王は修羅に堕ちた
ウルゼイルが座る玉座の脇には、白衣を着た老人が立っていた。老人とはいえエイガルと比べれば若い。六十歳くらいだろう。
「……医者、ですかな?」
「ああ。このところ体調が悪くてな、同席を許せ」
エイガルは静かに頷き「ご自愛ください」と告げた。
しばらく床を見つめる。王の惨状から目を背けたかった。
かつて――二十年前のウルゼイルは、こうではなかった。人類共通の敵である魔王に、義憤と共に立ち向かった先駆者だった。国民たちの理解を得るために奔走し、後に勇者と呼ばれる若き英雄を粉骨砕身の精神で支えた。
世界のために、人類のために、ウルゼイルは己の正義を捧げ続けてきた男だ。精悍で、聡明で、凜々しい瞳が印象的な、誰もが敬う王だった。
それが今や、憤怒の化身となっている。
目は窪み、頬は痩せこけ、唇は乾燥し、肌は荒れていた。何度も掻き毟られた髪は、節くれ立った藁のように無秩序に広がっている。指先の爪もボロボロだ。床や壁を引っ掻いたのだろうか、出血の跡がある。エイガルよりずっと若いはずなのに、エイガルより歳老いているように見えた。
今のウルゼイルは、人の形をした業火だ。
荒れ狂う恐ろしい炎。近づけば火傷してしまう。だが、何もしなくてもこの炎は勝手に燃え広がっていくだろう。家族も、旧友も、国民も飲み込んで。それが敵を滅ぼす糧になると信じて。
「……変わりましたな」
「……変わらないお前が羨ましいぞ、エイガル」
エイガルも変わった。心身ともに老いた。
だが、ウルゼイルの変化を目の当たりにした今、己の変化は些細なものに感じる。
先の時代で、ウルゼイルは国民たちの心を掴んだ。それゆえ国民たちは今もウルゼイルを支持している。
戦況は極めて劣勢だ。にも拘らず、この国が降伏せずに済んでいるのは、国民たちがウルゼイルの意思を汲んで帝国に憤っているからだった。民が一致団結しているおかげで、王国は内側の敵を警戒せずに済み、全力で帝国と戦えているのだ。
しかし、団結という名の炎を立ち上がらせている薪は、限界が近い。
この戦争……長くは保たないかもしれない。
「帝国は、儂がどうにかしてみせましょう。そのために軍に入ったのですから」
まだ全盛期とは程遠いが、今のウルゼイルにはこのくらいの言葉を投げかけてやるべきだとエイガルは判断した。
ウルゼイルは硬くなった表情を微かに綻ばせる。
かつては爽やかな笑顔が似合う男だったが……今となっては笑い方すら忘れてしまったようだ。
「お前には期待している。マーセリアも気に入っているようだしな」
「……マーセリア殿下の実力は、既に認めていましたか」
「ああ。あの子は病弱だったため、王族が受けるべき教育を受けられなかった。それゆえ爪弾きにされがちだが、今となっては補って余りあるほどの才覚を発揮している。あの子は他のどの兄妹よりも優れているさ」
「ふぅむ……今のは聞かなかったことにしましょう」
王が特定の子供を贔屓しては、国の中枢が血に塗れる。帝国という外敵に手一杯な今、王位継承で争っている場合ではない。
「エイガル。帝国と戦ってみて、どう思った?」
「……屈強ですな。肉体も精神も鍛え抜かれた印象です。武装も優れていました」
「武装も脅威的か」
「ええ。姿を消す迷彩や、光の斬撃を放つ魔剣……帝国にも、マーセリア殿下に匹敵する技術者がいるのかもしれませんな」
エイガルが、何の気なしに告げた推測。
ウルゼイルはそれを、強い語気で否定した。
「それは、有り得ない」
突然の断定に、エイガルはウルゼイルの顔を見た。
「エイガル、お前は現代のテクノロジーに疎いようだからピンと来ないかもしれないが……マーセリアは天才だ。あの子に匹敵する才能は、世界中探しても見つかるはずがない」
エイガルは首を傾げた。
気持ちは分からなくもないが、事実として帝国の兵器は優秀だ。
「なあ、エイガル。帝国はあれらの兵器を、いつ開発したと思う?」
その問いを聞いた直後、エイガルは一つの可能性に思い至った。
ウルゼイルの言う通り、帝国にはマーセリアほどの技術者がいないと仮定する。ならば何故、王国と技術力で張り合えているのか。
才能を、他の何かで補っているのだ。
たとえば――時間。
帝国は、王国よりもずっと早くに、エーテル技術を研究していたのかもしれない。
いつだ?
いつ帝国は、王国を出し抜いた?
答えは決まっている。
「……儂らが、魔王と戦っていた時か」
「そうだ」
ククク、と王は額に手をあてながら、静かに笑う。
「笑える冗談だろう? 奴ら、俺たちが命を削って魔王と戦ってる間に、俺たちを殺す兵器を開発していやがった……」
ウルゼイルの吐息は震えていた。腹の底から迫り上がった憎悪が、歯軋りする唇から零れ出ている。
信じがたい理不尽に、エイガルも怒りを覚えた。だがこの怒りは、ウルゼイルが背負う怒りの何分の一だろうか。
人類のために誇り高く生きてきたウルゼイルは、その人類に生き様を陵辱された。犯され、弄ばれ、踏みにじられ、吐き捨てられた。世界を救おうとした高潔な精神が、私欲に塗れた手によってズタズタに引き裂かれてしまった。
耐えられるわけがない。
正気でいられるはずがない。
「皆殺しにしてやる」
一国の王が抱く殺意は、災いの先触れに感じた。
ウルゼイルの呼吸が乱れる。額から玉のような汗を垂らすウルゼイルに、医者がすぐ近づいた。
「陛下、あまり感情的になりすぎると、また倒れてしまいます」
「ああ……すまない、大丈夫だ」
ウルゼイルは必死に呼吸を整える。
深く息を吐いたウルゼイルは、悲しそうな目でエイガルを見た。
「……やはり、駄目だな」
ウルゼイルは玉座の背もたれに体重を預ける。
「変わらない旧友と交われば、少しはこの激情も抑えられるのではないかと思ったが……」
その先の言葉を、ウルゼイルは飲み込んだ。
皆まで言う必要はない。旧友の心くらい汲んでやれる。
(……逆効果、だったみたいじゃのう)
変わらない旧友を見て、変わってしまった己を嫌悪したか。
そしてその原因である帝国が一層許せなくなったか。
……二十年は長すぎた。
賢王が修羅に堕ちるには……充分すぎた。




