Ⅶ
「姫、おはよう」
「おはようございます・・・」
いつもと変わらない様子で王妃がやってきました。クロエはできるだけいつも通りに返事をします。
元気でいるというレイラとの約束を守るためには、元の生活に戻らなければと思ったからです。
クロエはずっと元気で生きてきました。ですから、それしか方法が思いつきません。しかし、王妃のことを“お母様”と呼ぶことはできませんでした。
ですが王妃はそれに気づかないようで、笑顔でクロエの手を取ります。
「夢は見ましたか?」
「え・・・、はい」
「誰かにお会いしましたか?何かおっしゃっていなかった?」
王妃はクロエを介して、神様から何らかの言葉をもらいたかったようです。自分を見る目が以前と変わってしまっていることにクロエも気づきましたが、絶望はしませんでした。
ほんの少し、針が刺さったような痛みはありましたが。
「・・・元気でいて、と言われました」
嘘はついていません。夢を見て、レイラと会ってそう言われましたから。
誰に会ったのか言っていないだけで、王妃も誰に会ったのかハッキリとは聞いてきません。そしてこの言葉は王妃をとても喜ばせたようです。
何度も何度も頷いてにっこりと微笑みます。
「えぇ、えぇもちろん。いつも健やかでなければね。さぁお食事にしましょう」
どうやらレイラとの約束は守れそうだと、クロエは安心しました。
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3日経ちました。なぜか何の夢も見ませんでした。
いつ会いに来てくれるのか聞いておけばよかったとクロエはため息をつきます。
こんなにも誰かを待って落ち着かないのは初めてです。王妃が持ってきた新しい本を読みましたが、全然内容が頭に入ってきませんでした。
その本には、人々の暮らしが記されていました。王妃は相変わらず“遠い昔の世界のこと”と言いますが、それは違うのだとクロエはわかっています。
街や森・川、さまざまな生き物。海。それが本当は自分のすぐ近くにあるのかもしれないと思うと不思議でした。
そしてまた、レイラにいつくるのか聞けばよかった。と後悔するのです。
本から顔を上げると、換えたシーツを畳んでいるマリーがいました。
働いているその横顔を見ていると、王妃の剣幕に怯えていた時の顔を思い出します。あの後どうなったのか、クロエは知りません。
「・・・マリー」
考えるより先に呼びかけていました。それは小さな声でしたが、マリーはすぐ振り返り、姿勢を正します。
まだ言葉を用意できていなかったクロエはしばらく考えましたが、マリーはそのまま待っていました。
「・・・この、間・・・大丈夫だった?」
「この間、ですか?」
「私がマリーはどうして大丈夫なのって聞いたら・・・お母様が・・・」
「あ、大丈夫ですよ!叱られたりしていません!」
マリーはそう言ってにっこりと笑います。今、マリーは悲しそうではないですし、王妃に連れられて毎日やってくるのも変わりません。こうして1人で片付けにくることもあります。
何も変わっていないのですから、大丈夫だったのでしょう。クロエはホッとして思わず微笑んでいました。
「よかった・・・」
それを見たマリーは少し驚いたようです。
「私、姫様が笑ったのを初めて見ました」
「え?」
「ずっとお仕えしていますが、初めてです」
そう言われればそうかもしれないと思いました。マリーに興味を持ったのは最近ですし、それまでは名前も知らなかったのです。
部屋に来てもクロエは王妃に答えているだけでしたので、彼女と話したこともないような気がします。
「・・・最近、なんだか姫様は変わられましたね。以前はもっと、」
何か言いかけて、マリーはあっと小さく声を上げました。
「すみません、失礼なことを!」
「・・・大丈夫。続きを言って」
クロエは知りたいと思いました。“変わった”というのはどういうことか。以前の自分はどんな風だったのか。今はどんな風に見えるのか。
マリーは迷っているようでしたが、クロエがじっと見ていると“王妃様には言わないでくださいね”と言って続きをしゃべり始めました。
「その、以前はもっと・・・お人形みたいでした」
「お人形?」
「生きてはいますが、その・・・ぼんやりしていらっしゃって、ただそこにいるだけ、のような・・・」
「・・・今は?」
「今はもう!全然違います!生きているというか、感情があるんだなってわかりますもの!」
マリーは少し興奮しているようで、そしてどこか嬉しそうに言いました。
「今の方が、絶対にいいです!」
その言葉は、クロエの心を少し軽くしました。なんだか恥ずかしくて、“ありがとう”の言葉も小さくなってしまいましたが、マリーには聞こえたようです。
笑顔のマリーを見て、レイラもこんな風に笑うのかなと思うと、ますます会いたくなりました。
「マリーは、お友達・・・いる?」
「少ないですが、いますよ」
「会いたくなったら、どうするの?」
「えっと、会いに行きますね」
その時、クロエの心に風が吹いたような気がしました。会いたいなら会いに行けばいいのだと気づいたのです。
レイラは同じ国にいると言っていましたから、探しにいけばいいと思いました。
クロエはレイラの顔を知りませんが、レイラがクロエを見ればすぐにわかるでしょう。
姿は見えなくても声を聞けばきっとわかります。
考えただけでも胸が高鳴って、その日はじっと扉を見つめたまま朝まで過ごしたのでした。




