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055.絶対にそれだけはあり得ない

 体育祭当日。運営班の朝は、普段よりも一時間ほど早かった。


 昨日、伊月と下校した時にいろいろと感慨深い思いにふけってしまったので、登校するときに変にセンチな気分になったりしないで当日を迎えることができた。まあ、結局伊月や柳井との関係性が誠とのそれと近づいたってだけで、特に何が変わったというわけでもない。今はとにかく、積極参加の実行委員として体育祭の運営に没頭するだけだ。


 松葉先生と僕以外の三名の委員が、短距離走のゴール前に設置された朝礼台の裏の運営班用のテントに集合し、放送機材などの最終チェックをしたり、先生が楽し気に爆竹を打ち上げたりしているうちにいつの間にか本番開始。完全体生徒会長状態の野村先輩や実行委員長の伊月、絶賛絶好調な校長先生のつまらない話を聞いているうちに本番が始まる。


 メインディッシュに添えられたパセリのごとく無難に、かつ謙虚に、悪目立ちしないように体育祭に放送を流したり、負傷した生徒を最低限必要なコミュニケーションで救護班のテントに連れていったりする。完全なる黒子に徹して円滑な運営をサポートしていたところに、背後から声をかけられた。


「やあやあ瀬野くん。なんだかまた君とは久しぶりな気がしたから話しかけてみたよ」

「……なんだ柳井か」


 振り返らずとも声の主が分かったので、とりあえず言葉を返す。


「むー。瀬野くんひどーいよー」

「悪いけどちょっと忙しくてな」


 言いながら振り返ると、ハワイアンブルーのかき氷を食べながら、どす黒く染まらない、いつもの可愛らしい笑顔で柳井が立っていた。


「あ、そうだ。柳井、色々ありがとな」

「あー、でたそのパターン。瀬野くん、いろいろ気づいちゃった?」

「ようやく昨日な」

「遅いよー。いつもあたしは瀬野くんのためになるように動いてるって言ってたじゃんかー」


 やっぱり柳井麗美という女は、悪魔で魔女で天然オーパーツで、人類に更なる発展をもたらすほどの天才なのではないかと思う。昨日僕が考えていた、この体育祭実行委員の活動自体が柳井に最初から仕組まれたものであったという仮説は、この時点でほぼ正解だ。その上、まだ体育祭自体が終わっていないことまで考えるとここから更なるどんでん返しが待っていても何も不思議じゃない。


「だって凛ちゃんと瀬野くんがもっと仲良くなれば面白いかなって思ったし、実際瀬野くんはもっとお友達を作るべきだからね。そういうふうにするには一番の方法だったと思うよー」

「……お前マジで魔女だな。どんな頭してんだ」

「おお、最大級の褒め言葉だ。あっりがとー」


 僕は大体皮肉を込めたニュアンスで柳井のことを魔女だと呼ぶのだが、いつも柳井は本当に褒め言葉と思っているようでうれしそうに笑って返してくることが多い。今回も無邪気な満面の笑みで返してくれたせいで、ちょっとだけ心にこう、来るものがあったのは事実だ。


 柳井も伊月も、顔面だけは無駄に整っているのだ。健全な男子高校生なら、そういう表情にぐっとくるのは正常の範囲内ですよね。


「おい柳井、次は二年生の借り物競争の番だ。早く整列して来い。それと瀬野も早く仕事に戻れ」

「ま、松葉先生お久しぶりです……それじゃ瀬野くん、頑張ってねえ」


 僕は慣れてしまったせいで忘れているけど、本来松葉先生はあの柳井ですらここまで取り乱してそそくさと自軍へ戻るほどの威圧感を持っている。柳井は手をフリフリしながら早歩きでこの場を去ってしまった。


「お前と柳井って喧嘩したんだったよな」

「え、いきなり何の話ですか」


 競技の実況をアナウンスしている生徒の隣の席に腰掛け、その隣に松葉先生が座る。松葉先生から世間話を振られるなんて、今このタイミングの実行委員は非常に暇らしい。


「いやな。俺が学校に帰ってきて最初の仕事がおめえらの喧嘩の仲裁だったもんだからよ。久しぶりに柳井の奴を見かけて思い出しちまったよ」

「ああ……そんなこともありましたね」

「まあ何だ。教師としては少し安心したって言うかな」


 松葉先生は、その筋の人たちもびっくりなほどの風貌と、こと人間が怪我をするようなシチュエーションが大好きな以外はいたって常識的な人物だ。そういう意味では、僕も羽織先生の次には信頼できる先生だと思うようになっていたし、実際話していて不快に思うこともない。


「お前ら付き合ってんのか?」

「え、何言ってるんですか。ありえないです」

「即答かよ。ああいうのがきっかけで付き合いだす生徒ってのは多いんだが、そこまでかよ」

「僕が柳井や伊月と付き合うなんてありえないので」

「おい、何で伊月の話が出やがる」

「次に聞かれそうな気がしたので」


 そこまで言うと、松葉先生は呆れた様子で大きなため息をついた。何で呆れられたのか良く分からなかったが、僕は羽織先生にしても教師陣を呆れさせることが多いクチなので気にしないことにする。


「羽織の奴からお前がだいぶ成長したって聞いてたんだがなあ」

「羽織先生は結構僕のことを買いかぶってますのでお気になさらず」

「松葉先生。ちょっと瀬野くんを貸してもらえないかしら」

「あん?」


 不意を打たれた松葉先生の声を追いかけて、視線を声のほうに向けると、机を挟んだ僕たち二人の前に伊月が立っていた。えんじ色の袖口の白い体操服に、えんじ色の長いジャージを着て、その長い髪の毛をポニーテールにくくって赤色のはちまきを頭につけた究極にダサさを極めた格好だったが、それでもいつもの誇り高いオーラを纏っているのは生まれ持った彼女の美貌によるところが大きいだろう。


「ああ、借り物競争かよ。よし瀬野、行って来い。少しはお前も競技に参加しろ」

「ええ、それじゃ本末転倒……」

「いいから来なさい、瀬野くん」

「ちょ、おい……」


 伊月が右の手首をがしっと掴んで走り出したので、僕は立ち上がって何とか机を避けて走り始める。少し前の僕なら、全校生徒の前で伊月に手を掴まれ走るなんてリスクは削除して、このような状況に陥るのは避けていたはずだ。


 だけど、なんとなく伊月との関係性を見直し始めた今、そうすることは逃げていることと一緒だ。今僕がするべきことは、むしろ全校生徒の前で借り物競争で彼女から必要とされる、何らかの理由があることを知ってもらうためにも、彼女と一緒にゴールすることだろうから。


「おいカズ。まさか俺がお前に運動で負ける日が来るなんて思いもしなかったぞ」

「あたしもあたしもー。絶対にそれだけはあり得ないと思ってたよー」

「こうでもしないと、瀬野くんが体育祭で活躍する瞬間なんて訪れないでしょう?」


 伊月のおかげで僕は生まれて初めてトラック競技で一位をとったわけだが、二位でゴールした柳井、そして柳井の借り物の誠とゴール後に合流していた。久しぶりに四人そろったような気がするけど、やっぱりこれが一番しっくりする気がするな。


「ところで、なんで柳井は誠を連れてきたんだよ」

「あたし? クラスで一番人望のある人ってお題だよ」

「それは上村くんで間違いないわね」

「よせよ、さすがに照れるだろうが」

「じゃあじゃあ、麗美ちゃんは何で瀬野くんを連れてきたの?」


 三位以下の生徒が借り物を探すのにあたふたしている様子だったので、僕たちは他愛もない与太話に興じる。そんなとき、柳井が伊月に問いかけた質問に伊月の言葉が止まった。


「……あれあれ? 麗美ちゃんなんか言いにくい系ですかねえ? そういえばなんかお二人には変な噂があったって話もありましたねえ?」

「なんだよお前ら、俺の知らない所でいつの間にかよろしくやってんのかよ」

『やってない!』


 またしても伊月とハモって言葉を返してしまう。伊月のおでこが僕の背中事件の真相を柳井に話したときも似たようなことがあった気がする。


「やっぱりお二人息ぴったりだねえ」

「早く付き合えよ」

『あり得ない!』

「いや十分あり得るだろ。どれだけ息あってんだよ」

「そ、それじゃあ上村くん、あなたは三浦さんって人とはどうなのかしら?」

「ああ……それについては後日しっかり話そうと思ってたんだが」

「あら、意外と含みを持たせるわね。しっかり進展していればいいのだけれど」

「その辺もまた話すわ。ところでおめえは何でカズなんて連れてきたんだよ」

「……とても遺憾ではあるのだけれど、何で瀬野くんを探していたのかすっかり忘れてしまったわ」

「なんだよそれ」


 伊月と誠が話をしている間、柳井がすっごくいやらしい笑顔でこっちを見ていたので、例によって柳井からは何か見えているものがあるのだろう。けれど、奴の頭の中をのぞこうとするのは専門知識のない人がアリの行列を四時間ほど観察するくらい意味のない行為なので、僕は無駄に考えるのをやめた。


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