21、冬来りなば春遠からじ
悪魔の囁きを、イドラは解っていた。
己に仕える悪魔のしもべの多くがどういうことを願っているのか知っていた。悪魔というのは礼儀作法を良く心得、そしてそれらを踏みにじることを何よりのつとめとしている。そうした矜持の持ち主が、高位の悪魔であればあるほどに、主人を堕落させ絶望させる様をまじまじと眺めて目を細めていたいのだろう。
イドラは解っていた。知っていた。だからイドラは彼らに心を許すことはなく、幼いころから、彼らを力で捻じ伏せて服従させることが最も良い手段なのだと知っていた。
だからブライドの囁きは、却ってイドラを冷静にさせた。
あえてアゼルを、あの娘を己から遠ざけて、逃げるように仕向けたとしたら、己が必死に、アゼルを追いかけるのを黙って眺めていたかったのだろう。
(今なら逃がしてやれる)
イドラは冷静になった。
そうか、あの娘。小娘。愚かな小娘。帰りたかったのか。
それはそうか、そうだろうな。
好き好んでこんな悪魔ばかりの屋敷で暮らしていたくはないだろう。
イドラは自分がアゼルに親切ではなかったことをわかっていた。
与えるだけ与えることしかイドラは解らず、それをアゼルが笑って受け取るから、それでよいのだと思い込もうとしたが、そうした振る舞いが「親切」でないと知る程度には、イドラとて人の気持ちを考えることはできるのだ。
「ご主人様?」
おや、とブライドが首を傾げる。
柵を、イドラを封じる檻を壊してあの娘を取り戻しに行かないのかと悪魔は不思議がる。イドラは奥歯を噛みしめた。
「逃げたいなら、逃げるがいい」
イドラは自分が怪物になる恐怖と、アゼルが望むことを天秤にかけた。
あの顔が、あの赤い髪が視界から永遠に消えてしまうことはイドラの体を凍えさせたが、しかし、己の視界に入らなくとも、アゼルは笑っているだろうことは明らかなのだ。それを自分が目にすることがなくなる。ただそれだけだ。
そんなことなら、イドラは耐えてやろうと、そう納得できた。
妖精の庭に花が咲かなくなったとしても、それでも、それで終いになったとて、アゼルが毎晩話の終わりに告げるように「これでおしまい」と、誰かが言ってイドラを怪物にしたとて、それがなんだというのか。アゼルが来る前に戻った、ただそれだけだ。ただ、アゼルがイドラの前に現れたことにより、イドラは瞬きの夢を見た。この夢がイドラの胸の内を僅かに温め続けるのなら、怪物になり己を失うこと程度、なんだというのか。
皇太后の茶会に出かけた、ということは神獣が傍にいるだろう。アゼルが皇太后や兄王に気にいられるようなことがあれば、それはあの娘にとって良いことに違いない。
こんな屋敷で自分のような男と暮らしているより、良い生活ができるだろう。
「お前が追いかけないのなら、あの娘は死ぬぞ」
イドラが渋々と礼をしたブライドを従えて屋敷に戻ろうと踵を返すと、イドラのその背に、声がかかる。
「……愚兄」
振り返ると、いつの間にか兄がいた。
いつもいる取り巻き共は誰もおらず、国王のくせに護衛の一人もなく、イドラの柵の前に立っている。
「なるほどお前は。お前のようなやつでも、あの娘のために身を引くことを覚えたか。それとも怪物になり果てるのが恐ろしく、逃がしてやると尊大に構えているだけか」
善良で真面目で素直な王という評価くらいしかない兄が、雨に打たれているからか、普段とは異なった印象を受ける。
イドラは苛立ち、目を細めた。
この愚かな兄に自分の心情を勝手に推測されるなど、侮辱以外の何物でもない。明らかなイドラの怒気を受けても、タリムは涼しい顔をしていた。
「今ここで私を殺しても無駄だ。もう決めている。もうそう命じている。母上が先かもしれないが、私もあの娘を生かしておくなと、そう判断を下した」
「あの娘はアザレア・ドマではない!」
ガッ、と、イドラは柵にしがみ付いた。触れた場所が黒いうろこで覆われ、ビギビギとイドラの体が変質していく。しかしそれでも構わずにイドラは言葉を続けた。
「俺といなければ何の意味もない小娘であろう!俺の庭で語らせなければ、あの小娘がものを語ろうと、なんの意味もない!」
「だが殺すんだ。お前がここから出て、あの娘を助けにいかなければ、あの娘は今日死ぬ」
イドラはアゼルが自分の前から姿を消すことは耐えられた。
そしてアゼルを失った自分が怪物になることも受け入れた。
だがアゼルが、あの娘が死ぬという、そのことだけは受け入れられない。
激しく振り続ける豪雨の中、雷鳴が轟き、唸るような、嘆くような咆哮が空に響いた。




