019.ちょっとやめなさい二人とも
「やあやあ瀬野くんよ。遅かったじゃないか。あんまり遅いから、上村くんは野球部の昼練に行ってしまったよ」
教室に戻ると柳井が僕の座席を占拠しており、何か話をしたくて仕方がないといった様子で僕を出迎えた。まあ、そうだよな。いきなり羽織先生と飯食うなんて言って、この女が見過ごすわけがない。だからと言ってこの柳井麗美という魔女には嘘とか言い訳とか、そんなものは一切通用しない。すべて見破られてしまうからだ。そのうえで事態を柳井の有利に進めるように持っていかれるのは目に見えているので、僕は聞かれたことには正直に答えようと覚悟を決めて、柳井に言葉を返した。
「……そこ、僕の席なんだけど」
「いやー何個か質問に答えてくれたら返すさー」
柳井はひとまず満面の屈託のない笑顔で迎えてくれている。この女がよからぬことを企んだ時のどす黒い笑みは鳴りを潜めているので、ひとまずは安心した。
「でさ。先生とどんな話してきたの?」
初球はど真ん中の直球だった。ひとまずどんなことを言われてもいいように覚悟を決めていた僕にとっては、なんだか肩透かしでもされたような気分だ。
「まあ……昨日の続きってか……伊月の話だけど」
「うんまあ、そりゃそうだよね。それでそれで?」
「……先生は一言も伊月をこのままにしとけなんて言ってない、って言ってた。で、あいつをどうするかは僕らが考えて僕らが決めろ、なんてことを言ってたよ。だから僕は、あいつに元に戻ってほしいって伝えようと思う」
柳井は聞くとにへっと笑う。満開の可憐な笑顔が一瞬にしてどす黒く染まる合図だ。
柳井だけは敵に回してはいけない存在だと、僕の本能や心やその他もろもろの感覚が一瞬で警告を発しているのが分かる。この何を企んでいるのか想像もつかない顔が、僕に向けられているのだ。それは恐怖そのものでしかない。頭脳で柳井に敵う者などいないのだ。僕なんて簡単に一捻りでノされてしまうだろう。てかほんと怖いからその顔やめてくれないかな? やめてくださいお願いします。
「でもそれってさ、前にも言ったけど伊月さんの事何も考えてなくて、自分たちの都合だけを押し付けてるよね。そんなので本当に元の伊月さんに戻ってくれると思うの?」
柳井は全て見通しているのだろう。僕が先生に背中を押されて、四人でいるあの時間を、少しだけ取り戻す気になっていることを。そして、圧倒的無力を感じ嘆くことしかできず、伊月凛という存在から逃げ出そうとしていたことを。その言い訳としてリスクヘッジを使っていた、というのもひょっとしたら見通しているのかもしれない。だから、柳井は一言で僕を的確に刺すことができるのだろう。
「柳井、お前は……今の伊月のほうがあいつにとっていい状態だと思うのか? お前の言いたいことも理解できる。あいつの生い立ちとかそういうのを聞いたうえで、確かに僕は伊月のことも考えないで行動しようとしているかもしれない。だけど何よりさ、今のあいつは見てられねえだろ」
僕の意見を聞くと、柳井はその全てを見透かすような澄んだ大きな瞳を鋭く尖らせ、見下ろす僕の両目を睨むようにして続けた。
「そんなのはキミの自己満足でしかないよ。キミはちゃんと伊月さんのことを考えて、あの子のために行動しようとしてないじゃん。自分のために行動しようとしてる。自分でも分かってるみたいだけどさ、それじゃだめだよ。伊月さんも馬鹿じゃないんだよ。今のあの子が一番あの子のためになる可能性を考えてあげなきゃ」
誰に何と言われようとブレることのない、完全なる図星だった。確かに僕は、僕の気に入っている時間を取り戻すことだけを考えて、それだけで何か行動を起こそうとしている。だけど。
「そんなこと……僕が知るわけないだろ。あいつは僕らに何も言わないで、いきなり元に戻ったんだ。柳井、お前だって困ったことがあったら相談しろって伊月に言ってたよな。でもあいつはそれを無視して、勝手に、僕らの気持ちも何も考えずにああなったんだよ。だから僕も、僕のためにいろいろやろうと思ってる」
「……キミのためだあ?」
柳井は怒っていた。こいつが本気で怒っているのを見るのは、この間伊月と喧嘩した時に続いて二回目だと思う。そして、その怒りの矛先は、確実に僕に向いている。
「ねえ瀬野くん。キミ、いきなりリスクヘッジとか言わなくなったよね。伊月さんとは離れたいんじゃなかったの? それとも、キミは心の奥底に何かを隠しているね。でもその隠した何かのために、伊月さんをダシに使って結局は自分を守りたいだけなんだ。見損なったよ、キミは面白い人だと思っていたのに、結局は自分の可愛さに負けてしまうおばかさんだね」
怒りの表情から放たれた低音。確実に僕は柳井を怒らせていた。そして、柳井の言葉を聞いた僕も冷静ではなくなってきている。ここまで言われて冷静を保てる人間が果たしているだろうか。
人の心を動かすことに、良くも悪くも本当に柳井は長けている、いや、長けすぎていると思う。だが、僕には肝心のことが分からない。
なぜ柳井はここまで僕に怒りを向けるのか、ということだ。
僕が伊月のためをそこまで考えずに行動しようとしていた、というのは認めている。だけど、柳井は何を思ってそこまで僕に憤怒の感情を向けるのか。自分のために行動することが、そんなに悪いことなのだろうか。
それを分かってあげるには、僕は柳井のことを知らなすぎる。なんだかんだで半年近く柳井は僕の近くにいたのに、なんて薄い関係なんだ。そして、その原因は僕にある。なるべく彼女との関係を薄くしようとリスクヘッジにとらわれていた、いや、柳井麗美という存在の恐ろしさに屈服し、彼女と向き合おうとしなかった無力な自分のせいだ。
「……じゃあ僕は、いったいどうしたらいいんだよ!」
「だから! 一緒に一番伊月さんのためになることを考えようって言ってんじゃん!」
気が付いた時には、僕は声を荒げてしまっていた。それに合わせるようにして、柳井は僕の席から立ち上がり、同じように叫ぶ。柳井が立ち上がった時に勢いよく倒れた椅子の音が、クラス中の注目を僕たちに集めてしまう。
「その方法が、お前でも思いつかねえから! だから困ってんじゃねえかよ! こんな時になんでお前はそう、頭が回らねえんだ!」
「知らない! あたしだってちゃんと考えてる! でもあたしは、伊月さんのことを知らなすぎるから……だから、だからこそちゃんと考えてやろうと思ってるんじゃん! キミは伊月さんのことを全く考えてない! それじゃダメだって!」
クラス中が異常に気付き、僕と面識のある者、柳井しか知らない者、それぞれが僕たちの仲裁に入ろうと駆け寄り始めた中、一番最初にかけられた声。
「ちょっとやめなさい二人とも」
目の前の柳井と僕の間に入った黒の長髪。そして、争いごとの間に入る毅然とした完璧な立ち振る舞い。完全無欠のお嬢様の姿がそこにある。
「喧嘩は駄目よ。あなたたち、少しは頭を冷やしなさい」
なんで、なんでお前は。なんでだよ。
伊月、なんでお前は今さら僕らの間に入るんだ。
気が付いた柳井は、ちいっと大きく舌打ちをし、怒りにまみれゆがんだ顔のまま教室左前方の自席へと戻っていく。目の前には、伊月凛が鋭い眼光をこちらに向けて立っている。
本当なら、何かしら声をかけるべき場面だと思う。だけど、僕は今、最高に苛立っていた。なんで今さら。そんなことするくらいなら、最初から元の伊月に戻るなんてことするんじゃねえ。その苛立ちが募りに募って。
僕は伊月を無視して、無言で鞄をとり教室を後にした。あの日、職員室で伊月を無視したように。
ただ今回は、頭を下げたりすることもない、怒りだけを向けた全力の無視だった。
なんでだろう。本当になんでだろうな。
なぜ幸福や楽しさは、求めた瞬間に僕たちの手からすり抜けていくのだろうか。僕が伊月や柳井を受け入れようか考え始めた瞬間、彼女たちは僕の前から消え失せたも同然だ。なぜ世界は、求める者の手に求める物を与えないのだろうか。
そんな理不尽を嘆きながら、僕は羽織先生にも黙って学校を後にした。




