044.人間関係に悩める一生徒の相談
「瀬野くん待ちなさい! 何をするつもりかしら? 勝手な行動は許さないわ」
それからほどなくして今日の委員会活動が終了し、僕は一目散に教室を出た。目的地は職員室。もし万が一、中根先輩が暴走した時に備え、今日の経緯を羽織先生に相談しようと思ったからだ。
いつも伊月と校内を歩くときは彼女が先頭に立っているが、今日は珍しく僕が彼女の前を歩いている。伊月はそんな僕が何をしでかすか心配しているのか、普段あまり耳にしないような大きめの声で僕の背後から声をかけていた。
「勝手な行動ってか、ただ今日の話を羽織先生にもしておくだけだ」
普段伊月がそうするように、いったん僕は歩くのをやめて伊月に向き直り、質問に答える。伊月はきっと僕の両目を睨みつけながら答えた。
「体育祭の話でしょう? 羽織先生に話すことじゃないと思うのだけど」
確かに伊月の言うように、これは体育祭の運営上のトラブルに見えなくもない。だけど、あんなに怒って何か復讐をしてきそうな態度をとられたのであれば、それは伊月と中根先輩の個人間の問題だと言っても過言ではないと思う。
「……中根先輩がもし仮にお前が応援団の規模縮小したことを逆恨みして、これからお前と中根先輩の間で何かあったら、それはお前らの問題ってことになるだろ。体育祭の運営上の問題じゃなくてな。だからあらかじめ一番信頼できる先生に話をしておきたい」
羽織先生にはとてもお世話になっていると思う。普段の言動があんな感じだから意外だけど、特に野外活動の時は僕たちの様子をしっかりと見てくれて、僕自身も含めみんな成長させてもらったと思う。だから、今僕が星洋高校で一番信用のおける先生となると、真っ先に羽織先生の名前を挙げる。
「それはあなたが私のことを心配してくれているってことかしら? 本当に最近のあなたはどこかおかしいのではなくて?」
「違えよ。お前が倒れるとその負担が全部僕に回ってくるんだよ。三人で何とが委員会回してる状態なのによ」
「あら。要するに一つのリスクヘッジ、というわけね。とてもあなたらしいわ」
「ああそうだよ。分かったら羽織先生のところに行くぞ」
「あー……何だ……あれだな。お前ら……私のことを呼んだか」
職員室近くで伊月と口論していたものだから、確かに羽織先生がいてもおかしくないのだが、気配とかそう言うのを含めて全く気付かなかった。特に羽織先生はあらゆる意味で小柄だから。声の方向へ視線を下すと、胡散臭い銀縁眼鏡の奥からぬぼっとした視線が僕を捉え、そして伊月を捉えた。
「何でもないです。瀬野くんが暴走してるだけですのでお気になさらなくても」
毅然とした態度で鋭く言い放つ伊月。その態度を見て、羽織先生は眼鏡の奥の曇った視線をさらにいぶかしげに曇らせて言葉を続ける。最近は野村先輩の覇気のない瞳ばかり見ていたけど、本家本元はやっぱりすごい。その視線浴びただけで体調不良起こしそう。そんなこと言っちゃダメか。
「んー……そうだな……伊月、お前がそういう態度をとるときは……あれだな……大体私に言いづらい隠し事をしているときだろう」
伊月は言われると今度は気まずそうに羽織先生から視線を外し、何やら僕にアイコンタクトを送ってくる。たぶん『今はまだ言わなくていいわ、無難にやり過ごしてくれないかしら』って言いたいんだろうけど、それだと僕がここに来て羽織先生に遭った意味がなくなるから無視して進めようと思う。そうしないと伊月のためにならないと思うしね。
「単刀直入に言うと、中根先輩の殴り込みを受けまして。応援団の活動の縮小の件で……」
「な、……瀬野くん、実行委員の話はやっぱり松葉先生にしたほうがいいと思うのだけど」
焦った様子で伊月は僕に言葉をかぶせる。やっぱり伊月は、自分の抱えているトラブルを他人に話すことを是としない。羽織先生に話す理由をちゃんと説明したうえでこの態度だ。彼女と話し始めてからの話ではあるけど、どう考えても伊月は、自分の問題は自分で解決する力もない癖に、頑なにそうしようとする弱点を抱えていると思う。野外活動の時だって、結局それが彼女自身を苦しめる結果につながっていた。
柳井との約束を守るならば、つまり伊月を近くから支えようとするならば。中根先輩の件はあらかじめ羽織先生に話しておいて、今後の対応の知恵を借りるくらいはしたほうがいい。委員会としての対応ではなく、人間関係上の対応の話だ。そうしておかないと、伊月自身がまた潰れてしまうような状況になりかねない。
「うーん……あれだな……どうにも……どうにも話が見えんな。伊月……確かに……体育祭の話なら松葉先生にすればいいだろう」
「そうじゃないんですよ先生。中根先輩がもし万が一個人的な恨みとかを僕らに向けてきた場合にどうしようっていう話し合いがしたいんです。人間関係に悩める一生徒の相談と同じですよ」
僕はあえてまくしたてるように早口で羽織先生に用件を伝える。普通に話していたんじゃまた伊月から余計なカットインを受けそうな気がしたからだ
「……勝手にすればいいわ。私はもう帰るわ」
僕が急いで用件を伝えきってしまったのを聞くや否や、伊月は踵を返して教室方向へ歩き去ってしまった。
「伊月は……あれだな。なかなか成長しないな。君と違ってな……瀬野くんよ」
「僕が成長してるかどうかなんてどうでもいいんですけど」
伊月が歩き去ってしまったのを確認すると、羽織先生が職員室に向けて歩き始めたので、僕も横に並んで歩く。
「ただ、あいつ自身が抱えてる問題を誰にも言おうとしない悪癖は……なかなか治らないですね。口ではすぐ僕たちに相談するって言うんですけど、実際はなかなか。まったく相談してくれないってわけではないんですけど」
例の背中におでこ事件の件もある。伊月は伊月なりに変わろうとはしているのだろうと思う。だけど、その根本については何も変わっていないんじゃないかとすら思ってしまう。
「そうか……あー……あれだよ。伊月が成長しないんじゃない。君を基準に考えるから……そうだな……変わらないように見えるんだな。君が……あの……あれだ……他人のことをそこまで分析するようになるとは、誰も思わんよ」
羽織先生はうれしいのだろう。その目を中心に、いつも死にそうな顔をしている先生ではあるが、僕の話を聞いているうちにその負のオーラが少し濃度を薄くしている。
「まあ……あれだな……君たちの年頃の子が成長するためには……あれだな……前にも言ったと思うが……自分の好きにすることだよ。それは……あれだ……そうだな……大人になったらもう二度とできないことだから。瀬野よ、君は……あれから……そうだな。それが……ちゃんとできているようで安心した」
「あの時は本当にありがとうございました」
先生の話を聞いているうちに、職員室の妙に整理された羽織先生のデスクに到着。話題を本題に切り替えよう。
「それで、中根先輩の件なんですけど」
「ああ……そうだな。中根だが……確かにあいつは短気な奴だが……それでも……あれだ。野村から紅軍応援団長を託された男だ。だから……あれだよ……そのあたりの分別はついていると思うが。ああ……あれだ……生徒会長としての野村とはもう話をしたか?」
先生は自席に腰掛けると、迷いなく胸ポケットから赤と白のパッケージのタバコを取り出し、年季の入ったジッポで火を付けた。今日の灰皿も小盛り程度。ストレスレベルは低いようだ。
「あ、はい。先生が言ってたようにだいぶ変な方でした。でも信頼がおける人だって言うのも良くわかります」
生徒の前でも構わずタバコを吸う先生の悪癖に気をとられていた僕の発言を聞いて、羽織先生はふふっと小さく笑い、タバコを一口ふかして続ける。
「ああ……確かに……そうだな。あいつはかなり変な奴だよ。だが……あー……本気のあいつほど信頼がおける生徒もいない。その野村が……そうだな……人選に問題がないと判断した。ならば……あれだ……気にするほどのことでもないだろう。ただ、もし万が一のことがあれば私も何とかできるようにしよう」
「ありがとうございます。何か安心しました」
「そうか……あれだな。それなら私はこれから学食でラーメンを食べて帰るとするよ。君も……ああ……どうだ……一緒にどうだね?」
「さすがに遠慮します」
おいしそうに吸っていたタバコの火を灰皿に押しつぶす先生に僕は一礼すると職員室を去った。
さて。ひとまず羽織先生のバックアップをお願いすることもできたし、僕もどこかで安心してしまっていた。かつての僕ならば二重にも三重にもリスクヘッジの網を用意して、その上で安心することなく常に警戒状態を維持する程度のことをしていたと思う。だから、我ながら本当に油断していたと思う。
その事実に気付いたのは、教室に戻り鞄をとり、昇降口まで歩いて靴箱を開けた時、無造作に投入されていた無機質な封筒を見た時だった。




