052.お前のおかげで今が楽しいんだ
いやー。盛大にやらかしたね。ほんともうヤダ。帰りたい。
佐伯先輩の本性がクズすぎたせいで、本当に心の底から怒ってしまった。前に中根先輩が頭に血が昇るといかんみたいな話してたけど、その気持ちが今なら良く分かる。うん、本当に僕怒っちゃったよ。てへぺろ。
なんかめっちゃ熱くなっちゃって柄でもないようなセリフ吐いたりとか根性論的思考とかやっちゃったみたいだけど全然覚えてません。そう言うことにしておく。
「ごめんなさい、瀬野くん。ちょっと歩くペースが……」
僕の左肩に右手を乗せて、右足に負担がかからないようにして歩く伊月が背後から声をかける。数分前の自分が恥ずかしすぎて伊月を保健室に連れていっていることすら忘れてしまっていた。さすがに僕は男子で伊月は女子なので、大っぴらに肩を貸すことはできないよね。
伊月を気遣いながら保健室前に到着。保健室は校庭側の昇降口から入ってすぐの教室なので、校庭を横断したらすぐに到着したのだが、どうやら保健の先生が不在のようだ。扉を何度ノックしても返答がないのだ。
「……そういえば、保健の村田先生は長期療養中じゃなかったかしら」
「あ、そうだな。そういえば」
そもそもこの村田先生なる人物が療養中でいないから松葉先生が仕方なしで体育祭実行委員の顧問をするという話だったのを思い出し、保健室の扉を開けてみる。するとやはり施錠はされておらず、また保健室には誰もいなかった。
伊月は僕の肩を離れて、壁伝いに保健室独特の黒い丸椅子に腰かけた。室内に入ったことで伊月の去り際に何かいい匂いがしたけど気にしない。気にしていないからね。
「シップとか包帯が必要か?」
「多分、応急処置としてはそれでいいと思うわ」
普段のおかん属性から、どことなくこういうことに詳しそうな伊月に確認をとって、戸棚からシップと包帯を取り出す。伊月は靴下を脱いで器用にシップを貼って包帯を巻き、手際よく処置を完成させた。
「……大丈夫か?」
僕は伊月の正面に立って眺めていただけだったが、一応完了したようなので声をかけてみる。
「ええ。足首のほうは……ただやっぱり、辛いわね」
「ちゃんと病院行ったほうがいいんじゃねえのか?」
「いえ、本当に足首は大丈夫なのよ。でも……そうね。またちょっと、話を聞いてくれるかしら」
「はいはい」
どうしてかな。この一か月の間に、僕と伊月の関係は、かなり太いつながりになったような気がする。伊月と誠、そして柳井と過ごす時間は楽しくて、僕はその時間は守りたいと思うが、なにも伊月個人とここまで仲良くなる必要はなかったと思う。もともと僕は、伊月との関係性は可能な限り薄いものにしようと思っていたのだ。
それが、いくら柳井の指示があったとはいえ、伊月の悩みを聞いて、伊月と共に行動している。そして伊月自身も、先日の背中事件からこうして僕に悩みを打ち明けるようになった。それは伊月が、ある程度僕を信頼するようになったということだろうか。
僕はその信頼を受け止めなければならない。あの野外活動の一件から、少なくとも僕たち四人の関係にリスクヘッジだと名乗って逃げたりはしないと誓ったから。別に伊月個人との関係性を深めるとかそういう話じゃなくて、僕自身の問題として、こういうことからは逃げないようにしたい。
「……野村先輩と口論になったり、中根先輩の殴り込みを受けたり。今日も佐伯先輩とトラブル。こうも続くと、さすがの私も辛いのよ」
「あとは松葉先生や柳井にすら自分を見てもらえてなかったとか言ってたな」
「そうだったわね……こうも続くと、さすがに自信を無くしてしまうわ」
うーん。このしおらしく小さくなってしまって、弱り切った可愛い女子は誰だろう。伊月凛という存在は、傲慢でわがままで、誰に対しても強気な姿勢で対応できる強い女子だ。そんな伊月がここまで弱ってしまうとは、先ほどの佐伯先輩の妨害工作はかなり効果てきめんのようだ。クソが。伊月も伊月であんなクソでクズな奴に自信喪失させられることなんてないのに。
「なんだよ、自信がねえとかお前らしくもない」
「そうね、そう思われても仕方ないわ……そうね。一番初めに、誰も私を見てくれないって話をしたじゃない? みんなが私のお嬢様の仮面だけを欲しがっているって」
「そんなことも言ってたな」
だから僕たちは、僕たちだけは本当の伊月と向き合って行動する。そういうふうに丸め込まれた結果、今の僕たち四人の関係があると記憶している。
「それで、いざ体育祭が始まってみればみんな父さんや兄さんの話ばかり。誰も私の体育祭には興味が無いようだったわ。その上、私が何かしようとすれば先輩方とはトラブルばかり……それは自信もなくすってものよね」
想像以上に伊月は弱っていた。椅子に座った伊月は、どんどんと頭を垂れ、ついには自分の両ひざに頭を付けて、両腕でその表情を覆うような体制をとっていた。
「でも、それはお前が目指す『革新』に必要なことだっただろ」
「そうね……そうかもしれないわ。でも、ついついこう考えてしまうの。『革新』なんて考えずに、みんなが求めるお嬢様の仮面のままでいられれば、誰にも迷惑をかけることはなかったんじゃないかって、私が勝手に仮面を投げ捨てたのは間違いで、父さんは常に正しくあったんじゃないかって。麗美ちゃんはそうじゃないって言ってくれたけれど、実際にはどうなんだろうって……瀬野くん、私がここまで自信を無くす気持ち、あなたに分かるかしら?」
伊月は伏せていた顔面を、独白に合わせて最終的に僕のほうに向けていた。その顔色は何かを懇願するように必死で、頼りない表情だ。あの常に強くあった伊月凛の、普段はその強い意志を示すかのような二つの瞳は、今は自信なさげにうるんでいた。
逃げちゃダメだ。冗談じゃなく逃げてはいけない。伊月がここまで僕にさらけ出したのだ。それなら僕も、ちゃんと対応しないといけない。リスクヘッジに逃げて、今後の関係性を最小限に抑えるための回避策を練るのではない。伊月の悩みに、真摯に答える。それが今僕がするべき行動だろう。僕自身のために、だ。
「そうだな。そんなこと聞かれてもな、僕にはどうにも分からない。悪いな」
「……そうよね。ごめんなさい、瀬野くん。あなたにまで迷惑をかけてしまって、私は実行委員長として最低なのかもしれないわ」
「……いや」
人間関係から逃げ回ってきた存在、それが僕である。だから、こんなに弱ってる女子に何て声をかけたらいいかなんて、そんなの全く分からない。だったら、しっかりと思っていることだけは伝えてやる。
「……伊月、お前はさ……何十年も変わらなかったことを変えようとしたんだ。それだけでも十分価値があって、すげえことだと思うが」
僕の言葉を聞いた伊月は、今度は椅子の後方に両手をついて、天井を見上げながら言葉をつなぐ。
「それでも今回、誰ともトラブルを起こすばかりで、何も成し遂げられていないわ。結局私は……結論として、ね? 当たり障りなくお嬢様ぶって、みんなの玩具であり続けるほうがうまくいくのかしら? 麗美ちゃんだけじゃなくて、瀬野くんの話も聞いておきたいの」
伊月は本当にあの仮面をかぶった状態に戻ろうとしているのだろうか。野外活動の時のように、ある日突然僕たちとの関係もなかったことにして、元に戻ろうと考えているのだろうか。それだけはやめてくれ。柳井はにひにひっと怒り狂うだろうし、誠も今度は黙っていないだろう。何より僕だって今度ばかりは怒ってしまうかもしれない。
でも、だからこそ。伊月凛は今のままでなければならない。僕が伝えるべきなのは、その率直な思いそのものなのだろう。
「いや、今のお前じゃなきゃダメだ。今のお前がいなきゃ、僕はここまで他人に必死になれなかった。お前がいなきゃ、僕の毎日はいまだにリスクヘッジにまみれたつまらないものだったと思うよ。それに、お前のおかげで柳井や誠と過ごす時間もできたし、お前のおかげで今が楽しいんだ。二人も同じことを言うと思うぞ。だから、お前は今のままでいい」
気が付いた時には、伊月がきょとんとした目で僕を見ていた。なんだかあの背中事件で伊月が無邪気な笑顔を見せた時から、二人っきりの時には伊月が少し表情豊かになっている気がする。
「……本当に確認させてほしいのだけど、あなたは瀬野和希くんよね?」
「そうだよ。いい加減僕の顔くらい覚えたらどうなんだ」
皮肉に皮肉で返すいつものやり取り。伊月自身、本調子に戻れそうなのだろうか。
そうして少しだけ元気になった様子が見えた時、松葉先生と羽織先生が保健室の扉をノックして、部屋に入ってきた。
それから職員室に移動して、今日あったことの全て、脅迫状を含めた事件の全貌を事情聴取され、解放されたときにはもう夜の七時を回っていたのだった。




