020.お前は本当に嘘が下手だと思う
「ねえねえ。キミ、瀬野くんだよね? 瀬野和希くん」
数か月ほど前。一年生の二学期の終わりごろだったかと思うが、僕は初めて柳井麗美と書いて魔女と読む存在と話した。第一印象は誰とも変わらない、面倒な女。僕に話しかけてくるなんて奇特な人だな、なんて思いながら話しかけんなオーラを出しつつ言葉を返した。
「そうだけど何か用? 僕眠いんだけど」
教室の机に突っ伏しながら、ほんと空気読んでくれない? と訴えかけるように気だるそうに答えた。普通の空気を読める人間ならば『あ、そう。ごめんね……』ってなって、特に女子は次から話しかけてこないことが非常に多い裏技。これも僕の人生十六年で会得した人間関係構築拒否の技術だ。
これで今日話しかけてきた誰ともわからん女子生徒と今後話すこともない、と安堵していたわけだが、それは数秒と持たなかった。僕の想定していなかった答えが返ってきたからだ。
「そういう態度取れば特に女子は二度と話しかけてこないだろうって思ってるんだろうけど、あたしには効かないよ? 残念でしたー」
初対面で図星をつかれたのにびっくりして顔を上げると、目の前で黒髪のショートボブが揺れていた。当時まだ柳井は髪を染めていなかったと思う。よからぬことを考えている君の悪い笑顔ではなく、屈託のない笑顔で僕を見下ろしていたのをよく覚えている。いきなり心のうちを読まれたせいで、その無邪気な笑顔が最高に怖かった。
「え、あたし? 柳井麗美だよ? よろしくね」
「いやよろしくしないけどさ」
「なんだ違うんだ。ならあたしが何でいきなり図星をついてきたのかびっくりしたパターンかな」
「……おまえ何なんだよ」
「柳井麗美だよ? よろしくね」
「そうじゃねえ。なんでいきなりそう……僕の考えてることが分かる」
何でもない存在だった初対面の女子が僕の頭の中を覗き込んだかのようにずばずば考えを当ててくる。これは恐怖だ。僕のリスクヘッジに塗り固められた全身の感覚器官がこの女は危険だと警鐘を鳴らし始めている。だが、その危険信号よりも恐怖が先行して、僕の考えを読める理由を柳井麗美という女に問いかけてしまっていた。今思えば、この恐怖体験による混乱こそが柳井の狙いだったのかもしれないが、天然オーパーツと言われても納得できる柳井の頭の中身を推測しようとしても時間の無駄だ。
「簡単な話だよ。あたしはいつもクラスのみんなの行動を見てるからね。キミは最近になって上村くんと話すようになったみたいだけど、それ以外の人たちと話すのを極端に嫌っているね。それも当たり障りなくだったり、二度と話しかけられないように跳ね除けたりする。状況によって一番いい方法で人間関係を避けているんだ」
「なん……だと……」
「だから今は良くわからない女子から話しかけられて、面倒だったから二度と話しかけられないように突っぱねた。そんなところかな。じゃああらためてあたし柳井麗美。よろしくね?」
「よ……よろしく……」
羽織先生にリスクヘッジの鬼と言わしめた僕が、こうも簡単に人間関係を結んでしまったのは、今のところこれが最初で最後だ。とにかくこの女に何を言って回避できるかもわからなかったし、そもそもこんな危険な存在が交流を望んでいるのにそれをこちらから断ち切った後のほうがリスクが高いと判断した。
これが僕と柳井麗美の初めての会話だった。これから柳井は上手いこと僕が関係を絶ったりできないポジションに収まったうえで、僕の弱みまで握ってしまうのだが、それはまた別の話だ。
◇ ◇ ◇
平均的な一軒家の二階の自室。窓際のベッドに寝転がったまま、あたりは暗くなってしまっていて、部屋の中はさらに暗く空気も重いような気がした。
僕が帰宅してから考えていることは二つ。まず一つは完全にやらかしてしまったということ。
クラスメイトの面前で柳井を、女子を怒鳴りつけるという愚行。それはクラスメイトから嫌われるには十分なリスクだ。柳井と喧嘩することになるなんて考えてもいなかったし、感情に任せてそんな行動をとってしまうあたり、僕自身もここ最近のあれこれでぶれてしまっているのだろう。
そしてもう一つがなぜか柳井と話し始めた頃のことを思い出す。どうしてもこの光景を思い出してしまうのは何故だろうか。理由は分からないのに、あの日、あの時のことを鮮明に思い出してしまうのだ。
二つまとめて簡単に言うなら、明日からどうしよう、という話でもある。柳井のこともそうだし、そもそも伊月の件だって何も解決していない。ふと思い出した伊月の顔にも少し苛立ちを覚えて、僕はうーんと背伸びをした。
伸びを終えると、僕のスマホがぶるぶる震えているのに気づく。そもそも今何時なのだろうか。両親が帰ってきていないのはいつものことだが、あれこれ考えているうちにあたりはすっかり暗くなってしまっていた。
画面には上村誠の名前が表示されていた。
一瞬、無視しようかとも思った。誰とも話したくないから。だけど、この状況で誠のことだからつながるまで連絡してくるような気がして、しぶしぶ僕は電話に出た。
『ようカズ。元気か?』
「……元気じゃねえの分かって言ってるだろお前」
『ははっ。でも思ったよりも元気そうだな』
「ああそうかい」
電話の向こうの誠は、いつもと変わらない誠だった。むしろ、いつも通りを演じようとしている誠だとも思う。上村誠は、気遣いの男なのだ。いまはその気遣いのありがたみがひしひしと感じられる。たまに頭が固いことがあるのが玉に瑕だが。
『で? 柳井と喧嘩したって?』
「やっぱ噂になってんのかよ……」
『ああ。今日一日クラスの話題はそればっかだよ。柳井の奴も結局勝手に帰っちまったよ』
「……そうか」
柳井も勝手に帰った。その言葉がなんとなく重くて、そしてなんとなく柳井に対する申し訳なさが湧いてくる。
「……で、何か用か? 誠くんよ」
『用ってわけじゃねえけどよ、お前ちゃんと柳井に謝れよ。伊月が何か元に戻って、お前と柳井が喧嘩したってんじゃ、今度の野外活動で俺はどうすりゃいいんだよ』
「……なんで僕から」
謝れと言われて、反論してしまう。そんな自分を冷静に見て、ただ単に僕が柳井に対して変な意地を張ってしまっているだけだと気付いてしまい、またしても柳井に対する申し訳なさが募る。そして、誠は僕の言葉をさえぎるようにして続けた。
『そもそもな、男女で喧嘩したら男は折れなきゃいけねえんだよ。それがあんな魔女みたいな女でもだよ。分かったか? じゃあな』
言いたいことだけ言って電話を切ってしまった誠。変な騎士道精神みたいな何かまで持ち出してきて、お前は本当に嘘が下手だと思う。
要は柳井が僕と話したがっているってことじゃないのか。だからちゃんと謝って、腹割って話せってことを言いたいんだろう。そして、誠に言われた以上僕は柳井に連絡しないわけにはいかない。明日連絡しなかったと知った誠から、頭の固い怒りの説教が待っているだろうから。
僕は深呼吸を一つして、柳井麗美に電話をかけた。




