060.甲子園へと続く道
星洋町駅から野外活動での買い出し以来の中心街の駅まで移動し、駅前のバスターミナルから県営球場まで直通のバスに乗り継ぐ。中心街につくまでは伊月を中心に野球談議に花を咲かせていたが、別に僕たちが試合をするわけではないのに、次第になんだか緊張してきてバスの中では終始無言だった。
「……着いたわね」
「結構遠かったな」
「あたし、野球場なんて初めて来たよ」
県営球場の三塁側ゲート前に到着し、僕たちは何となく思い思いの感想を述べ、ゲートをくぐる。少し長めの階段を上って通路から球場に入る。
「おお」
つい口から声が漏れてしまった。通路から入って眼前に広がる県営球場の全景に、何というか、うずうず湧き上がると高揚感を感じたからだ。
「瀬野くんでも感動することがあったとは……」
「確かになんだかワクワクするわね」
二人もなんとなく目の前の景色には感じるものがあったらしく、僕たちは三人して一瞬歩を止めてしまった。そのまま三塁側のスタンドの、ちょうど球場全体が見渡せるいい位置に陣取ったわけだが、ここで対戦相手の黒沢工業は確かに名門なのだろうと実感してしまう。
とにかく反対側、一塁側に座る人の数が違うのだ。しかも、一丁前にチアリーダーとかブラスバンドがいて、一塁側はさながら甲子園のアルプススタンド状態である。それに対して我ら三塁側はどうか。どう見ても関係者、つまりご父兄らしき人達や、野球部員の友人らしき若者がまばらに陣取っているだけだ。
「なんだろ、相手の人たち気合入りすぎてないかい? ちょっと怖いよ」
「名門校なのだから、全校生徒で応援にでも来ているのではないかしら」
「うちも吹奏楽部くらい来てやれよな」
すでに僕たちですら黒沢工業、略して黒工の大応援団に気圧されてしまっていたが、そうこうしていると三塁側のベンチから、星洋のメンバーがグラウンドに出てきた。遠目に見ても圧倒的に華奢で小柄で長髪で、背番号が付いていない薄青色のユニフォーム姿が羽織先生であることはすぐに分かったが、ほかの生徒たちはあまり見分けがつかない。僕、視力はそんな悪くないんだけどなあ。
「なんかどれが誠か良く分からんな。羽織先生は一瞬で分かるけど」
「あれだよー。二番の人が多分上村くんじゃないかな?」
「そうね。上村くんはキャッチャーだから、たぶんそれで間違いないと思うわ」
伊月は言いながら、手持ちのバッグから赤い縁の眼鏡を取り出す。眼鏡姿の伊月は初めて見たが、意外と視力はよくないのだろうか。
「おおー、凛ちゃんメガネ似合うねえ。普段からしないの?」
「普段は差し支えないから控えているのだけれど、授業中とか板書が見にくい時だけ使ったりしているわよ?」
「へえ、知らなかったな」
「……確かに羽織先生だけはすぐに分かるわね」
そういえば羽織先生である。最近の僕が気になっていることの一つに、あの運動でもしようものなら一瞬でぎっくり腰にでもなってしまいそうな羽織先生が、どうやってノックを打っているのか、というのがある。まあ、そこまで言うのは冗談にしても、普段から生徒の前でも平気でタバコを吸うようなヘビースモーカーである羽織先生が、ちゃんと運動できるのか気になるのだ。あんな人だけど、一応僕がちゃんと信頼してる先生だからさ。少し心配になっちゃうじゃん。
星洋ナインが三塁側のファールグラウンドでキャッチボールなんかをしていると、向かい側、一塁側のベンチから黒沢工業のメンバーが登場。紫の帽子に白のユニフォームで、胸には黒地に紫の枠で、黒工の文字が印字されている。結構かっこいいな、向こうのユニフォーム。方や我が軍の胸には、例のクソダサフォントでSEIYOとプリントされていた。
『おーい野球部、見に来てやったぞー』
『中村君かっこいいー!』
『簡単にノしたれや野球部!』
「……何か気に食わない野次ね」
「なんか今日は色々怖いよー」
伊月や柳井の言う通り、黒工ナインに浴びせられる応援、もとい野次は、もう単刀直入に言えば品がない。なんか見てるこっちがイライラしてくる。そんな中飛んできたある一つの野次に、グラウンドの羽織先生と誠がピクリと反応したのに気が付いた。
『女が監督の弱小なんかに負けんなよ!』
「ねえ、瀬野くん、麗美ちゃん? 猿山のアホ猿がうるさいので黙らせてきていいかしら?ついでに礼儀の何たるかを教えてきてあげるわ」
「いいねえ凛ちゃん。行ってきなよ。あたしもついてくよ? あたしおばかさん嫌いだし」
「やめろお前ら落ち着け」
僕はグラウンドの様子を見ていたので気付いてなかったが、この野次は三塁側スタンドの約二名にも会心の一撃だったらしい。しっかり伊月の右の眉毛はぴくぴく跳ねていたし、柳井も例の気持ち悪い、女子高生がしちゃいけない笑い方をしていた。
二人を落ち着かせてからグラウンドに視線を戻す。誠と羽織先生が何か話し込んでいたが、その話し合いが中途半端なところで中断された様子だ。審判の人たちがバックネット下から出てきたのに合わせて、星洋ナインと黒工ナインがホームベース近くで整列したからだ。
野球観戦といえば、打順とかのアナウンスがあって結構わかりやすく進むものかと思っていたが、甲子園の県予選準々決勝とはいえ、所詮地方の大会であるこの試合にそんなものはなかった。試合が始まってから、バックスクリーンに各校のスタメンとスコアが表示されているのに気づいたくらいだ。
試合は星洋の先攻で始まった。そして、僕たちは始まって十秒で実力の差を思い知る。それは、相手校のピッチャーが一球目を投じた瞬間だ。
唸る剛速球とはこのことだろう。スタンドから見ていてボールが一瞬でキャッチャーに吸い込まれたのに気づいたのは、そのキャッチャーミットが豪快な音を鳴らしたからだ。その音を追って、審判は大きな声でストライク、と叫んだ。
「え、これ無理じゃね」
「うん、無理だね」
「確かにちょっと無理があるわね」
そもそもの話だ。星洋高校は、いちおう全国でも知る人ぞ知る進学校である。一応僕たちはそれなりに優秀な頭脳を持って生まれてきているのかもしれない。だけど、そのせいでそもそも僕たちは運動ができないのだろう。いや、僕が運動できないのはさておき、例えばうちの高校でも運動ができるほうである誠や伊月、野村先輩なんかも、たぶん黒工基準で言えば運動が全くできない生徒に成り下がってしまうのではないだろうか。
そんなことを考えているうちに、星洋の二人のバッターが三球三振に倒れた。しかし。
「なんだか全然試合が進まないねえ」
「すげえファールばっか打つなあの人」
「ファールを打てばアウトにならないから、粘ってフォアボールやデッドボールを狙っているのよ。力のないバッターでも活躍できる作戦よ」
星洋の三番バッターが十何球と相手投手に投げさせたところで、伊月が解説してくれたように四つ目のボール球がキャッチャーミットに収まる。三番がフォアボールで出塁し、四番の誠が左打席に立った。が、すぐさま誠は普段の真面目さからは考えられない行動に出た。
「おおー! いいぞー上村くん!」
「マジかよ。らしくねえな」
「ええ、そうね。でもあれも何かの作戦かしら」
右手に持った金属バットでライトスタンドを指す。これはいろんな漫画で読んだことがあるアレ、すなわちホームラン予告だった。てか、こんなことして大丈夫? 高校野球のなんか偉い人が怒ったりしない? 羽織先生も羽織先生でベンチから出てきて誠を叱ったりする様子もないしさ。
投球動作に入る相手投手。投げられるボール。会心のフルスイング。
そして、響いた快音。
初球を振りぬいた誠の打球は空高く舞い上がり、ライトスタンドに突き刺さった。
一塁ベース近くをガッツポーズでランニングする誠。これでもかというほど騒ぐ僕たち。反対に、完全に黙り込んでしまった一塁側スタンド。とても痛快なホームランだった。
「なるほどなるほど、そういうことか。あたし、ちょっと野球好きかもしれない。面白いねえ」
「あ? どうした?」
ひとしきりはしゃいだ後、柳井がつぶやいた。
「上村くんがバットを構えてたあれってさ、これからホームラン打ちますよーってことでしょ? そんなこと、名門さんがあたしたちみたいな弱っちいところにされたらそりゃあ怒るよね。だから、相手のピッチャーさんは力を見せようって全力で速い球を投げてくるわけで、上村くんはそれを狙ってたってわけさ」
やっぱり柳井ってすげえ。野球のルールもあんまり分かってなさそうなのに、めっちゃ筋の通る解説してくれた。だけど、なんかこれ本当に誠らしくないよなあ。あいつ、真面目だから絶対予告ホームランとかしなさそうだし。
「しかし、誠がそこまでずる賢いかねえ」
「たぶんこれ、羽織先生が考えた作戦だよ。試合の前に何か二人でしゃべってたじゃん。やっぱりみんな頭いいなあ」
なるほど。それなら完全に筋が通るな。やっぱり柳井の頭脳は他の星の超巨大文明から転送されてきたって言われても信じるくらい構造が違う。だけど、お前が他人のこと頭いいって褒めるのは嫌味にしか聞こえんというか、自分がいかに無力かを思い知るような気がするからやめてくださいね。
「でも、麗美ちゃんの言う通りね。力で勝てないなら、私たちは頭で勝てばいいのよ」
「ま、そりゃそうだな」
星洋の頭脳対黒工の名門としてのプライド。その対決は、星洋高校が二点を先制するというまさかの幕開けだった。そしてそれは、星洋高校野球部が甲子園へと続く道をひたひたと走り始めたことを意味していた。




