恋するあなたに恋してる ―5
結局その後は、あれほどせがんだ恋バナだというのにサレナの方から適当なところで切り上げて、仕事に戻る流れにしてしまった。
とはいえ、目的は既に達成されていたことを思えば、それで何も問題はなかった。
それからまたしばらく互いに無言で事務仕事をした後に、アドニスとロッサも途中で戻ってきて、きりがいいので今日の生徒会業務は終了ということになった。
そうなると後は寮に戻るだけのはずなのだが、サレナは今、一人学院の屋上にいた。
屋上への出入り口となる建物の平たい屋根の上。そこの縁に腰掛けたまま、サレナはぼんやりと暮れゆく空を眺めていた。
別に、生徒会の仕事が終わったら真っ直ぐ寮に帰宅しなければいけないわけじゃない。寮には門限までに戻ればいい。
それに、今のサレナはそうして高い場所でぼんやり空でも眺めていたいような気分だったのだ。
その欲求に素直に従ってそうしたまま、サレナはこれまたぼんやりと考える。
考えるのは、自分自身の気持ちについて。
「…………」
実は今の今まで、サレナは自分のカトレアさまへの想いは"本当の恋"ではないのだろうと、心のどこかでそう冷静に思っていた。
確かに、生前の"私"はカトレアさまが大好きだった。
寝ても覚めても彼女のことを毎日考えていたし、彼女への愛に突き動かされて随分と無茶な行動も積み重ねてきた。おかげで事故死してしまったくらいだが。
だけど、それが果たして本当の恋だったのかというと、やはりどこかでそれは違うのだろうとも感じていたように思う。
カトレアさまを愛していると言っても、その愛は、現実に交わる可能性が殆どないとわかっているような相手――アイドル的な存在へ向けるそれに近かったような気がしていた。
カトレアさまのために積み重ねてきた無茶も、そうして愛を示すことで相手を喜ばせたいというよりも、自分自身の"何か"を満たすための意味合いが大きかったように思う。要はほとんど自己満足のためだった。
たとえば、あのまま不慮の事故で死ぬようなこともなく、向こうの世界で人生が続いていたらどうなっていただろうか。
あの後もずっと、"私"はカトレアさまのことを何年も何年も愛し続けて、無茶を繰り返していただろうか。
……きっと、その可能性は限りなく低い。
いつか、どこかのタイミングで、"私"はゆっくりと夢から覚めるように、少しずつカトレアさまへの想いを薄れさせていたんじゃないかと思う。
そして、自分のそんな、本当はとても薄っぺらい感情は、この世界に転生してきても根本的には変わっていないものなのだろうと思っていた。
確かに、カトレアさまのためにこの三年間、必死で主人公である自分を別物に変えてしまう努力と修練を重ねてきた。
だけど、自分は心のどこかで、それを"ゲームの攻略"と同じような感覚で、自分だけの"何か"を満たすために楽しんでいたんじゃないか?
そう言われてしまうと、それを否定しきることは出来ないだろう。
前世の記憶が目覚めてからの、これまでのサレナとしての人生自体もそうだった。
自分はそれを、心のどこかでは、生前叶わなかったゲームの新しいシナリオをプレイし、攻略しているような気分で生きてきたんじゃないだろうか。
カトレアさまと結ばれてみせるというのも、真に彼女に愛されたいと欲していたわけじゃないのではないか。攻略することの出来なかったキャラクターを落としてみたい、存在していなかったシナリオを読んでみたいという、ゲームプレイヤーとしての欲望に突き動かされていただけなんじゃないのか?
この世界に存在しているあらゆる人間のことを、心のどこかで"単にプログラムに従って動いているだけのキャラクター"だと見なしていたんじゃないのか?
自分のカトレアさまへの想いというのも、結局はどこまでもそんな"攻略中のキャラクター"に対して向けるようなものだったんじゃないのか?
サレナは先ほどからずっと、そんなことをぐるぐると自問し続けていた。
しかし、実のところ、それに気づいたことによって、心の奥底ではそんな姿勢で生きていたのかもしれない自分に対しての後悔や自己嫌悪に絶賛陥っているというわけではなかった。
いや、こうして改めてそれを言葉にしてみると何て醜いのだろうと感じるし、多少はそれに対する反省や羞恥心、自責の念もある。
だけど、そのことにずっと目を背け、気づいていないふりをして、自分本位な生き方に酔い続けることが出来たのであれば、それはそれで良かったのかもしれないとも正直思ってしまっている。
そして、もしかしたならば、その方がよっぽど幸せだったのかもしれないとすら思ってしまう。
自分の本当の心について、ずっと無自覚でいられたならば――。
「…………」
サレナは目を伏せ、深い溜息を吐く。
だけど、自分は気づいてしまった。
サレナ・サランカは恋をしている。
カトレア・ヴィオレッタ・フォンテーヌ・ド・ラ・オルキデに恋をしている。
ゲームキャラクターとしての彼女にではない。
このどうしようもなく現実の世界に生きる、一人の立派な人間としての彼女に恋をしてしまっている。
これまでのような、その気高く、美しく、凛々しく、麗しく、魅力的で整った面へと憧れと羨望を向けるだけのようなものじゃない。
彼女が親友二人に呆れたり、その人達について明け透けな愚痴をこぼしたりする意外さに。
サレナの突拍子もない発言に固まったり、慌てたりしている姿に。
案外押しに弱かったりするその性格に。
落ち込む後輩を笑顔で励ましてくれたりするような、素朴な優しさに。
そして何より、誰かを想う幸せと切なさを湛えた、美しい恋をしているその顔に。
そんな彼女の、ゲームの中だけでは決して見ることの出来なかっただろう、完璧で美しいばかりではない、まったく"人間的"な全ての面に、サレナはまさしく心を射抜かれてしまった。ときめいてしまった。惹かれてしまった。
自分でもまったくどうしようもないくらいに、サレナは本気の恋に落ちてしまったのだった。
(こんなことになるなんてなぁ……)
刻々と群青色の方が濃くなっていく空を見つめながら、サレナはぼんやりとそう思う。
これが本当の恋というものなのか。サレナはしばしその感覚に浸ってみる。
相手のことを考えるだけで胸がドキドキして、ほわほわと温かくなって、それなのにふとした瞬間ぎゅっと締め付けられたように苦しくなってしまう。
幸せのあまり笑い出したいような、それとも泣き出してしまいたいような、二つの間を行ったり来たりする気分。
これこそが恋だと言うのであれば、今までのそれなんか全然比較にもならない。
あんなの恋でも何でもないと思えるくらいに、これまで感じたことのないごちゃ混ぜの幸せと苦しさ。
サレナとしての十五年は言わずもがな、実は"私"としての二十一年の人生も、色恋とは縁遠いものだった。
幸か不幸か積極的な興味も持てず、現実でのそういったものをまったく通り過ぎずに空想に夢中になったままで青春を終えてしまった"私"は、結局のところ愛や恋というものを全くわかっていなかったのだろう。
それに唯一近いと信じていたものが、カトレアさまに抱いた感情だったのに。結局それも勘違いでしかなかった。
……いや、それも違うか。
サレナは思い直す。
勘違いだったはずのものが、本物になってしまったのだ。
そして、それが本物になってしまったことで、また新しい問題に自分は向き合わなければならない。
カトレアさまに愛されたい。恋をしてしまったら当然、次はそう願ってしまう。
しかし、それこそが新しく、かつ改めて立ち塞がってきた問題だった。
「愛されたいって……私達、女同士じゃん……」
思わず、自嘲気味にサレナはそう声に出して呟いてしまう。
そうなのだった。
恋が本物になってしまったことで、サレナは改めて、しかしこれまでとは全く違う感覚で、その問題に向き合わなくてはならなかった。
これまでは、心のどこかでそれについて真剣に考えることを先送りにしてきた。
あるいは、最初から真剣に捉えていなかった。
ゲームのように関係を深めて好感度を上げて、アプローチを続ければ、勝手に向こうもいつかは自分に惚れてくれるものだと楽観的に考えていた。
何たる愚かしさだろうか。そして、何という勘違いっぷり。
けれど、そんな風に勘違いしたままでいられたらどんなに楽だっただろう。
カトレアさまの心を、そうやってどこか無機質なものとして捉え続けていられたならば。
彼女が真っ当な、どこまでも多数派の感性をした人間であることに対して、真剣に向き合わずにいられたら。
「…………ッ」
サレナはブンブンと頭を振ると、考えてもきりがないそのことについて思うのを一旦止めて、代わりに自分自身に対してその矛先を向けてみる。
……まさか、自分が同性愛者だったなんてなぁ……。
そうしみじみ思ってみるも、何だかそれもしっくりこないような気がしてしまう。
これまでの二十一+十五年の人生、思い返してみても同性に対して恋愛的な感情や性的な興奮を抱いた記憶は一切ない。
可愛い女の子はそりゃ大好きだが、女性が大好きでたまらないという域かと言われると間違いなくそこまでではない。
ということは、自分は女性全般が好きというわけではないのかもしれない。
サレナは、そろそろ星の輝き始めた空を見上げて、思う。
私はカトレアさまが好きだ。
そして、きっと、カトレアさま"だけ"が大好きなのだ。
男性でも、女性でもない、カトレアさまという"人間"を愛しているのだ。
……きっと、そんな感じなんじゃないかな。
サレナは自分の嗜好をそう分析しておくことにした。
この世において性別は関係なく、ただ一人の人間しか恋愛的に愛せないような人間。
そんな人間がいたっていいじゃないか。
それが私だ、サレナ・サランカだ。
そして――。
「カトレアさまの方でも、そう想ってくれたらいいのにな……」
彼女が自分と同じように、"男"でも"女"でもなく、サレナという"人間"だけを愛してくれたら――。
こんな風に、ぐじぐじと思い悩まずに済むのだろうけども。
しかし、それが叶う可能性の限りなく薄い、あまりにも儚い願いであることをサレナはわかっている。
だって、カトレアさまはすでに恋をしている。
アドニスという人間に、見ているこっちが思わずその姿に恋してしまった程の、美しくて切ない恋をしてしまっている。
「…………」
そのことを思い返して、サレナふっと自嘲の笑みをこぼす。
そんなこと、本当は二人きりで聞き出してみるまでもなく、実は最初からわかってしまっていた。
……だって、アドニスからのドキドキ☆密着指導を受けている時、めちゃくちゃ嫉妬心剥き出しの視線で睨んできていたものなぁ……。
あの時の密かにメラメラとやきもちオーラを漂わせていたカトレアさまの姿を思い出しながら、あまりの可愛さにサレナはにやけてしまう。
にやけながらも、同時に思う。
だけど、わかってしまった"それ"を信じたくなくて、認めたくなくて、きっと無意識の内に、"直接聞き出すまではわからない"と思い込んでしまっていたのだろう。
そのせいで、結果として完膚なきまでに彼女が恋をしているということをわからされてしまったわけだが。
「…………」
そうして次に思い出すのは、彼女がふとした瞬間にアドニスに向ける、慈しむような眼差し。
彼が好きかと問われて意識しただけで、真っ赤に染まってしまう頬。
弾むような調子で、隠しきれない愛しさを籠めて彼について語る声。
秘めた想いを少しだけ取り出した時の、美しい横顔。
……ああ、なんでだろうなぁ。
恋しいあなたを思い出そうとすると、恋をしているあなたの姿ばかりが浮かんでしまう。
そんな風に、恋をしているカトレアさまを見ることで、自分がそれに対して本当の恋に目覚めてしまうだなんて。
まったく人生も運命も、上手くいかないことだらけである。
サレナは深い溜息を吐きながら、上半身を後ろへ倒して仰向けに寝転んだ姿勢になると、夜空へ向かって呟いてみる。
「恋するあなたに恋してる私は、一体どうすればいいんですか……」




