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027.伊月の好きにすればいいんじゃね

 僕は唯一、伊月のほうから仲良くしてほしいと思われた人物らしい。羽織先生の言葉を信じるなら、本当にそうなのだろう。今朝方、羽織先生が言っていた言葉を思い出す。


『あなた、瀬野くんよね? 瀬野和希くん』

『私ね、あなたのことが面白いなって思って』

『ここまで初対面で私を拒絶した男の子はあなたが初めてだったのよ』

『ようやく私のことを社長令嬢って見ない人に出会えたんだから』


 羽織先生の言葉を思い出したのにつられて、伊月と初めて会話した日のことがフラッシュバックする。あの日、初めて一度会話したことのある者同士、という金箔よりも薄い関係性が構築された。そして、そこから岩が転がり落ちるように僕は伊月との関係を、僕の想いとは裏腹に結んでいくことになった。


『瀬野くん、あなたは私の班に入るのよ』

『ねえ瀬野くん、聞こえなかったの?』

『あなたは当然、私の班に入れて嬉しいのではなくて?』

『何か言いなさいよ。あなたは私と一緒に野外活動をするの』


 次に脳裏に浮かんだのは、伊月と柳井が大喧嘩したあの日のこと。あの喧嘩を経て、僕たち四人が関係性を共有することになった。まだ僕自身、柳井や伊月の扱いを改めていない頃の話だ。


『早く支度して降りてきなさい』

『ルナーズって、伊月ホールディングス傘下のファミレスなのよ』

『あまり聞きたくないのだけれど、それは、どこのグループ会社の店かしら』

『ちょっと両親とはうまくいってないの。ま、ただそれだけよ』


 そして脳裏に浮かんだ、あの買い物にみんなで繰り出した日の出来事。あれから伊月はおかしくなってしまった。たった五、六日前のことなのに、それがひどく昔に輝く思い出のような気がして。その錯覚は、目の前に光る伊月の涙という現実に僕の意識を引き戻した。


「ごめ……ごめんなさい……私は……その……」


 次々と零れ落ちていく涙。その一つ一つが、僕の脳みそに強烈に焼き付いた伊月の記憶を呼び起こさせているような、そんな錯覚を覚える。そして僕は、やっぱり不器用で。こういう時にどんな声をかければいいか分からない。そもそもその涙と思い返される記憶にびっくりしすぎて、僕自身何をすればいいのかさえ分からなくなってしまっている。


 そんな僕の後ろからさっそうと現れた、えんじ色のジャージ姿。その女は、涙が止まらない伊月の胸倉を勢いのまま両手で掴んで立ち上がらせ、そのまま背後の市中にたたきつけた。伊月は応戦するように柳井の胸倉を掴み返す。


「戻りたいなら! 戻りたいって! 言えええええええ!!」


 響き渡った金切り声。その声は柳井麗美のものだった。


 一瞬、キッチンエリアの生徒たちの手が止まる。そして、同じクラスの生徒たちはわれ関せずで作業に戻る。ただ、隣の松尾班は手を止めたままだ。


 柳井に一歩遅れるようにして、誠が柳井を引き離そうと焦った様子で駆け寄り、その左肩に右手をかける。そして、僕も伊月を開放するために柳井の右肩に左手をかけた。


 柳井の肩は、小刻みに震えていた。


「……あなたは……あなた達はいつもそうやって! 人の気も知らないで自分たちのやりたいように! それって……それってとても……」


 柳井が震えているのを感じて、固まってしまっていた僕と誠。ちょうど三人が並ぶような形になっていて、伊月は僕たち三人に絞り出すような声で、時に声を荒げながら言う。


「……とてもずるいじゃない! 私には……私にはこうすることしかできないのよ! お嬢様の仮面をかぶって、みんなのアクセサリーでいることしかできない……そうすることしかできないのよ!」


 伊月の美貌からは考えられないような、必死の形相。まるで地獄に落ちた人間が、天国の人間にロープでも下してくれないかとすべてを忘れて叫ぶような、そんな鬼気迫る表情だった。でも、だからこそ。僕には甚だ疑問だ。そんな顔になってしまうほど嫌なら、そんな仮面はさっさと脱ぎ捨ててしまえばいい。


「……でもそれは、お前が親父さんから言われたからやってることだろ」


 思ったことが何の考えもなしに口から出て行く。その声を聞いて、伊月の鋭くとがってしまっている目線が僕を捉える。


「……そうよ! 何が悪いのよ! 私は……私はそれでも完璧な社長令嬢を演じて、誰にも迷惑かけずに生きていきたいだけよ! あなたたちは……いつもあなたたちの都合を押し付けてくるだけじゃない……」

「それは心外だな」


 伊月の言葉を聞いて、次に反応したのは誠だった。柳井の肩から手を下ろし、両手を腰に当ててぶぜんとした表情で続ける。


「少なくともお前は、自分で選んでこの班に入った。それを言うならあの時からもう今の状態に戻っておくべきだったな。今それを言うのは全く筋が通ってねえ」

「……そうね。そうかもしれないけど……でももういいのよ。私のことは放っておいてくれて構わない……もうあなたと……あなた達と一緒にいることはできないのよ……」


 言い終わって、膝から崩れ落ちそうになる伊月。支柱と柳井によって支えられていなければ、膝から折れて座り込んでしまっているだろう。柳井の胸倉を掴んでいた伊月の両腕も、だらりと垂れ下がっているだけになってしまっている。


 柳井はそんな伊月を開放すると同時に、その全身を伊月に預ける。柳井は伊月に抱き着いていた。


「大丈夫。伊月さん、キミはキミの好きなように生きていいんだよ」

「……な、なによ……」


 柳井の腕の中に囲まれて、柳井の右肩から顔を出す状態になった伊月が悪態をつく。


「あたしも昔からひとりぼっちだからね。自分の好きなようにやっていいて気づくのに時間がかかったんだ」

「き、詭弁よ……あなたには、その……私たち以外にもよく話すクラスメイトがたくさんいるじゃない」


「うん。表面上はね。でも、その人たちのこと、あたしは何も知らない。表面上の付き合いしかないから、良くわからないんだ。だからあたしは独りぼっちだった。でも、そんなとき瀬野くんや上村くんと勇気を出して話してみたんだ。なんか、とても面白そうな人たちだったから。そしたら、やっぱり面白かった。その時、自分の好きにしてよかった、自分の好きなようにやってよかったんだって、初めて気づいたんだよ」


 柳井は一つ一つの言葉をかみしめるように、ゆっくりとした口調で伊月の耳元で囁くように言う。それは普段の魔女じみた性格とは全く対極にあり、考えられないような優しさに包まれていて。


「……瀬野くんだってずるいのよ……最初は私と……仲良くなることすら拒絶していたのに」


 柳井の言った言葉が伊月に響いたかどうかは定かではないが、僕たちの間を少しの沈黙が流れた後、柳井は僕に話題を振っていた。


 確かに伊月の言う通り、最初から僕は伊月との関係性を共有することを拒んでいた。それは、今だって伊月との一対一の関係を躊躇っていることを考えても正しい。ようやく最近になって自分と向き合うことができて、四人でいることを納得したのだから。ただ、僕にだって胸を張って言えることがある。伊月の優しい語りは、僕にそれを思い出させてくれた。


 羽織先生は言っていた。感情のままに楽しむことは、大人になったらできないことなんだと。でも、僕から言わせれば、僕は僕の思うがままの人生を歩んできた。確かにいじめの恐怖に屈服してリスクヘッジにとらわれたのかもしれないが、だからと言ってその人生に後悔はない。むしろ、そのリスクヘッジにさえ楽しさを覚えていたから。


「伊月よ、羽織先生が言うには感情のままに楽しむってのは今しかできないことらしい。だからお前もそんなお嬢様の飾りなんて捨てちまって楽しめばいいんだよ。僕は自分の思うがままに生きてきた自信はあるぞ。じゃないと、生半可な男子にお前をシカトなんてできねえよ」


 確固たる自信があるからだろうか。すらすらと言葉が出てきた。


「ま、珍しくカズの言う通りだな。俺だって真面目にやって他人に優しく自分に厳しくやって、努力すれば必ず報われるって信じてやってるからよ。そう意味じゃ俺も自分の思うがままに楽しんでやってるわな」


 こういう話の時には珍しく、僕の意見に誠も賛同する。


「……でも……私は……駄目なのよ……駄目なの……」


 全員が自分を伊月にさらけ出したような状態だったと思う。そこまでされて、ようやく伊月にも響くものがあったようで、伊月は顔を柳井の右肩にうずめてしまってうめくように言葉を発している。


「大丈夫。駄目なことなんてないよ。伊月さんも、自分の好きなようにしていいんだから」

「親御さんに何か言われたら、俺たちに相談してくれよ。なにもなしにこうなるなんて、そんな寂しいことするんじゃねえよ」


 二人から優しい言葉をかけてもらっても、なおうめくように自責の念を吐き出し続ける伊月。


 そんな伊月を見て。彼女が仲良くなろうと思った初めての人間が僕だという羽織先生の言葉が、再度僕の脳裏によぎる。だからこそ僕が電話した時、伊月は一瞬でも元に戻ったりしたし、僕と普段通りみたいに話しているときに涙を流したりしたのだろうか。


 だとしたら、次に僕が掛ける言葉は特別な意味を持つと思う。たぶん、伊月にかける言葉は、気負わずにシンプルに、僕の思っていることを素直に伝えたほうがいいと思った。


「……まあ、伊月の好きにすればいいんじゃね。お前だけ好きなことしちゃいけねえなんて理由はねえし、親御さんにもそれは止められねえよ」


 それが精いっぱいの言葉だったが、それを聞いた伊月のうめき声は止まった。と同時に、伊月は柳井の腕の中でうわあああん、と大きな声を上げて泣き始めたのだった。


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