*閑話、神獣ソドム*
長生きはするものだと、ソドムはしきりに感心した。世に飽くほど何もかもを識るわけではないにしろ、ある程度の娯楽は飲み込み、人の輪に入ってヒトの真似事をしながらもソドムは己が人と異なることを良くわかっていた。人になりたいと思ったこともない。石の輝きを愛で掌で大事に慈しもうと、己が路傍の石になりたいなどとは思わないのと同じだ。
スレイン王朝の代々の王たちは皆、一度はソドムと「友」となろうと試みた。親愛を、友愛を、友情を示して、同じ様にソドムからも得ようとした。ソドムはその度によろこんで、それらの児戯に付き合って彼らの望むだけの愛情を返してやった。
けれども彼らの全てが、やがてソドムを「違う」と判じるのだ。獣だと詰るのではない。「神獣だ」とそのように平伏す。ソドムが山を割ったわけでも、死人を蘇らせたわけでもない。ただ王家の鎖に大人しく繋がれてやっているだけだというのに、王たちは皆、ソドムを友と見れないことに絶望する。
まぁ、それはいい。それは別にどうでもいいことだ。返した愛情がその分どう扱われようと、ソドムの人への鑑賞を制限するものではなかった。友というのは対等な者同士がなれるのだと、そのように叫んだ王がいたので、そういうものか、と思ったくらいだった。
イドラ・マグダレアのことをソドムはとても注目していた。
いずれ孵化するだろうと思われる魔王の卵。それがうまいこと隠されていた。隠したのは妖精王だろう。あれもたまには良い行いをする。確かイドラが妖精王ギュスタヴィアの霊樹を焼いたのだったか。あれにはギュスタヴィアの妻の亡骸が囚われていた。魔王の炎でなければ焼けない木を灰にしたのが、妖精王の慈悲を買ったのだろう。
「そこで少年は、ずっと見たかった絵を見ることが出来て、傍らに寄り添う大型犬に言うのです……なんだか疲れたなと」
神妙な顔で物語のラストを語るアザレア・ドマ、ではなくアゼルという娘。赤い髪に緑の瞳の、魂の形はどう見てもドマ家の娘なのだが、輝き方が複雑だった。アゼルの語りに、妖精たちが涙する。パト、なんとか、とかいう犬の名を絶叫し「呪ってきます!村中の連中!!」「止めないで!!」「なぜこんな目に……!」「神は無能か!?」と嘆いている。
うまいものだ、とソドムは感心した。
ただものを語るだけなら、音楽を奏でる吟遊詩人の方が上だろう。ただアゼルというその娘、話し方が妙にうまい。物語というものは、ソドムの知る限り口語か文か、それとも芝居で伝わるものだ。しかしアゼルは、まるで何か別の表現方法で、実際のその場面を見聞きしたのではないかと思うほど、事細かくものの姿をよく語る。
そしてそのアゼルの話を黙ってきいているのが、ソドムの友、イドラだ。
アゼルがころころと表情を変え、身振り手振り、全身を全力で使って表現する世界に妖精たちが魅了されている中、イドラの瞳はただアゼルを見てる。話を聴いていないのではないかとソドムが揶揄りたくなってしまうほどだ。
ソドムはイドラの瞳に覚えがあった。
じぃっと、相手を見つめて相手が何を考えているのか、何を感じているのか少しでも汲み取ろうとしている目だ。
ソドムはこの目が好きだった。己がけして、誰かに向けたり、向けられたりすることのない目だ。
恋を、しているのだな。
ソドムは目を細める。
思えばアザレア・ドマの魂のわりに、あの娘はあまりにも異質だった。おそらくイドラが頑なに「あれはアザレア・ドマではない」とでも言い続けたのか。名というのは呼ばれることに意味があり、力がある。この世で最高位に位置するほどのイドラが呼ぶ名に意味と力がこもり、あの娘はイドラによって「アザレア・ドマではない」という保証をされ続けていた。
そしてイドラが名を付けた。もちろん偽名であることはわかりきっている。ただそれでも、あえてイドラが本来とは異なる名をつけて呼んだからこそ、あの娘はその存在を完全に守られることとなった。
いかにソドムといえど、あの娘を殺すには真名を知らなければ殺せなくなった。そして仮のその名はイドラが呼んでいる。強い者がアゼルと呼べば呼ぶほど、真の名は隠され続ける。
どうも、思った以上に強く懸想しているようだ。
ソドムには面白い。
ただ千の、万のものを語ることのできる女だからと価値を見出し、側に置こうとしてるのかと思ったら。まったく、なんだその目はとソドムは嬉しくて仕方ない。
恋する男の目というものは、まったく、どうしようもないほど見て楽しいものだ。
それが友なら尚更で、ソドムはイドラが玉座についてくれさえすれば、二人の子を自分が大事に育て鍛えてやることができるのに、と、そんなことを考えた。




