季節のせい
メリノは、同僚のミゼットと街でお茶をすることがある。
ミゼットは美味しい情報に詳しいので、誘われればメリノは喜んで付き合う。そういうときはさすがにマダラもついては来ないので、女性同士の会話を好きなだけ楽しめる貴重な時間だった。
その日、ミゼットとのお茶会を終えて店を出ると、店先に掲げられている毛織物がはたはたと揺れていた。風が強い。
揺れる毛織物に刺繍されたカラカル領の印を見て、そういえばと思い出したようにミゼットが言った。
「サーバル様がね、あなたとマダラさんのことをちょっと心配していたわ。獣騎士の牙を保留にしてずいぶん経つけれど、大丈夫なのか、って」
「え?」
確かに、獣騎士の牙をこれほど長く保留にしている話はあまり聞かない。マダラが待ってくれているのは、おそらく元々の穏やかな性格と、メリノへの気遣いだ。
マダラが時折見せる獣の側面と、噂で聞く獣騎士の性質から考えれば、問答無用で捧げられてしまうことも珍しくないのだろう。
カラカル領主サーバルは、マダラと顔を合わせたことがないためにどんな人物か判断できず、部下が心配になってしまったらしい。
だがミゼットはマダラと面識があり、その穏やかな顔ばかりを見ているから、大丈夫だとサーバルを宥めてくれたようだ。
にっこり笑ったミゼットに、メリノはありがとうと返して別れた。
そのときは、それで話は終わったのだ。
その夜。マダラの部屋でふたり、お酒を飲んでいた。
特にきっかけがあったわけではない。
だが不意に、メリノはなんだかとても気が滅入ってしまい、不安が襲ってきた。
昼間、ミゼットに言われたことを思い出す。
言われてみれば、確かにマダラを待たせすぎているのではないか。あまりに待たせすぎて、そろそろマダラに呆れられてしまっているかもしれない。
もういいです、さようならと、明日にもマダラが背を向けて去って行くのではないか。
考えれば考えるほど悪い方向に進んでしまい、メリノはソファに座ったまま涙をこぼしていた。
隣に座っていたマダラが、驚いてメリノへ顔を向ける。
「どうしました、メリノ?」
「マダラ…………」
いつになく儚げな様子で名前を呼ぶメリノに、マダラはさらに驚いた。慌てて腕を伸ばしてメリノを囲い、そっと閉じ込める。
「メリノ? 何かありましたか?」
「………………」
自分を囲う腕に、メリノはぎゅうっとしがみついた。
「マダラ、離れて行かないでください…………」
「え?」
「待たせてしまってごめんなさい。でも、どうしても牙を受け取る決心がつかなくて。……マダラを好きな気持ちは嘘ではありません。ただ、もう少しだけ、」
またぐしぐしと泣き始めたメリノに、マダラが背中を撫でて宥める。
こんな風に泣いたりするのは自分らしくないとメリノ自身も思うが、なぜだか不安でたまらず、涙が止まらない。
「メリノ、メリノ。どうしました? いつものあなたらしくありません」
「分かりません、なんだか急に不安になって…………」
いまだぽろぽろと涙をこぼすメリノに、マダラは痛そうな顔をした。
「そんなに泣かないで」
涙を押し止めるように、マダラが目元へ口づける。
その優しい感触が、メリノを少しだけ慰めた。
「メリノ、俺はあなたに牙を捧げると決めています。俺があなたから離れることは決してありませんよ」
「…………ほんとうですか?」
「ええ。安心してください」
「マダラ…………」
甘えるようにマダラへ寄りかかれば、力強い獣騎士の腕が、とんとんとあやすように背中をたたいてくれる。いくらでも甘やかしてくれるその仕草に、メリノはますますマダラへしがみつく。
今のメリノは、とにかくマダラが離れて行かないかと不安なので、触れていてくれるのは嬉しかった。
「メリノ、膝に来ますか?」
「………………」
こくりと頷いたメリノは、マダラの膝の上に横向きに座り、その胸へ顔を寄せた。
支えるようにメリノの腰を抱いたマダラが、涙に濡れた頬を撫でる。
「どうしてそんなことを考えてしまったのでしょう。俺の気持ちを疑いますか?」
ふるふると、子供のようにメリノは首を振った。
そんな仕草も、いつものメリノであればしないものだ。
「いいえ。マダラが私のことを好きでいてくれるのは分かっています。でも、でも、とにかく不安でたまりません……!」
メリノはますます泣き出し、マダラが首を傾げた。
「今日の酒は少し強めだったので、そのせいで酔っているのでしょうか……」
お酒のせいだろうかと見当違いなことを言い出すマダラに、押しつぶされそうな不安を抱えているメリノは、むっとした。
「酔ってなどいません。ただ不安なだけです」
「そうですか…………。メリノ、どうすればあなたの不安を取り除けますか?」
「こうして側に居てください」
「ええ、いくらでも」
マダラの腕に閉じ込められていると、触れた場所から伝わるぬくもりで、心をいっぱいに塞いでいた不安が溶けていくようだった。
この腕の中は、安心できる。
「…………マダラが、好きです」
「俺も、メリノが好きですよ」
ついっとメリノが顔を上げれば、期待どおりに優しい口づけが降ってきた。
「……こんな風に俺を受け入れてくれるようになったメリノに、どうして呆れたりするでしょうか」
唇の触れる距離で、ふふっとマダラが笑う。
「最初のころ、メリノが俺から逃げ出そうとしていたときでも、俺はあなたを諦める気はありませんでしたよ?」
当時のことを思い出したのか、見上げたマダラの目が少しばかり獣寄りになっているようだった。
「メリノ、俺から逃げたりしてはいけませんよ」
「逃げません…………」
メリノはもう、マダラのことが好きだと自覚して、歩み寄ろうと決めたのだから。
そんな気持ちを込めて見つめれば、金の瞳が細められる。
「まあ、逃がしませんが」
言葉とともに、首筋へかぷりと噛みつかれる。軽く歯を当てられた後、そこをなぞるように舌が這う。
獣のせいですっかり敏感になった首筋への刺激に、メリノはぴくりと震えた。
そんなメリノの反応を楽しむ獣は、悪戯をやめる気配はない。
「…………あの、薄々思っていたのですが。もしや牙を捧げるというのは、首に関係するのでしょうか?」
「ん?」
首から顔を離そうとしないマダラの気を少しでも逸らそうと、メリノは質問を口にした。
「どうもマダラは、私の首に執着が強いように感じるのです。急所だからなのかと思っていましたが、それだけではないような……」
メリノの言葉に、顔を上げた獣は濡れた唇をそのままに艶やかに微笑んだ。
「ふふっ。そうかもしれませんし、そうではないかもしれません…………」
つつっと、甘噛みされたばかりの場所を指先で撫で上げられ、メリノは妙な声を上げてしまう。
「ひゃっ。ど、どちらですか?」
「ふふふ。そのときのお楽しみです」
牙を捧げるとは、獣騎士にのみ知られる作法だから、やはりはっきりとは教えてもらえないらしい。
それはもう仕方のないことなので、メリノもそれ以上は追及しなかった。ただ、これ以上の悪戯は阻止するべく、マダラの手は捕獲しておいた。
マダラに触れられて話をしたことで少し落ち着いたメリノは、もう寝ましょうと促されてそのままマダラの寝台へ収められた。
今夜はとてもひとりでは寝られそうになかったので、メリノとしても拒否する理由はなく、一緒に毛布に包まる。
「メリノ、あなたは安心して俺の側に居ればいい」
「はい…………」
「ほら、こうしていれば、夢の中でも一緒です」
「ふふ。安心ですね」
「ええ。おやすみなさい、メリノ」
「おやすみなさい」
毛布の中で手を繋いで、マダラが微笑む。
すっぽりと包まれた手のぬくもりと、すぐ側に感じられる気配に、メリノも安心して目を閉じた。
翌朝。
寝台で起き上がったメリノは頭を抱えていた。
昨夜のことはすべて覚えている。あの、とても自分とは思えないようなうじうじとした湿っぽさを。
(記憶を焼き捨ててしまいたい…………!)
メリノは声を我慢していたが、隣で羞恥に悶えている気配がうるさかったのか、マダラも身じろぎをして目を開いた。毛布に包まったまま、とろんとした顔でメリノを見上げている。
「メリノ、おはようございます」
「おはようございます。すみません、起こしてしまいましたね……」
「いえ、そろそろ起きる時間ですから」
体を起こしたマダラが、メリノの頬へちゅっと口づけた。メリノもお返しをマダラの頬へ贈る。
「あの、マダラ。昨夜のことは……」
「ふふ。ちゃんと覚えていますよ」
「ですよね…………」
がっくりと項垂れたメリノの頬へマダラが手を当てて、顔を上げさせた。
「もう、不安ではないですか?」
のぞきこんでくる金の瞳は、気遣いの色を宿している。
ああ、心配させてしまったなと、メリノはその手へ頬を押しつけた。
「はい、もう大丈夫です。昨日のあれは……ちょっと、魔術の影響を受けていたようで」
「魔術?」
春から夏へ移り変わるこの時期、目覚めの春から活動的な夏にうまく乗り切れない季節風のような魔術が漂う。昨日は風が強かったから、ミゼットと別れた後に帰り道のどこかで拾ってしまったのだろう。
その魔術の影響を受けると、とにかく気分が落ち込んだり、浮き沈みが激しくなったりと情緒不安定になる。
だがそれはあくまで魔術的な影響で、留まらずに吹き抜けていくものだから、一晩眠ればさっぱり元に戻る。まさに今朝のメリノのように。
「はあ、なるほど。そうだったのですね……」
「はい、お騒がせしてすみません」
昨夜の自分が恥ずかしくてたまらないメリノは、ただ謝るしかない。
「でも、俺は珍しいメリノが見られて少し得した気分です」
「…………できれば忘れてほしい醜態ですね」
「ふふ。いやです」
メリノの希望を、マダラはきれいな笑顔で拒否した。
「でも、」
言いながらマダラが腕を伸ばしてくるのに、メリノは逆らわずに寄りかかる。膝を立てて座っている足の間に抱き寄せられ、腕の囲いに閉じ込められた。
寝起きの恋人を腕に収めて満足げに笑ったマダラは、頬をすり寄せてメリノの首筋へ唇を押しつける。
「魔術の影響を受けていたとはいえ、昨日メリノが言っていた不安はまったく出鱈目でもないのでしょう?」
「…………まあ、多少はそういう思いがあることは否定しませんが」
「昨日も言いましたが、それはまったくの杞憂です。俺があなたから離れることはありませんよ。…………むしろ、逃がしませんから」
「………………」
マダラは、ちゅっとわざとらしく首筋で音を立てる。
「たとえ俺が待てなくなっても、そのときはそのときです。ちょっと強引に牙を捧げてしまうだけですから」
「え、…………」
そういえば、強引に捧げることもできると、いつかに聞いた気がするなとメリノは顔を引きつらせた。
「でもせっかくだから、あなたにも気持ちよく受け取ってほしいと思っています。俺の我慢がきくうちに、心を決めてくださいね」
「…………善処します」
生真面目に頷いたメリノにくすくすと笑った獣は、首筋にかぷりと甘噛みをした。




