牙の作法
牙を捧げる方法は、獣神と獣騎士だけが知る特別なものだ。
「あ、あの、マダラ?その、首筋は急所なので、あまり気軽に撫でられるとちょっと……」
「ふふふ」
だからメリノは知らない。
マダラがことあるごとにメリノの首筋に触れるのが、牙を捧げるその場所を愛撫しているのだということを。
牙を捧げるとは、獣騎士がその牙をもって相手の首筋に噛みつくこと。
獣神から与えられた牙を、相手の急所に捧げるという意味がある。
(ここに、俺の牙を捧げるのだ……)
その首筋を撫ぜながら考えると、マダラは湧き出る歓喜を抑えられず、口元が緩むのを止められない。
「ひえっ」
メリノが小さく悲鳴を上げるのを聞き、マダラは自身の口元の変化に気づいた。少し興奮してしまったようで、うっかり牙を出していたようだ。
慌てず、すっと牙を戻して、メリノを観察する。
「…………」
「あ、あの……?」
メリノはマダラの獣の気配に敏感なようで、たまに怯えたような目で見つめてくることがあった。それがまた、小動物のようでとても可愛い。ただ、あまり怖がらせて逃げられてもいけないので、ほどほどにしようとは思う。
たとえ逃げても逃がすつもりはないが、あまり追い詰めると泣かせてしまうだろう。それはあまりしたくない。メリノには笑っていてほしいとも思うのだ。
メリノと初めて出会ったとき、マダラは魔獣の毒にやられて周囲への警戒心の塊だった。だがその状態のマダラを、メリノの柔らかな声はあっさりと眠りに落としてみせた。それほどに、抗えない魅力がメリノの声にはあったのだ。思えば、マダラの本能はそのときには牙の相手を決めていたのかもしれない。
それからメリノの家で療養を許され、数日をともに過ごし、穏やかなその人柄もとても好ましいと思うようになった。メリノが視界に入れば自然と微笑んでしまうくらいには好感を持っていたが、それでも、体調が戻れば笑って去ることができる程度の執着のはずだった。
それが、魔力を与えられて、その甘美な甘さに、これは牙を捧げる相手だと確信した。
そうしてメリノへの思いをマダラは自覚したが、どうにもメリノへうまく伝わらなかった。マダラが獣騎士になったのはずいぶんと前で、俗世の作法にすっかり疎くなってしまっていたからだ。
どうすれば理解してもらえるのか、しばらく悩んでいたが、最近ようやくその答えを得た。
「メリノ、あなたが好きです」
「っ、…………はい」
告げると、メリノは頬を染めて嬉しそうにしてくれる。その様子はとてもマダラを惹きつけるので、我慢できずに抱きしめてしまう。
そうすると、メリノの柔らかい体を全身で堪能できて、熱いため息を吐いて余分な熱を逃がす。どれだけ熱を逃がそうとしても、はやく牙を捧げてこの存在を自分のものにしたい、独占したいという思いが後から後から湧き出てくるので、抑えるのに苦労する。
だが、待つと言ったのだから、しばらくはメリノに猶予を与えなければ。それに、この、手に入る直前の時間も、今だけだと思えばそれなりに楽しいといえなくもない。
だからまだ、マダラは待つことができる。
メリノとの猶予期間を楽しんでいたある日、獣神から召喚を受けた。
だが、今はメリノの側を離れるわけにはいかない。事情を話すと、牙の相手に関することであれば仕方ないと、獣神は理解を示した。
そもそも、牙を捧げることは、獣神が自身の神子に行ったことから始まっている。獣騎士たちがこれほど牙の相手に執着するのは獣神の影響だ。だから獣神は、牙の相手に関することならたいていのことは許してくれる。それがどれだけのことか、身をもって知っているからだ。
けっきょく今回の仕事は、他の獣騎士を呼ぶことになったようだった。
そんなことが数日前にあったのだが。
「マダラ、君の代わりに俺が仕事に行ったんだぞ。だというのに、どうして君はこんなところで遊んでいるんだ?」
メリノと街で用事を済ませていたら、同僚がやって来た。
「モズ……」
言動から察するに、マダラの代わりに派遣されたのはこの男なのだろう。だからといって、わざわざ文句を言いに来るなと、猫っ毛な薄灰色の髪の同僚をマダラは呆れたように見やった。
突然現れた男に、メリノはぱちぱちと瞬きをしている。身に着けているのがマダラと同じ獣騎士の制服であることから、男の素性は理解しただろう。
正式に牙を捧げるまで、マダラとしてはあまり周囲に男を近づけたくはないのだが、こうなってしまっては仕方がない。相手が獣騎士ならぎりぎり許容範囲内かと、マダラは小さくため息を吐いてメリノに顔を向けた。
「……メリノ、こちらは俺の同僚で、モズといいます。モズ、こちらはこの領の魔術師のメリノです」
「メリノです。……モズさんも、獣騎士なのですね」
「モズだ。そうだな、この制服からも分かるように、獣騎士さ。ところで君…………」
言うなり、顎に手を当てて思案顔のモズが体を屈め、ずいっとメリノに顔を近づけてくる。
さすがに見過ごせないので、マダラはすかさずメリノを引き寄せて距離をとった。
だがモズは気にした様子もなく、ふむと頷いて体を起こし、ぽんとメリノの肩に手を置いた。
「マダラのお手付きか……」
「は?」
「分かっているなら、触れないでください」
言いながら、マダラは無遠慮にメリノの肩に置かれたモズの手を払う。獣騎士が他の牙の相手に手を出すことはないが、この同僚は猫のように好奇心旺盛で悪戯好きなところがある。メリノに妙なことをされれば不愉快だし、そもそも触れてほしくない。
獣騎士は牙の相手以外への何に対しても執着が薄い。だから、牙の相手を得ていない獣騎士は、既に相手を得た獣騎士のことを不思議に思っているものだ。
モズも、まだ牙の相手を見つけていないので理解できないのだろう。なぜ、マダラがこれほどに執着することができるのかを。だからよけいに好奇心をあおる可能性があった。
モズを牽制するように睨みつけていると、引き寄せるために抱き込んだメリノがマダラの袖を引いた。
「マダラ!も、もしかして、私はもうあなたの牙を受け取ってしまっているのですか!?」
モズの「お手付き」という言葉から、メリノはそう考えてしまったらしい。
「いいえ、あなたの承諾なしにそのようなことはしませんよ」
「そうですか、よかった……。では、なぜモズさんは先ほどのようなことを言ったのでしょうか」
「ああ。唾は付けていますから」
「へぇっ!?」
「妙な輩が寄ってこないようにするためです。あなたはいずれ俺の牙を受け取るのだから、他の者が勘違いしないようにしないといけませんからね」
「…………」
顔色を青くしたり赤くしたりと忙しいメリノは見ていて楽しいが、まずは邪魔者を排除するべきだろうと、マダラは興味深げにこちらを見ているモズと再び向かい合った。
するとモズが笑って言う。
「ははは、悪い悪い。しかし、そうか。君は牙の相手を見つけたんだな、おめでとう。なるほど、だから仕事に出られなかったわけか。なるほどなあ」
メリノの状態を見て、まだ正式に牙を捧げていないことはすぐに分かっただろう。モズは何やらからかいを含んだようなしたり顔で頷いている。
いい予感はしなかったので、マダラは適当に話を切り上げるとさっさと退散した。
しかし数日後。
「やあ、また会ったな」
「……モズ、あなたはまだこの街に居るのですか」
「そんなに嫌そうな顔するなよ。なあ、メリノ?」
「え、」
急に話を振られたメリノは大人として愛想笑いでごまかしていたが、その様子を見て、モズはにこにこと微笑みながら言った。
「なあ、メリノ。君はまだ牙を受け取っていないんだろう?……気を付けろよ、牙を捧げるっていうのは、俺たちにとってはこの上なく気持ちの良いものだが、受け取る側はけっこう痛いらしいからな」
「え、」
「モズ!」
そうか、今日の目的はこれだなと、マダラはモズの訪問の理由を悟った。
「余計なことをメリノに吹き込まないでください」
「ははは、だが事実だぜ。オランの牙の相手が愚痴っていた」
「……あれは、オランが気遣いもなにもなく強引にするからでしょう」
「ご、強引にできるものなのですか!?」
獣騎士ふたりの会話を聞いて、メリノは蒼白になっていた。
その顔を見て満足したのか、モズはあっさり種明かしをする。
「なんてな!大丈夫だ、メリノ。それだけマダラのお手付きにされていて、まだ牙を捧げられていないんだからな。マダラは相当に忍耐強いんだろう。いや、それともよほど君が大事なのか。いずれにしろ、きっと痛くないようにやってくれるさ!今度会ったときに感想を聞かせてくれ」
モズは好きなだけメリノを動揺させて、からからと笑いながら去って行った。仕事を押し付けてしまったマダラに対する当てつけだったのは間違いない。
次に会ったときのために、何か報復を考えておかなければならないなと、マダラは心内で頷いた。
だが、今は同僚のことなどよりもメリノだ。
不安そうにしているメリノへの説明を落ち着いてするために、まずは家に帰ろうとその手を引いた。幸い、家まではそう遠くない。
不安を紛らわせるためか、マダラが引いた手をぎゅっと握りしめてくるメリノに、ひとまず逃げる心配はなさそうだなとマダラは安堵した。
道中も不安げにぎゅうぎゅうと手を握ってくるのがどうにも可愛すぎて、マダラは家に入ったところで我慢できずにメリノを壁に押し付け、口づけをしようと顔を寄せた。
だが、そこでメリノが抵抗をしてきた。
「マダラ!……牙を受け取るのは、痛みがあるというようなことを言っていましたが、どのような……」
「……そうですね」
先に説明するべきだと視線で制され、マダラはしぶしぶ顔を離して、代わりにメリノの首筋をすりすりと撫ぜながらどう言うべきか考える。
「………………」
「マダラ?」
ここに、この柔らかい場所に、牙をたてることができるのは、自分だけ。その感触はどれほどのものだろうか。
遠くない未来の想像に興奮して牙が出てしまっていたらしく、メリノが涙目になっていた。
「……い、痛いのは、ちょっと勘弁してほしいのですが…………」
その表情も良いが、あまり不安にさせないようにしなくては。
大事に大事にしたいのだ。
「大丈夫、痛くしないようにしますから」
「…………」
分かりやすく言ったつもりだが、うまく伝わらなかったらしい。メリノがますます眉を下げるのが少し面白くて、マダラは声を出さずに笑った。首筋を撫ぜていた手を首裏に移動させ、逃げられないようにした上で、身を屈める。
「っ!」
そっと口づけを落とせば、メリノは顔を真っ赤にして黙り込む。これでもう、メリノの思考は牙を捧げる際の痛みどころではなくなっただろう。
メリノはこれが初めての経験でもないだろうに、マダラとの触れ合いには大きく心を揺らす。それがマダラへ向ける思いの大きさのようで、嬉しくて仕方がない。
その喜びを伝えるために少し口づけを深くすれば、今度はメリノも一生懸命に応えてくれる。
「っ、…………」
濡れた唇を解放して、メリノが息を整えるのを見ながら、今度はその唇で首筋を辿っていく。
何度も押し付けながら、たまにかぷりと軽く牙をたてて甘噛みをする。
「ん、」
思わず声を上げたメリノを宥めるように、やさしく髪を撫でた。
モズが「お手付き」と表現していたのは、この甘噛みのことだ。牙を捧げる行為の擬似的なもので、マダラの気配を移すことができる。
今はまだ牙を受け取ってもらえないので、こうして定期的にメリノはマダラのものだと印を付けているのだ。
もちろん、牙を捧げた後もマダラは甘噛みを続けるつもりだが。
初めて甘噛みをしたときのことを、マダラは忘れられない。
あのときは、メリノがマダラから逃げようとしているのではと思い、楔を打つつもりで噛みついたが。
牙を捧げると定めた相手の首に噛みつくのは、軽く牙をたてるだけとはいえ、得も言われぬ快感だった。今も、こうして何度行っても、ぞくぞくとした震えが走るほどに気持ちがいい。甘噛みだけでこれほどならば、本当に牙を捧げるときは、いったいどれほどのものなのだろうか。そのときはメリノにも気持ちいいと思ってもらいたいので、捧げる前に甘くとろかして、優しく丁寧に捧げよう。
「……大丈夫。すべて俺に任せてくれればいいのです」
その日が本当に待ち遠しい。




