041.私は確かにここにいる
僕たちが会議を終えて生徒会室を出るころには、あたりは夕暮れのオレンジ色の光に包まれていた。集中してる時にすぎる時間は早い。夕焼けに染まる廊下を、伊月は相変わらず早足で二年三組の教室まで歩くので、僕は置いていかれまいと伊月の後を追いかける。そのペースは生徒会室に来た時よりも早く、伊月は明らかにまだ何かに苛立っていた。
無言で歩く伊月を追って教室に到着したころには応援団の勧誘も終了していて、教室には僕と伊月、そして部活生の鞄が所々の席においてあるだけだ。僕が学生鞄を自席から手に取った時には、伊月はすでに教室から無言で出ようとしているところだった。
「おい」
ついつい伊月に声をかけてしまう。伊月はどう見ても何かに苛立ったままだ。このまま体育祭実行委員を続けさせるリスクはなかなかに高い。彼女が倒れてしまえば、その負担はそのまま僕に押し寄せる。最近では嫌になりつつあるリスクヘッジ、もとい損得勘定を体が計算して、頭で考えるよりも早く声をかけてしまっていた。
伊月は僕の声に反応し、教室を出かかったところで一瞬歩みを止めたが、そのまま教室から出て行ってしまう。その姿を見てつい小さく舌を打ち、伊月を追いかけようと教室後部の扉から廊下に出ようとしたとき、その扉が勢いよく開いた。廊下に響く緩衝材のぶつかる音。仁王立ちする女生徒。この景色は、どうにも僕が忘れられない、忘れることができない情景と酷似していた。
「あなた、瀬野くんよね? 瀬野和希くん」
「……何の真似だよ」
その光景は四月の初め、伊月凛と初めて会話した時の景色とほぼ同じだった。羽織先生の面談を受けて、職員室でまだ会話したことのなかった伊月とすれ違い、僕を追ってきた伊月と教室で初めて会話した、あの日の光景そのものだった。だからこそ、僕は伊月に本心でこれが何の真似だか反射的に聞いてしまっていた。
「敢えて言うなら、私のことを心配するようになったあなたへの皮肉かしら」
「……ならお前の質問にはこう答えるわ。……そうだけど、ってな」
「やっぱりあなたは面白い人ね、瀬野くん」
あの時とは少しとはいえ季節も違えば、時間帯も違う。ちょうど夕日の光と逆光になっていて伊月の表情をうかがい知ることができなかったが、いつものようにきっと不敵な笑みを浮かべながら話しているのだろう。
「で、何? この下り必要だった?」
その薄ら笑いを想像すると少し腹が立ったので、答えを急かしてしまう。
「……その前に、ちょっと確認させてくれるかしら」
「何をだよ」
「麗美ちゃん、上村くん、そしてあなたもだけれど、私に悩みがあるのなら話してほしい。そうよね?」
正直なところ、僕個人として伊月個人の相談に乗りたくはない。四人みんなで意見を出し合いながら、皆で伊月の相談に乗るのならば構わない。だけど、この状況で伊月がそういうのは僕個人にさえ言いたいことがあるということだ。伊月個人との関係性を深める気はない。今さら伊月凛ちゃんファンクラブの活動が、とか言うつもりはないけれど、それでも僕はあまり学内で目立ちたいタイプではない。だから、瀬野和希個人として伊月凛個人と仲良くするつもりはそこまでない。
だけど、柳井麗美という魔女から今回の件については僕が伊月をサポートするように言付かっている。その約束に背いた後のほうが怖い。柳井相手には隠し事なんてできないし、約束を破った暁には何をされるか分かったものじゃない。
「……そうだな」
少しだけ考えて、僕は伊月の質問を肯定する。
「それなら、今瀬野くんに少し話をしてもいいかしら」
「……わかったよ」
こうなれば仕方ない。覚悟を決めて伊月の話を聞いてあげるほかない。
「……あの。あっち向いてくれるかしら」
「は?」
「いいからあっちを向きなさい。回れ右をすればいいわ」
「……分かったよ」
こうなれば乗り掛かった舟だ。とにかく伊月の言う通りにして、早く話をしてもらって完結に事を済ませよう。放課後の教室で伊月と二人おしゃべりしてたなんて噂が立っても困る。ここは最短でこの状態から解放されることを優先させよう。
そんなことを考えてた僕の背中の真ん中に、伊月の額が、たぶん額が当たる感覚が襲った。
「い……伊月さん? い、いったい何を……な、何をされているので、でしょうか?」
「何動揺してるのよ。少しだけ背中を借りるわよ」
「ええっと……ええ?」
やばい、誰かに見られたらどうしよう、伊月の感触があったかい、何なんですか伊月さん、まるでカップルじゃんか、ついに狂ったか伊月、こんなのリスクでしかないここから逃げ出そうそうしよう、女の子に初めて背中触られた、なんだこれなんだこれなんだこれ。まさに瀬野和希人生史上最大の大混乱。
「やっぱりそうだ。ちゃんと瀬野くんの匂いがする。……ちょっと汗臭いわね」
そりゃあ伊月だって曲がりなりにも校内位置を争う美少女だもの。そんな伊月が背中にぴとっとおでこ当ててきたら健全な高校生なら平常心ではいられませんよね。その上で瀬野くんの匂いがする? そんなこと言われたら普通の高校生はあなたに惚れてしまいます。僕はリスクヘッジ的思考で何重にも塗り固められているので何とか伊月のことを好きにならずに済んだけど。
……ちゃんと朝シャワー浴びてから学校に来てるんだけどなあ。放課後だもんね。仕方ないよね。でも女の子から汗臭いって言われると何か傷ついた気分。誰か僕を慰めて。
「私、ちゃんと生きてるわよね? あなたに近づけばこうやって、あなたの匂いを認識することができるのだから」
僕がどれだけ混乱しているか知る由もなく、伊月は僕に話しかけ続ける。そして、僕はこの伊月の問いかけを聞いて狂いまくっていた脳内演算を正常に戻すことができた。自分が生きているのか、ということをわざわざ聞いてきたことで、舞い上がっていられるような話題ではないことを心から実感できたからだ。
「そんなことしなくてもこうやって僕と会話してるじゃんか。生きてるかどうかの証明なんてそれで十分だろ」
正直に言うと出まかせに近いというか、特に深く考えず伊月に聞かれたことをそのまま答えたような返答だった。そんな答えの意味を伊月はしっかり考えているようで、少し間を置いてまた背中から声が聞こえた。
「あのね、瀬野くん。私は確かにここにいるのに、私のことを見ている人はほんの少し。松葉先生も、野村先輩も戸叶先輩も斎藤くんも、麗美ちゃんでさえ父さんや兄さんの話を持ってくるわ。ここにいるのは伊月凛で、伊月蓮でも伊月謙でもない、ただ一人の私なのに。みんなどれだけ私が頑張ろうと、色眼鏡でしか見てくれない。それがなんだかもどかしいの」
それに関しては僕にも心当たりがある。柳井に誘導されたとはいえ、僕でさえ一度は伊月が両親への当てつけのようなもので実行委員長に立候補したのではないかと考えていた。だけどそれは違う。伊月と実行委員の活動をしていて、彼女が自分の意志で体育祭を改革しようとしていることは保証できる。
「私、小さいころ兄さんの体育祭を間近で見たのよ。見ているだけでもとても楽しかったわ。いつか兄さんと同じように学校に入って体育祭に出られたら、なんて考えてた時もあったわ。だから私はこれまでにない最高の体育祭にしたい。見てもらえる人に、もっともっと楽しんでもらいたいの」
伊月の声は、語るにつれてどんどん震えていき、僕の両肩にすがるような彼女の両手の感覚も感じるようになっていた。
伊月凛は、僕が想像していた以上に孤独な女子だった。
野外活動のころから今まで、僕は彼女の人生がショーケースに入れられた宝石のような人生だと例えていた。皆からちやほやされるけれどそれ以上でも以下でもない。誰も彼女自身と関係性を持とうとしない、そんな孤独の中を彼女は生きていると思っていた。
だけど現実はさらに残酷で。偉大すぎる父と兄を持ったがゆえに、誰も深く彼女を見ようとしない。その二人を知る者たちからは、そのイメージで伊月凛という存在自体を語られる。それどころか、一連の騒動から二人とはかけ離れたマイナスのイメージすら抱かれ、避けられる。
伊月凛という存在は、さらにそれだけの孤独を背負っていたのだろう。
「それなのにみんな父さんが、兄さんがって……そんなのってないじゃない。私はちゃんと、純粋に体育祭を良くしようって頑張ってるのに。応援団の活動縮小が父さんたちへの復讐につながるなんて、笑い話もいいところよね」
伊月は時に鼻をすすりながら、震える声で言葉を紡ぐ。こんな言葉を並べられて、僕は考えようともしなくなっていたある話題を思い出してしまった。いや、単に忘れていただけで思い出したなら思い出したでいい。要はどうでもいい話題だ。好き嫌いの正反対に位置する無関心の話題、その最たるものを思い出した。
「伊月よ、僕の両親の話だけどさ」
その話を他人にするのは、たぶん初めてのことだったと思う。




