042.本当に僕らしくない
高校に入ってから両親の姿を家で見ることはなかった。両親は職業柄どちらも昼夜関係なさそうな仕事なのは、高二にもなればなんとなくだけど僕にも分かる。それでも中学卒業くらいまでは、どっちかが僕が学校から帰ってきて寝るまで面倒を見てくれていた。
だけど、高校に入ってからは両親の姿を見たことがない。いつもキッチンの食器棚の下の食糧庫みたいになっているエリアに菓子パンやカップ麺、スナック菓子の類が知らない間に買い足されているので飯には困らないし、昼食代や小遣いも大体日割りで同じ配分になるように何日分かがまとめて食卓に置かれていたりする。たぶんオヤジかおふくろかが管理してくれているのだろうが、同じ家に住んでいながら両親の姿をここ一年以上見たことがない。
僕はそんな両親のことが嫌いでもないし、好きなわけでもない。伊月のようにある意味で敵視しているわけでもなければ、親を尊敬できるような出来た人間でもない。むしろ、伊月の親の件で騒ぎになった野外活動の流れの間も、ほとんど自分の両親のことを考えなかった程度には無関心だ。
そんな僕から見れば、伊月は正に対極にある存在だと思う。彼女は出会ってから今まで、何をしようとしても親の存在に縛り付けられている。無関心を貫こうとしても、向こうから縛りにやってくるような状態だ。
「嫌いの対義語って何だか分かるか? 伊月」
現実に戻り、背後に感じる伊月の感触に声をかけ、そこから答えが返ってくる。
「……ご両親の話じゃなかったのかしら? それに今さら嫌いの対義語は無関心だなんて使い古された言い回しはよしてくれるかしら」
「……悪かったよ」
一気にダメ出しされて少しムカッとするが、その感情を押し込めて僕は言葉を続ける。
「お前はオヤジさんのことが……たぶん、嫌いだよな。僕はお前の言う通り、親父やおふくろには、まあ無関心だよ。親の話をしようとしたのに、会話が広がってくれないあたり本当に無関心なんだと僕自身思うね」
伊月のおでこの感触が背中から外れるのを感じる。両肩に添えられた両手の感触はそのままだけど。
「……あなた、この期に及んで父さんたちに無関心を貫き通せ、なんて言うんじゃないでしょうね」
「そうじゃねえよ。僕は同じ家に住んでいながら一年以上親の姿を見かけてねえし、お前は一人暮らしをしていながら親に縛られてるだろ。それは一つの個性なんじゃねえのか? いつだか誠が言ってた、僕ら同士が仲良くなるために必要なもので、実際伊月がルナーズに連れて行ってくれた時は、僕ら嬉しかったしな」
僕らしくない。本当に僕らしくない。恥ずかしさすら覚えてしまう。たぶん伊月が僕の目の前にいて、夕暮れ時ではなかったら顔が真っ赤になっているのがバレて、めちゃくちゃ笑われることだろう。
他人を励ますのがこんなに恥ずかしくて、なんだか背中がかゆくなることだなんて知らなかった。いや、これまでは他人を励ますことなんてなかったし、これからの人生でもありえないと思っていた。それだけ深い関係を誰かと持つときが来るなんて思ってもいなかったからだ。
恥ずかしさに打ち震えているときにまた伊月の額がこつんと僕の背中に当たり、何だかむずかゆくてその場でびくっと飛び上がりそうになってしまう。
「……あなた、本当に瀬野くんよね?」
「ああそうだよ。悪かったな」
伊月の皮肉でいっぱいの質問に言葉を返した瞬間、いきなり背中の伊月の両手がどんっと僕の背中を突き放したので、僕は前方によろけてしまいたまらず伊月のほうを振り返ってしまう。
「あなたにお礼を言うのも癪だけど。ありがとう、何か元気が出た気がするわ」
そう言う伊月の表情が、とても印象的だった。
いつも彼女が笑うときはどこか高貴なお嬢様というか、育ちの良さを隠しきれない気品を感じさせるものだった。たぶん、彼女が周囲からそう言う扱いを受ける遠因にもなっているほど、普段の彼女の笑顔を含めた立ち振る舞いは気品にあふれている。
でも、今僕の目の前でにかっと笑うその表情は、純粋な少女が単純にうれしくて浮かべた満面の笑みそのものだった。気品も高貴さもすべてを投げ捨てて笑う伊月の表情が、特徴的な両目から頬を伝う痕に負けないように全力で口角を上げるその表情が、何よりも印象に残るものだった。
伊月はそのまま廊下のほうへ振り返ると、さっそうと教室を出て行こうと歩き始めたが、また教室から出る一歩手前で立ち止まると、僕に言葉をかける。
「明日からの実行委員も頑張りましょう。私とあなたと松葉先生、積極的に参加しているのは三人くらいだけれど、きっと素晴らしい体育祭にしてみせるわ」
「おう。それじゃな」
「ええ。また明日」
さて。僕は羽織先生に言われてリスクヘッジ的思考を何らかの障害からの逃げに使っていたことに気づいてから、自分に確実な利益や損失がある場合、つまり逃げに該当しない場合以外はその思考を封印している。だから、最近はその思考力に陰りが出てきてしまっているのも自覚している。
そうでもなければかつて羽織先生からリスクヘッジの鬼と認定されたほどの僕が教室で堂々と他者に見せびらかすように背中を貸したりはしない。かつての僕ならば、誰かに見られたことを想像してすぐにこの場から逃げ出していたに違いない。
だからこそ、僕は気づかなかった。それに気づいたのは、伊月と僕が別れの挨拶を交わしたタイミングで、教室前方のドアから離れようと勢い余ってドアを蹴飛ばしてしまったようなガタンという音と、それに続いて廊下を走り抜ける足音が聞こえてきてからだった。
「……瀬野くん。誰かに見られていたってことで間違いないかしら。あなた、羽織先生からこういうリスク管理に関しては鬼のようだと言われているようだけど。そういう考え方からしてどうなのかしら。誤解が誤解を呼んでそれが塗り固められた真実となるような展開は避けたいし、父さんたちに変な噂が入ってしまったら私はどうしたらいいのかしら」
「……ああ。確実に誰かに見られてたな。とりあえず落ち着け」
伊月がめちゃくちゃ早口になって動揺していたので、ひとまずはなだめることに終始する。しかしのぞきとは趣味が悪い。本当に存在していたんだろうか、伊月凛ちゃんファンクラブ。
「ひとまず明日からも何もなかったように普通に過ごせばいい。僕らが何も変わらなければ噂ってのは噂のままなんだから」
火のないところに煙は立たない。リスクヘッジの基本である。いや、もう煙は立ってしまっているかもしれないが、ここで火を消したまま新しい火を起こさなければこれ以上燃え広がることもない。経験上、意外とそれでやり過ごせるものだ。
「分かったわ。とにかく明日もよろしく頼むわね」
伊月は言い残すと、なにもなかったかのように颯爽と教室から去っていった。




