(77)俺にできなかった事
「ところで」
「……?」
「私の背中も流してほしいなぁ、なんて思って……」
「いいですよ」
「あ、いいんですか……?」
「ええ」
悩みを聞いてくれた礼だ。背中を洗うくらいお安い御用です。
「ではお願いします。タオル外しますね」
椅子に座り、壁の方を向いて言った。
「……どうぞ」
一応反対を向いて、エリナさんから視線をそらした。
「別に見てもらっても構いませんよ」
「いや良くないです、こっちの問題で」
「……残念」
……。
タオルで石鹸を泡立てる。エリナさんの持ってきた石鹸からは、とてもいい匂いがした。
「じゃあ行きますよ」
「はい、お願いします」
泡のついたタオルをエリナさんの背中、左の肩甲骨辺りに当てる。
そのまま右、下、左とジグザグに進む。
……。
「ご、ご主人……様ぁ……っ」
「⁈」
「お上手……ですねっ」
「ちょ、変な声出さないでください‼」
「すみません。気持ちよかったものですから、つい」
「背中流してそうなります……?」
——前言を半分くらい撤回したい気分だ。
「ありがとうございました。至福の時間でした」
「そ、そうですか……。喜んでもらえて、何よりです……。じゃあ俺はもう出ますね」
「ええ」
ろくに返事を聞かず、俺は早足で脱衣所の方へ。
ノブに手をかけ、ドアを開——
「ごちそうさまでした」
エリナさんの声だったと思うが
ドアの開閉音で聞こえなかった。
「何か言いました?」
「いいえ。おやすみなさい」
「……おやすみなさい」
——不思議な人だな。
そう感じながら、トイレを済ませて部屋へ戻った。
トラウマは、心に追った傷だ。
アイシャのトラウマであるあの出来事は、未だに彼女を苦しめ続けている。
実力で勝っているにもかかわらず、クモ型魔物と戦えないほどに。
俺は、その克服を要求しない——否
その傷を、どうやって癒してやるのがいいのか見当もつかなかった。
同じ「傷」でも、お姉ちゃんの能力で治すことは出来ない。
無理やりクモ型魔物と戦わせて恐怖心を克服……なんてのは論外だ。
そんな事では、傷をえぐるだけにすぎない。
俺の、祖父に関する出来事も心の傷なのかもしれない。
亡くなった時、俺は騎士校の寮から離れられなかった。
魔特班試験の期間だったからだ。
家族からは「自分を優先しろ」と言われた。
そうするしかなく、とても悔しかった。
その悔しさを必死に乗り越えた。
なのに、祖父は生きていて?
正体を隠して俺たちの前に現れて?
敵かもしれなくて?
妙な紙を託してきて?
しかも魔物について未知の情報を知っていて?
色々な事がひしめき合って、心に傷が出来かけた。
トラウマが一つ増えそうだった。
——エリナさんは、そんな俺を救ってくれた。
傷が広がる前に、消毒してふさいでくれた。
それは……
——あの日。
——あの馬車の中で、俺がアイシャにしてやれなかった事。
——俺には、いったい、何ができるのだろうか……。




