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026.瀬野くん、あなたが私に合わせるの

「うおえ、気持ち悪い……」


 それから数分の後、五分程度の山道があったせいで僕は完全に睡魔の世界から覚醒しただけでなく、逆流しそうな胃袋と僕は戦うことになっていた。いや本当に気持ち悪い。吐きそう。

 麓の駐車場で点呼が再度とられ、三百メートルの登山の後にあるキャンプスペースで各々の班が歩き出す中、僕はその場にしゃがみ込んだまま動けずにいた。


「瀬野くん、大丈夫かしら。万が一のための袋もあるから。戻したほうが楽になるわよ」


 そう言いながら隣に座りこんできた伊月。最後尾を歩く予定の羽織先生の眼前ということもあったのだろうが、わざとらしさすら感じるほどの完璧すぎる、気配り美人のお嬢様の姿がそこにあった。

 その姿を見ると、またなんとなくイライラでも哀れみでもないもやもやっとした感情が僕の全身を支配する。その感覚を、誠はもどかしさだと言った。元に戻ってほしいとみんなが願っているのに、そこに戻らない伊月に対するもどかしさなのだろうか。


「……大丈夫だよ。心配すんな。行こうぜ」


 素の感情すら何なのか分からずに、僕はついつい伊月に悪態をついてしまう。たとえ伊月がお嬢様の仮面をかぶっていたとしても、余りあるくらいの悪態をついてしまったような気持ちを覚えてしまう。僕は彼女に遠慮でもしているのだろうか。


 落ち着け、瀬野和希。


 僕自身の気持ちがぶれてしまっているため、なんだか自分に苛立ちを覚えたような気分になる。人間関係を避けて、リスクヘッジだと言い張って柳井や伊月と関わってこなかった僕が、柳井との関係性を期せずとも深め、伊月すらも僕たちの関係性に取り込もうとしている。その行動に、もはや疑念はない。ほかの人間との関係はまっぴらごめんだが。


 だから、だからこそ。自分自身に対する苛立ちは、封じ込めないといけない。このイライラが、例えば伊月に対して爆発してしまったとしたら、柳井が計画しているとにかく伊月と仲良くする作戦が台無しになってしまう。


「おお、瀬野くんが先頭だね。いつまで先頭でいられるか賭けませんか上村くん」

「……言っちゃいけねえ。そう言うことは言っちゃいけねえ……」


 言いながら笑いを必死にこらえている誠。最近誠の僕に対する扱いがひどくなってきている件について。


「おい、僕が戦闘で歩くことに文句でもあんのか。むしろ僕が疲れても先頭で歩かせることでみんなが僕のペースに合わせてくれないと……」

「そうね。瀬野くんにも頑張ってもらわないといけないけれど、基本はみんな瀬野くんのペースに合わせましょう」


 ……そうじゃないだろ。『合わせないわよ。瀬野くん、あなたが私に合わせるの』くらい言ってこその伊月凛だろうが。まだ登山が始まって五メートルも登っていない。三百分の五で僕の苛立ちはかなり募っている。


 たぶん、これ以上伊月と話すのはよしたほうがいいのかもしれない。あるいは、こういうもんだと割り切るか。僕がキレてしまうリスクを削除するために頭を回さないと。何故か、リスクヘッジについては柳井に迫ることのできる脳みそのはずなのに、いい解決策が浮かんでこない。なんだか心の奥を鷲掴みにされて、そこから感情を支配されているような感覚だ。もちろん悪い意味で。僕が伊月にいい意味でハートをキャッチされることなどあってはならない。


「誠よ、僕がきつくなって来たらサポート頼むわ」

「……へいへい、お前の場合甘えじゃなくてガチだからな」

「瀬野くんさ、女の子よりも体力ないってことだよ? そんなのでいいの?」


 柳井がハートをチクチク差すようなウザったい言い方をしてくるのに心を刺されるが、背に腹は代えられない。ひとまずは誠と話しながら登山することに決めた。



  ◇   ◇   ◇



 誠に万が一の時のサポートをお願いしたのは正解だった。とりあえず僕は体力を切らすことなく、キャンプエリアまで上り詰めることができた。さすが気遣いの男、傾斜がきついエリアにつくたびに背中を押してくれたり、肩を貸してくれたりした。まあ、それでも体力のギリギリだったけどね。これどうやって帰ろう。


 その間、柳井が伊月の相手をしていた。たまに僕が伊月と話して苛立ちを募らせるたびに、柳井は僕を煽って意識を伊月からそらすという芸当を見せていた。いやーほんと柳井って存在が怖いね。


 エリアに全生徒が到着すると、また最後尾から現れた羽織先生含む担任陣が自クラスの点呼をとり、キャンプのキッチンエリアらしい石造りの焚き火台や蛇口が四つずつセットになって四方に並んだ屋根付きエリアが二つ、都合三十二個の野外キッチンのエリアに移動する。


「これが俺たちのキッチンなわけだ」

「……誰が火を起こすんだ」

「私がやるわ。どうすればいいか調べてきておいたの」

「さっすが伊月さんだねえ」


 石造りのキッチンを前に固まってしまった僕たち。その中から伊月がまたいいところのお嬢様らしく率先して火を起こす。


「……じゃあ僕は魚を開けておく」


 タオルでぐるぐる巻きにされた焼き用の魚を解放しようと手を出したとき、僕の目の前で揺れた茶色のショートボブ。


「魚開けるってつまらないよね? 瀬野くんは伊月さんの手伝いよろしく!」

「は?」


 さっきまで僕と伊月がかかわることを嫌っていた柳井が、今度は僕に柳井と話をしろと遠回しに言っている。


「んー? 瀬野くん何か文句ある?」


 そのあとににへっと悪そうな笑みを浮かべた柳井を見て、僕に逃げ道がないことを悟りました。いやほんとその顔やめて柳井さん。ほんとその顔は僕にとってトラウマもんだからね。


 観念して伊月の隣にしゃがみ込む僕。そんな僕に伊月はまた笑顔で話しかける。


「ちょっとなかなか火が付きづらくて。やってみると難しいものなのね」


 かちかちっとチャッカマンやらトングやらを使って着火剤に火をつけようと試みる伊月。ただ、その笑顔が。僕に向けた伊月の笑顔が、何だが悲しそうな表情にも見えて。また僕の頭の中に、誠が言うところのもどかしさという名のモヤモヤが募る。そして、何故だか分からない苛立ちも。


「……貸せよ。そんな近くで付けても駄目だ。火は先端のが熱いんだ。そのくらいお前なら分かるだろ」

「そうだったわね。化学で習う基本よね、忘れていたわ」


 今度は僕がチャッカマンとトングを使いうまい具合に着火剤に火をつけた。


「薪は……水場の下ね。上村くん、薪をとってくれるかしら?」

「あいよ」


 魚をタオルから取り出して適度な大きさに切る作業をしていた柳井と誠だが、誠が薪を数本伊月に渡す。てか薪をそんなしめっぽそうなところにほぞんしてて大丈夫? このキャンプ場のオーナーがいたら問いただしてやりたい。


「この薪を……トングを使ってキャンプファイアーの要領で風通し良く組み上げるように置いていって、……火が消えない程度にうちわで風を送り込むと良いらしいわ」


 言いながらリュックからうちわを取り出し、僕に渡してくる伊月。その完璧に作られた笑顔がどうにももどかしくて。イライラともどかしさでどうにかなりそうなくらいだ。こんなにほかの人間に気持ちを乱されるのは、人生で初めてのことだと思う。柳井の掌の上で転がされているときを除けば。


「……そうかよ。早いところ火を付けるぞ、面倒だ」

「そう言わないの。私が……私がしっかり……その……あれ……?」


 僕は、僕の気持ちが暴れだしていたせいで、伊月がどう思っているとか、そう言うのを考えていなかった。伊月にとってこの状況がどうだという話は誠としていたが、その予想も大きく外れていたのだろう。とりあえず、僕の目の前の伊月凛を棟所として襲った事態が、僕には新鮮で鮮烈で、そして衝撃的だった。


 伊月の特徴的な、その名の通り凛とした意志を宿すような、宝石のようにきれいな瞳。表情自体は変わらずに笑顔で。


 その二つから大粒の涙が一つずつ、流れ落ちていた


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