。

 それもこれも、リオナが、あまりに陽菜に似すぎていたから。昔を思い出すことを、なるべく避けようとしていた。


 ――なのに。リオナが、陽菜本人だと分かってしまった今は……そうやって逃げることさえも、出来なくなる。


「……今は羽根を何とかしないと。そのままじゃ、本当に魔王になる……そうなったら、俺にも何が出来るのか分からない」

「……人のいないところで静かにしてれば、みんなに迷惑かけないかな……?」

「そんなことさせられない。サラサさんだって、ハインツさんだって心配する……友達みんなだって」


 俺はリオナの後ろに回り、首にかけているペンダントを外す。正面から外すなんて度胸は、いくら子供同士といっても俺にはない。


「あ……ひ、ヒロちゃん、だめっ、それ、取っちゃったら……」

「じっとしてな。別に、返してくれって言ってるわけじゃない……」



◆ログ◆


・あなたは《リオナ》の「魔封じのペンダント」の装備を解除した。



 ペンダントを外したあと、俺はサラサさんから貰った首輪を取り出す。

 もしこれを首にかけても、リオナのジョブが変わらなかったら……魔王化を抑えられなかったら。そうなる可能性の方が高いうえに、奴隷の首輪をつけろなんて、強制は出来ない。


 それでも、正面から頼むしかない。俺が何の考えもなしに、こんなことをしているわけじゃないと、分かってもらうしか……。


「……この首輪をつけてほしいんだ。そうすると、これ以上は変身しなくなる……と思う」

「えっ……えぇっ……く、くびわ? あの、ワンちゃんがつけるみたいな?」

「犬がつけるのとは違う、人間がつける首輪っていうのが、この世界にはあるんだ。たぶん人を選ばない共通の装備だから、成長してもサイズは勝手に大きくなる……首が締まるってことは、ないと思う」


 何を冷静に説明しているんだ、と思う。首輪に対する情熱を語っているようで、何か変な趣味を持っている人のようだ……。


「試しにつけてみて、それで駄目だったら外していい。その時は、他の方法を見つける……旅に出ないといけないかもしれないけどな」

「……わかった。ヒロちゃんがそう言うなら、いいよ」

「……ほんとにいいのか? 俺みたいなやつに、首輪なんてかけられて」


 リオナは俺の問いかけに、頬を赤らめる。そして、俺から首輪を受け取ると、それを自分の首元に宛てがうようにして言った。この年齢にして、見るもの全てを魅了するような愛らしい仕草で。


「ヒロちゃんがつけてくれるなら、いいよ。ヒロちゃんの奴隷になら、なってもいい」

「っ……い、いや、冗談だってわかってるけど、それはちょっと言い過ぎっていうか……」

「だ、だって……さっきから、『《ヒロト》の奴隷になりますか?』っていう選択が出てるもん」


 首輪を差し出しただけでそんなことに……リオナにもダイアログが見えるのか。どうやら、転生した人間に与えられる特典のようなものらしい。


「……ど、奴隷っていうか、ちょっと、ジョブってやつを変えるだけなんだ。リオナは『夢魔』って種族で、職業が限定されてるみたいで……もし魔物の一種だったら、その……条件を満たせば、隷属化できて……」

「ふふっ……ヒロちゃん、ありがとう」

「えっ……な、なんで……」


 なぜありがとう、なんてことになるのか。俺が提案しているのは、常識的に考えて、受け入れがたいことのはず……けれどリオナは嬉しそうにしている。


「ヒロちゃん、私の気持ちをいっぱい考えてくれてる。だから、首輪をつけていいか迷ってるんだよね?」

「あ、ああ……普通はいい気持ちはしないだろ……?」


 サラサさんは自分で外せなかったから、仕方なくつけていたようなものだ。俺が彼女を隷属化して、主人を上書きすることが出来なければ、今も首輪を外せなかっただろう。


「……ヒロちゃんならいいよ。他の人は絶対だめ……でも、ヒロちゃんなら……」

「……分かった。ありがとう、俺の話を聞いてくれて」

「私も……でも、もし、私が元に戻らなかったら……私が、これ以上変わっちゃうようなら……」

「その時は、リオナを連れて旅に出るよ。だからどのみち、一緒に居ることに変わりはないんだけどな」

「ヒロちゃん……」


 この町にいるかけがえのない人々、今まで出会った人々……彼らと離れるとしても、それは永遠じゃない。

 陽菜がこの世界に生まれ変わったのなら、俺は女神が呪いのように与えた宿命から彼女を解放するまで一緒にいたい。

 俺の誤解を解きたいという一心で生まれ変わった。そんな陽菜を、絶対に不幸なままで終わらせるわけにはいかない……。


 ユィシアが見守る中で、俺は首輪をリオナにかける。そしてリオナは、俺からの「隷属化」を受け入れた。



◆ログ◆


・あなたは《リオナ》を隷属化した。

・《リオナ》のジョブを「奴隷」に変更することができます。変更しますか? YES/NO



(……できた……)


 システムの裏を突くことが出来たのか、それとも、これも女神の想定の範囲内なのか。

 分からないが、俺は幾らかの逡巡を経て、リオナのジョブを変更する。拒否されるかもしれないと覚悟しながら。


「っ……ぁ……ひ、ヒロちゃん……身体が……っ、あぁぁっ……!」



◆ログ◆


・《リオナ》のジョブが「奴隷」に変更された。

・《リオナ》の覚醒の進行が止まった。

・《リオナ》の変身が解除された。



 リオナの背中に生えていた翼が、まるでほどけるように黒い文字列に変わって、霧散するようにして消える。


 悪魔のような翼は消え、完全に元のリオナに戻る。気を失って倒れそうになるリオナを抱きとめると、彼女の身体は温かく、呼吸は落ち着いていた。


 ――そして、安堵しかけた瞬間だった。



◆ログ◆


・《リオナ》の「凶星」が発動! 大きな不幸が《リオナ》に訪れようとしている……。

・《リオナ》の記憶の一部が封印された!



「っ……リオナ……ッ!」


 リオナに呼びかけても、意識は戻らない。そしてログは、無常にも時間経過で消えてしまう。


「……どこまで人をおもちゃにすれば気が済むんだっ……!」


 魔王化の進行は止まった……それなのに。俺をあざ笑うように、リオナの記憶が封じられてしまう。


 リオナが目を覚ましたとき、何を忘れているのか。もう、推測するまでもなかった。


「……俺に力を与えて……陽菜を、魔王にして。何がしたいんだ……何をやらせたいんだ、おまえはっ……!」


 答えを知るには、女神を見つけ出すしかない。


 初めは、ただ世界の謎を知るために会いに行くつもりだった。しかし今はもう、女神と会って、争わないでいられる未来が見えない。


 ユィシアは静かに俺を見下ろしていた。そして何も言わないままに、俺とリオナをその背中に乗せ、飛翔する――竜の巣の直上にある別の経路から、外に出ようというのだ。


(ヒロト様……何があろうと、私はあなた様についていく。女神に辿り着くために翼が必要なら、私があなた様の翼になる)


「……ありがとう、ユィシア」


 洞窟の闇を抜け、遥か青空まで飛び上がった銀竜の背から、俺はミゼールの町を見下ろす。


 俺たちが帰るべき町。これからも守り続けたい町……俺とリオナが生まれたこの場所。


 いつか広い世界に出るために、この町を離れるときが来るかもしれない。


 ――けれど、必ず帰ってくる。父さんと母さんと、みんなが待っていてくれるこの町に。



◇◆◇



 エリクシールの効果は母さんの身体に生気を取り戻させ、母子共に健康を保ったまま、生まれる予定の日が一日、また一日と近づいてくる。


 俺は母さんに、出来るだけついているようにした。皆も顔を出してくれて、母さんの話し相手をしたり、果物を持ってきて食べさせてくれたりする。


 しばらく俺と母さんが二人になることはなかったが、ある日の午後、父さんが仕事に出ている間に、その機会が訪れた。


「ヒロト……母さんね、長い夢を見てた気がするの。ヒロトが遠くに行ってしまう夢……母さんは必死で止めるのに、ヒロトは酷いのよ。一回も振り返らずに行っちゃって」

「おれはどこにも行かないよ、母さん」


 俺がエリクシールを取ってきたこと、母さんの命が一度は尽きかけたこと。それを、俺も父さんも、母さんには伝えていない。


 ずっと、知らなくてもいい。あれは、悪い夢だ……母さんが死んでしまいそうになるなんて。今思い出すだけでも、胸が締め付けられるような思いだ。


「……この子ね、女の子だと思うわ。最近、お兄ちゃんがそばにいると、母さんのお腹の中で喜んでるように思えるの」

「そうなんだ……どっちかな。父さんは、もう名前を教えてくれたの?」

「ええ。男の子だったらジュードで、女の子だったらソニアっていう名前にしようと思うの。ヒロトが赤ちゃんのころ、読んであげた絵本に出てくる勇者さまたちの名前よ」


 ジュード……ソニア。どちらにしても、とてもいい名前だ。勇者から名前をもらうっていうのはこの世界では時々あることで、同じ名前の人がいないとも限らないが。


 母さんの言うとおりなら、ソニア……それが俺の妹の名前か。


「生まれたら、おれ、抱っこしてあげてもいいかな」

「ふふっ……もちろんいいわよ。お父さんの次に、お兄ちゃんが抱っこしてあげてね」


 幸せそうに母さんがお腹を撫でる。それを見ながら俺も、やがて生まれてくるときのことを思い、心待ちにする。


「……ヒロト」

「うん。何? お母さん」


 ベッドの上で身体を起こした母さんが、俺の名前を呼ぶ。次の瞬間、俺は抱き寄せられていた。


「ありがとう……ヒロト。この子を……お母さんを、助けてくれて……」

「……お母さん……おれは、何も……」


 何もしてない。そんな俺の嘘が、母さんに通じるわけもなかった。

 とても強い力で、けれどどこまでも優しい。ずっと俺の傍にいて、守り続けてくれた母さん……彼女が生きて、もう一度俺を抱きしめてくれている。


 ずっと保ち続けていた気持ちの堰が、音もなく切れる。溢れ出した感情は、もう止まらなかった。


「……うぁぁぁぁぁぁっ……!」


 母さんに縋り付いて、俺は泣いた。泣くことしか出来ない赤ん坊の頃のように、声の限りに。


 大切なものを守ることができた。かけがえのないものを、失わずにいられた。


 ――生まれ変わることが出来て、良かった。母さんの胸に身を預けて、俺はただそれだけを想っていた。



◇◆◇



 ネリスおばば様にエリクシールを作ってもらったことで、俺は上級精霊魔術を習う資格を得た。しかし修行には相応の時間がかかるので、週に二、三度くらい通って、少しずつ習得を進めている。


 洞窟のモンスターをフィリアネスさんたちと協力して狩ったことで、ウェンディさんと名無しさんの冒険者ランクが上がり、彼女たちはミゼールでも屈指の冒険者として名を馳せるようになった。彼女たち自身は、堅実なクエストを重ねて身を立てているが、俺も加わった時は『本気を出す』として、1ランクから2ランク上の依頼を受けている。その時は懐が潤うので、名無しさんは好きな酒をたしなみ、ウェンディは田舎の両親に配達屋を介して送金していた。


 フィリアネスさんたちはあれからもう一度ミゼールに来て、俺と修練に付き合ってくれた。彼女は洞窟での戦いで一層腕を上げており、俺がもう少し年を重ねたら、演舞ではなく手合わせをしたいと言ってくれた。


 首都には一度行ってみたいという気持ちがある。フィリアネスさんは騎士学校の幼年部で子どもたちの手本となって欲しいとも言ってくれたが、俺はリオナの傍を離れるわけにはいかないので、首都の学校に行くわけではなく、機会があったら訪問したいとだけお願いしておいた。


 ハインツさんはまだ、サラサさんの奴隷状態が解除されたことに気づいていない。元からあまり家に戻らなかった彼は、最近は数日も平気で家を空けるようになっていた。事情はまだ分からないが、サラサさんはリオナには不安な顔を見せないように努めて振舞っているようだった……そして。


 リオナについては、恐れていた通りになってしまった。陽菜だった頃の記憶は封印され、元の幼い振る舞いに戻った。サラサさんが安心していたのは救いだが……俺には、陽菜が消えてしまったようで、心から喜ぶことは出来ない。


 魔王化の進行が止まっても、リオナの不幸スキルは既に100を越えてしまっていた。恐るべきことに、限界突破を自然に身につけていたのだ。ユィシアが、魔王と勇者だけが自分に対抗しうると言っていた通り……おそらくこの三者は、限界突破スキルを生来の素養で身につけることが出来るのだろう。


 俺は幸運スキルを100にしたが、それでもリオナの不幸を抑えこみきれてはいない。幸いにも凶星はもう一度発動することはなかったが、早めに手を打たなければならない。


 そのために、というだけでもないのだが、俺は一人で森に向かっていた。向かう先は、初めてユィシアと会った湖だ……そこに、彼女に来てもらっている。


 湖に近づくと、小さな水音が聞こえてくる。森が開けて、湖の浅瀬に立つ少女の姿が見える。


「ヒロト様……」


 相変わらず、半透明の薄衣の下には、胸などを申し訳程度に覆う飾りしかつけていない。とても町中は歩かせられない、扇情的な格好だった。本人に自覚はなく、全く恥じらってはいない――そのはずだったのだが。


 護衛獣になったユィシアは、俺に見られることを恥ずかしく感じているようだった。けれど、微笑んでいる……俺になら見せてもいいと言うように。


「竜の巣は大丈夫か? 留守にしても」

「眷属が守っているから、問題はない。最近は、いつも森に出ている……ヒロト様の知り合いが魔物に襲われてしまってはいけない。影から守るのが、私の役目」

「あ、ありがとう……ユィシア。そんなこと言うなんて、ちょっと前だったら想像できないな」


 礼を言うと、ユィシアは俺をじっと見つめてくる。その顔は赤いままだが、もう彼女は微笑んでいない。


「……私は母から宝を守る役目を引き継いだ。しかし、私はヒロト様の傍にいなくてはならない」

「あ……そうじゃなくてもいいよ、時々、おれが呼んだら来てもらうだけで……わっ……!」


 ユィシアは俺に近づいてくると、ずい、と覗きこんでくる。俺の身長が低いので、前かがみになる……すると、ドラゴンの化身とは思えない柔らかそうな膨らみが、重力に引っ張られて、その大きさを遺憾なく主張する。


(な、なんてスタイルしてるんだ……でも、ユィシアはドラゴンだし……)


「私も……宝を守る子を、つくりたい」

「そ、そっか、子供を……って、えぇぇっ!?」


 ユィシアはまだ15歳のはずだ。それで、子供を作りたいなんて……い、いや、ドラゴンが子供を産む適齢期が、かなり若いということも考えられるけど、それでも……。


「……ヒロト様の子どもを産みたい。子竜を育てて、宝を守る役目を託す」

「ちょっ……ちょ、ちょっと待って、ユィシア……おれ、まだ、そのっ……そ、そういうの、早いっていうか……!」


 そもそも子どもを作るって、人間と竜でも可能なんだろうか。それ以前に、今の俺では幼すぎて、作ろうにも作れないと思うのだが……。


「エンプレスドラゴンが人化するのは、人間と交わるため……中には、勇者との間に子を成したものもいる。私の母もそう……私たちはほとんどの個体が、半竜ハーフドラゴン。血が混じっても、力が失われることはない」

「わ、わかった……って、俺の心、読んでないか……?」

「私は竜の姿では、人の心に直接語りかけられる。それは、人の心を聞くことも出来るということ」


 念話が出来る、ということか……皇竜の出来ることを全部聞いたわけじゃないが、超能力じみた力も持っているとは。さすがは、竜を統べる種族と言うべきか……。


(……ということは……俺が、ユィシアの限界突破を欲しがってるのも……って、考えたら伝わるっ……!)


「……限界突破……?」


 スキルの名前を言っても、やはり分からないらしい。それは他の人々も同じで、恵体や魔術素養なんて言葉は、決して日常会話には出てこない。職業系のスキルについては、「『騎士道』を重んじる」「『薬師』の修行をする」などという形でスキル名が会話に出てくることはあるが。


「限界突破っていうのは……その、文字通り限界を超えるっていうか。皇竜が、他の竜より強くなるための力っていうか……そういうことになるのかな」

「……私が持っているものは全て、ヒロト様のもの。私は全てを捧げると言った……その言葉に訂正はない」


 ユィシアは前かがみになったまま、俺を見つめている。思わず下の水面に視線を映すと、胸を隠していた飾りがずれてしまって、双子の丘がしっかり映り込んでいた。


(……触れさせてもらうことができたら……そう思ってきた。ついに、その時が来たんだ)


「触る……ヒロト様が触りたいというのなら、どこを触ってもらってもかまわない……少し動悸がするけれど、それも問題はない。生命活動に支障はない」

「……うん。ありがとう、ユィシア……俺、ずっとそうしたかったんだ」


 ユィシアの表情は変わらない。けれど、俺という人間の心を、彼女は理解しようと努めてくれているようだった。


 


「……私は、ヒロト様のしもべ。他に妻ができたとしても、私もそのうちの一つとして扱って、仔を作ってくれるとうれしい」

「っ……う、うん……俺が大きくなって、その時も俺がいいって思うようなら、そうしよう。責任は、取らなきゃいけない」


 ――ユィシアはかすかに微笑む。もともと、表情がないというわけではないのだとよく分かる、あまりにも可憐な表情だった。

 彼女は何も言わずに身体を起こす。そして薄衣の前を開き、胸を隠していた飾りを、惜しみなく上に引き上げた。

 ――ずっと、してこなかったのに。モニカさんたちからもしてもらうのはやめて、まじめにスキルを上げて……それこそ、真人間になろうとしていたのに。

 豊かに実ったふたつの果実に、『限界』『突破』の文字が書かれているように見える。どこまでゲーム脳なのか。


「……ヒロト様の子どもなら、きっと私より強い宝の門番になる。それまで、絆を深めたい……できるだけ強い仔ができるように」


 ユィシアにとって、仔をつくることがどれだけ大事なのかは分かった。そして同じくらいに、彼女が与えてくれる限界突破が、今の俺にとって必要だ。


 限界突破を手に入れて幸運スキルを上げ、リオナの『凶星』を抑えこむために。


 透き通った水に満たされた水辺。小鳥の歌が響き、さんざめく太陽の光が降り注ぐ中で、ユィシアはそっと俺の前に屈みこみ、半身を水で濡らしながら、母性の象徴であるふくらみのひとつに手を添えて差し出した。



◆ログ◆


・《ユィシア》が「採乳」を許可しています。実行しますか? YES/NO



 彼女の姿をこの湖で初めて見た時、ステータスを見た時から、この瞬間を渇望していた。

 俺は壊れそうに高鳴る心臓をうるさく感じながら手を伸ばし、下向きになって垂直に突き出した二つの丘を支える。すると、触っただけで乳の雫が溢れでて、ぽたぽたと水面に落ちそうになる――俺はそれを、反射的に口で受けていた。

 牛乳とも違う……これが、竜乳……。


「ヒロト様……いかがですか……私の……」

「……すごく美味しい……こんなミルク、飲んだことないよ」

「本当は、竜が仔を育てるためのもの……人間には、栄養が多すぎるかもしれない」


 ユィシアは、敵対していた時の怜悧な表情からは、想像もつかないほど優しい瞳に変わっている。目を合わせると、ユィシアは恥じらうように目をそらし、それでも逃げることはしない。


 ぽたぽたと垂れてくる雫を口で受け止めているうちに、ログが流れる。待ち望んだスキルが、ついに……!



◆ログ◆


・「限界突破」スキルが上がりそうな気がした。



「……ヒロト様……?」


 そう、貴重なスキルが一回で手に入るとは限らない。ユィシアは何が起きたのかわからないらしく、俺の顔を見て小首をかしげている。


「……ユィシア、ご、ごめん。もう一回……」

「……かしこまりました。ご主人様の仰せであれば、何度でも……」


 俺がもう一度胸に触れると、ふたたび雫が滴り始める。俺はそれを受け止め、こくっ、こくっと飲みつづける。


 これから何度、こうしてユィシアを呼んで、採らせてもらうことになるだろう……と思ったが。


 それから五回目まで、俺はまったくスキルを取得できず、才能が無いのかと諦めそうになるという一幕もあった。やっとスキルを得た時には、既にユィシアの好感度は次の段階に到達していた。



◆ログ◆


・あなたは「限界突破」スキルを獲得した! 今までの限界を、限界と感じなくなった。

・《ユィシア》の好感度が上がった! 《ユィシア》はあなたを気に入っている。



「……今でも子どもを作れるような気がする。ご主人様に触ってもらったら、母親になれそうな気がしてきた」

「だ、だからご主人様はだめだって……ヒロトって、呼び捨てでもいいくらいだから」

「やはり、一番ご主人様と呼ぶのが良い。屈服し、従属している気分になる……とても、心地良い」


 ……もしかしてユィシアは、ちょっとMっ気があるんじゃないだろうか。そんなことを心配してしまった。



◆ログ◆


・あなたは「皇竜の使役者」の称号を得た!



(称号……このタイミングで。でも、これは嬉しいな)


 ゲームでも称号があり、それがあると入れる場所が増えたり、特殊なクエストを受けられたりした。だから、称号を取っておくのはメリットが大きいと言える。


「……ご主人様……もう少し、一緒に過ごしたい」

「う、うん……あ……これはいいな。気持ちいいよ、ユィシア」

「竜でも、水に浸かりたいことはある。だから私は、この湖が好き」


 満足そうにしながら、ユィシアは俺を抱えたままで、仰向けに湖に浮かぶ。地下からの温水が流れ込んでいる湖は、まだ春にならないこの季節でも適温に温められていた。

 服が濡れることにも今はかまわず、ユィシアと日向ぼっこをする。彼女が居れば、本当に、どこにでも行けるだろう……その翼で。そうすれば、きっとリオナを宿命から解放する手段も見つけられる。魔剣のことだって……そして、女神を探すことも。


 まだ、俺の冒険は始まったばかりだ。限界突破を取ったあと、これからどうしていくのか。俺は、空の上から見た広い世界に思いを馳せていた。


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