老兵は死なず、消え去るのみ
「うーむ……今日もいい天気じゃ」
じじいの朝は早い。
特に意味もなく早い。加齢によって体内時計が変化したのと、必要な睡眠量が減っているだけだ。だが、その現象をありのまま受け入れられる身分を手に入れたのは、紛れもなくじじい本人の意思だった。
かつて、この身は戦場を駆け抜けていた。迸る血、うねる魔力、幾度となく振り抜かれる鋼の剣。終わることがあるのだろうかと思っていたその嵐は、一人の少年によって力強く幕を下ろされた。
戦いが終わった直後、じじいは隠居を決めて、都会の喧噪から離れた田舎に家を買った。年老いた男が一人住むだけの家にさほど金はかからない。木造建築で、家というより小屋のような狭さだが、それゆえの素朴さをじじいは気に入っている。
晴耕雨読の人生はじじいを幸福で包んだ。老人一人を食わせるだけの畑なら大した苦労もなく耕せる。畑というより彩り豊かな家庭菜園だ。好きな野菜を、思いっきり丁寧に育てることにした。
適度に日を浴び、適度に汗をかき、川の水で身体を洗ったらコーヒーを淹れ、穏やかな風に揺られながら本を読む。目が疲れてきたら顔を上げ、澄み渡る青空を一瞥し、それから虫や動物が息づく自然に意識を傾け、軽くあくびを挟んでから再び本に視線を落とす。
誰かに急かされることのない日々、その尊さを実感した。
「これも、勇者が魔王を倒してくれたおかげじゃのう」
「まるで他人事のようだな」
来訪者は無遠慮に声を発した。
無視を決め込んでいるうちに帰ってほしかったが、仕方ない。じじいが振り返ると、上等なコートを纏った男が深刻な表情を浮かべて立っていた。
「いつにも増して恐ろしい顔をしておるな、グレイン」
「お前がいつまでも首を縦に振らないからだ、エイガル」
閑静な田舎に不釣り合いな、厳めしい声音が響いた。
この声を聞くと穏やかな日々が遠ざかる。名も無きじじいが、叙情的な気分に浸ることを許されなくなる。
「エイガル、聞いてくれ」
溜息交じりに本を閉じたエイガルに、グレインは言った。
「ウテム要塞が墜ちた」
「なんじゃと!?」
エイガルの叫びに、小屋の屋根にいた鳥たちが一斉に飛び立った。
ウテム要塞は、帝国との国境線に建てられた巨大な防衛拠点だ。すぐ後ろには軍事施設があるため、要塞には大量の戦力が配備されているはずだった。
そのウテム要塞が陥落した。ということは、軍は帝国相手に大幅な後退を余儀なくされている。
「帝国の脅威は日に日に迫っている。……もう余裕はない。今こそお前の力が必要なんだ」
グレインは深々と頭を下げた。
「頼む、エイガル。軍に来てくれ」
エイガルは溜息を吐いた。
もう何度目だろう、この言葉を聞いたのは。
軍に来てくれ。
再び剣を握ってくれ。
田舎のじじい相手に、頭のおかしな相談だとエイガルは思った。
「グレイン、頭を冷やせ。この国の宰相となったお主が今やるべきことは、こんなじじいに頭を下げることか?」
「ああ、間違いなくそうだ」
グレインは間髪を入れずに断言した。
顔を上げたグレインの目尻には深い皺が寄っている。グレインは今年で六十になる男だが、その顔は年齢以上に老けて見えた。
「何故、儂なんじゃ」
エイガルの口から、掠れた声が漏れた。
「救国の戦士が欲しいなら、もっと他に適任者がいるじゃろう。儂は魔王を倒した勇者でもなければ、勇者パーティの一員というわけでもない。一介のじじいに何故そこまで期待する?」
かつて、魔王という存在が人類を脅かしていた。
十年以上に及ぶ長い戦争の末、人類は魔王を討伐した。その最大の功労者が勇者と呼ばれる一人の少年だ。その少年は光り輝く聖剣を握り、魔王を一騎打ちで倒したという。
勇者と、勇者の仲間が、人類を脅かす暗雲を切り裂いた。
その時代において、エイガルの名は民衆に知られていない。
「エイガル。お前の目には、私が幼子に見えるのか?」
グレインの目から、微かな怒りを感じた。
「勇者が魔王を倒した……なんて喧伝は、我が国のプロパガンダだ。確かに、魔王を倒した人物こそ勇者だが、その陰には彼を支えた数多の英雄が埋もれている」
グレインは、エイガルを真っ直ぐ見据えた。
「お前はその最たる例だ、エイガル。伝説の老兵よ」
「……昔のことじゃ」
グレインのコートが風に揺られた。その内側に着ているのは礼服だった。こんな田舎に、何故そのような厳めしい服を着てきたのか、答えは決まっている。エイガルに対する礼儀だ。宰相であるこの男はエイガルに敬意を払っている。
「今回は、私以外にもう一人来ている」
グレインは背後を振り返った。
ずっと木陰でこちらの様子を窺っていたのだろう。現れた少女は、老いた男たちの間に物怖じすることなく割って入る。
「お久しぶりです、エイガル様」
金髪碧眼の美しい少女が、エイガルの前に立った。
白磁の如き美しい肌が、穏やかな陽光を照り返している。まるで光を灯したような美しい少女に、エイガルはしばし魅入った。
「マーセリア殿下……麗しくなりましたな」
「ありがとうございます」
マーセリアの微笑みが、エイガルの心に穏やかな風を運んだ。
気の和らぎをしばらく噛み締めたエイガルは、それからグレインの方を見る。
「図ったな」
「ははは、お前は昔から子供に弱いからな」
グレインが快活に笑う。その隣でマーセリアはぷくっと頬を膨らませた。子供呼ばわりが気に入らなかったのだろう。その反応を見るに、まだまだ子供だ。
だが、ただの子供ではない。
マーセリアはこの国の第二王女だ。エイガルは彼女が今より幼かった頃に何度か会ったことがある。当時からずば抜けて聡明だった彼女の印象は強い。
今年で十五歳だったか。
蝶よ花よと育てられるはずだった娘は、大人顔負けの厳しい双眸を備えていた。
「エイガル様、単刀直入に言います。このままでは我が国は負けます」
マーセリアは、本来なら国民に聞かれてはならないようなことを、エイガルの前でははっきり言った。王族が敗色濃厚を認めるなど、軍の士気に関わる。
「二十年前、勇者が魔王を倒しました。しかし、その先に待っていたのは……更なる戦争でした」
憂いを帯びた瞳で、マーセリアは語る。
今、この国がどれほど追い詰められているのか、エイガルに知ってもらうために。
「魔王の討伐に力を注いでいだ我が国は、一時の平和と引き換えに、国力の低下を免れませんでした。その隙を狙って帝国が我が国の領土を侵略し始め、今日に至ります。我が国は未だ財政再建もままならぬ状態です」
勇者と魔王の時代、人類は確かに結束したはずだった。敵は魔王で、味方は人類。そんな共通認識で戦っていたはずだった。
だがその戦いが終わると、次は人類同士で争うようになった。
この世界はどうなっているんだ。……多くの国民が憤っただろう。
「この劣勢を覆すには、英雄が必要なのです。……エイガル=クラウス、かつて伝説の老兵と呼ばれた貴方のような」
「……買いかぶりすぎじゃ」
「そうは思いません。戦場を知る者は、誰しもが口を揃えてこう言います」
マーセリアは告げる。
かつて戦場を駆け抜けていた者たち。彼らの、エイガルに対する評価を――。
「魔王を倒したのは勇者ですが……あの時代、最も強かったのは貴方だったと」
時代に鍛えられたマーセリアの鋭い眼光が、エイガルを貫いた。マーセリアの信頼は、砂漠を日照りで追い込む太陽のように眩しくて、厳しかった。
しかし彼女が無意識に放った言葉の中に、エイガルの苦悩を言い当てるものがあった。
あの時代。
無意識ゆえに、本心からの言葉だろう。
そう、そうなのだ。
それらは全て、あの時代の話なのだ。
「時代が違う」
エイガルの語気に力が入った。
赤ん坊の頃から知っている遥か年下の少女に、己の無力を説くのは恥そのものだった。だが彼女の眼光を退けるにはそれしか術はない。
エイガルは服を脱いだ。
裸になった上半身には、戦場で宿した無数の傷跡がある。
だがそれ以上に関心を引くのは、この衰えた肉体だ。
「見ろ、この老いさらばえた四肢を。痩せ細り、骨と皮だけになった我が肉体を」
「い、いや、わりと筋肉もあるように見えるが……」
「全盛期と比べればカスみたいなものじゃ」
話の腰を折るな、グレイン。
エイガルが睨みつけると、グレインは苦虫を噛み潰したような顔で押し黙った。
「あの頃から、儂は既に老兵呼ばわりだった。今年で齢は七十になる。……醜いと思わんか? いつまでも儂のような老人が幅を利かせる世の中など。世代交代ができない国、それこそ衰退の一途を辿るのではないか?」
エイガルとて、現実から目を逸らして余暇を堪能していたわけではない。
己の出る幕はもうないと判断したからこそ、今に至るのだ。
「この時代の歴史は、この時代の人々が紡ぐべき。そう思う儂は間違っておるか?」
「いいえ、正しいと思います」
マーセリアはエイガルの主張を肯定したが、
「ですがそれは、平時に限った話です」
「………………ぬぅん」
戦時に常識を語るなと、十代の女子に叱責されてしまった。
だが、戦時だからこそ語らねばならない常識もある。モラルと、未来への想いだけは、いついかなる時でも失ってはならないだろう。
その時――吹き抜けた風に、荒々しい気配を感じた。
「エイガル?」
「何か来るぞ」
反応したのはエイガルだけだった。熟練の戦士としての勘がエイガルに臨戦態勢を取らせる。皮肉にも、その淀みない動きこそグレインとマーセリアが期待していた強さだった。
『グオォオオォオオォオオォオオ――ッ!!』
獰猛な化け物が、森の奥から現れる。
牙と爪を持った獅子のような見た目。だがただの肉食獣とは思えないほどの圧力と巨躯。
この生物は、間違いない。
かつて、嫌というほど戦ってきた――。
「魔獣――ッ!!」
魔王が従えていた化け物たち。
勇者が魔王を倒した後、統制されていた魔獣たちは一斉に世界へ解き放たれ、野生に還った。その一匹が目の前にいる。
「エイガル!? この辺りに魔獣は出ないはずでは!?」
「儂も初めて見た!! 恐らく、戦火から逃れようとした末に、この地へ流れ着いたんじゃろう!!」
この辺りは係争地から離れているため安全だと思っていたが、エイガルの知らぬ間に戦火は近隣まで及んでいたのかもしれない。
魔獣は人を喰う。
眼前の獅子はエイガルたちを睨み、涎を垂らしていた。奴がこちらを獲物と見ているのは一目瞭然である。
「護衛は連れて来とらんのか!?」
「すまない、席を外してもらっている。お前と内密な話をするために」
「馬鹿もんが!!」
仕方ない――。
保ってくれよ、この老体。
魔獣がマーセリアに向かって爪を振り下ろした。老いぼれ二人より若い女の方が旨そうに見えたのだろう。
エイガルはマーセリアの前に立ち、その爪を受け流す。
「ぬぅん!!」
腕、腰、足。順に力を入れ、魔獣の爪を逸らす。
理性のない猛獣の荒々しい力を受け流すには、全身を駆使して力の向きを統一してやるのだ。法則のない力には、法則を与えてやればいい。己の骨をしなやかに使い、振り下ろされた力を一箇所に傾ける。
受け流した獣の爪が、足元の地面を深く抉った。
「お、おぉ……流石だな、まだ現役じゃないか」
「馬鹿言っとる場合か!! これ以上は保たんぞ!!」
暢気なグレインに、エイガルは切れ気味に言った。
何故、逃げない?
今の一瞬で二人には逃げてほしかった。だがグレインは一定の距離を取ったところで立ち止まり、マーセリアに至っては木陰に置いてあった鞄に手を突っ込み、ガサゴソと何かを探している。ピクニックでもしているつもりか?
(やはり儂は、弱くなった)
魔獣が爪を横に薙いできたので、エイガルは深く屈み、その爪を上方へ受け流した。
受け流す。性に合わないやり方だった。本来、己は真っ向からの力勝負を得意としていたはずだ。それが耐えるだけの戦い方しかできず、防戦一方を強いられる。
これでは力になれん。
この程度の力量で、誰を、何を守れるというのか。
老いた肉体は既に疲労を訴え出し、震えていた。僅か二回、凌ぐだけで限界が近づいている。
許せなかった。
惰弱した己自身が。
「エイガル様、これを!!」
マーセリアがエイガルに向けて何かを投げる。
鞄から取り出したかったのはこれか、と思いながらエイガルは受け取り、そして驚愕した。
なんだ、これは?
それは見たことのない剣だった。
まず、柄に妙な突起がある。指で押し込むことができそうだが、何のためにあるのかさっぱり分からない。
鍔の辺りに折り目のような薄い溝があった。まさか、この剣は折り畳めるか? そんな剣など聞いたことないが、折り畳みでもしなければ鞄に入るサイズではない。
刀身も妙な形をしている。片方の刃に沿って、円錐のようなものが四つ取り付けられていた。まるでタコの吸盤が剣から生えているようである。これは本当に、刃を犠牲にするほどのものなのだろうか。
「トリガーを引き絞って!!」
魔獣が攻めてくるのと、マーセリアが叫んだのは、ほぼ同時だった。
余裕のないエイガルは反射的にマーセリアの指示に従う。トリガー……柄についている突起のことだろうか。エイガルは魔獣に向かって剣を振りながら、トリガーを引いた。
ゴッ!! と刃についていた吸盤から火が噴き出した。
噴流の反動で剣が加速する。速い――が、このままでは空振りすると判断したエイガルは、瞬時に一振り目を回転による溜めに変更し、次の二振り目で魔獣を切り裂くと決めた。
なんだこれは?
なんだこれは!?
剣から火が噴き出たことに、エイガルは驚きを隠せない。
だが、この速度は――――在りし日を思い出す。
老いと共に失われた剣速。
もう二度と実演できないと思っていた、風を断ち切る剛剣。
それが、今、この手に!!
蘇った!!!!!
「ぬぉおぉおおぉおおお――ッッ!!!!!!」
エイガルの回転斬りが、魔獣の胴体を断ち切る。
獅子の巨躯が地面に落ちた。ズシン、と大地が揺れる。
実感の湧かない光景だった。
これを、儂がやったのか?
かつての自分ではなく、現在の自分が――。
「時間は平等です」
呆然と立ち尽くすエイガルに、マーセリアが近づいて言った。
「流れる時間は、貴方に老いを与え、技術には進化を与えました」
技術。
それは隠居を決め込んで、自然と隣り合わせの日々に浸っていたエイガルにとって、縁遠い言葉だった。
「確かに貴方は老いたかもしれません。しかし現代のテクノロジーなら、その老いを充分に補えます」
語り続けるマーセリアの目は、強い力を帯びている。
「私は今、先端技術を活用した独自の部隊を保有しています。選りすぐりの技術者は揃えられましたが、それを使いこなす兵士が充分ではありません。……貴方には、私たちが開発した装備の使い手となっていただきたいのです」
マーセリアは、すぅっと息を吸う。
「エイガル=クラウス!! 歴史の陰に埋もれた、誰よりも偉大な戦士よ!!」
王の威厳と共に、マーセリアは告げる。
「私たちの技術が、伝説の老兵と呼ばれた貴方を蘇らせてみせましょう!!」
煌々と輝くマーセリアの双眸を見て、エイガルはようやく、グレインが彼女を同席させた理由を察した。
グレインはエイガルの、子供に甘い一面を利用したかったわけではない。あの男は、エイガルの胸中にある老衰という名の負い目を見抜き、それを取り除くだけの策を用意してきたのだ。
マーセリア王女殿下こそが、その策。
見事、それはエイガルの心を揺さぶった。
エイガルは否定したくても否定できなかった。この心躍る気持ちを。あとは失うだけだと覚悟していた強さが、ほんの一瞬とはいえ再興してみせた事実を。
ずっと、おどけてはいたが。
のらりくらりと躱してはいたが。
勇者と魔王の時代。人と魔が争っていたあの頃、エイガルは勇者の陰に埋もれたとはいえ、それなりに武功を残した身だ。
愛国心が、ないはずがなかった。
「そうじゃのう……」
エイガルは軽く髭を撫でる。
「取り敢えず、その、てくのろじーとやらの話くらいは聞こうかのぉ」




