中学二年生の仲秋、怜の修学旅行 その6
新幹線が疾走する。
ポッキーを食べたり、トランプをしたりしながら、車内にいると、まだどこにも到着していないし、何も観光していないにも関わらず、さっき友人が言った通り、むやみと楽しくなってくるのを、怜は感じた。この開放感は、なんだろうか。
「お前の気持ちが分かったよ、賢」
「それは誤解だ、別にレイのポッキーは狙ってない」
怜はポッキーの代わりに、カントリーマァムを一つ賢にあげた。
「わたしにもください、加藤くん」と環。
「でも、他のみんなからもらって、もうたくさん持っているじゃないか」
「だから?」
怜は対面の環にも、個包装されたしっとりクッキーを一枚あげることにした。ただし、ココア味を。
他の班も楽しげに浮かれているようである。
正直、来る前はそれほど気乗りしなかった怜だったが、しっかりと楽しめていることに気がついた。これはイベント自体というよりは、同伴者のおかげだろう。気の置けない友人と出かけられれば、あるいは、場所はどこでも構わないのかもしれない。
その思いを汲み取ったかのように、
「これから、ボクたち、ちょくちょく、みんなで出かけるべきなんじゃないかな。こんなに気が合うんだから」
俊が言った。
「まだ修旅始まったばかりだよ、五十嵐くん」
日向が呆れたように言う。
「善は急げだよ。それに言うべき時に言うべきことを言っておかないと、どうも気になるたちなんだ。どうかな、倉木さんは?」
「わたしは、結論を急ぎたくない派なの。ノリで決めるのは、めちゃくちゃテンション上がった時だけ」
「今は?」
「今はまだそう上がってない。だから、わたしについては、この旅行が終わるまで考えさせてもらいたいかな」
「慎重だね。じゃあ、川名さんは?」
環は、綺麗に手を挙げて、
「賛成です」
と答えた。
「よかった。じゃあ、レイは?」
「このメンバーだったら、喜んで。ただし、このメンバー以外の人を入れる時は、必ずメンバー全員の賛同を得ること、ということが条件だな」
怜は答えた。
「意外だな、レイにも嫌いな人とか受け入れられない人とかいるんだ」
「そこかしこにいる」
「今日の夜に聞いてもいい?」
「別にもったいぶる話じゃない」
「みんなも聞いているけど、大丈夫?」
「オレが嫌いな人に興味なんてないだろう」
そこで俊は、日向を見た。
「その嫌いな人っていうのが、わたしじゃなければ興味ないかな。もしも、わたしだって言うなら、加藤くんには考えを改めてもらいたいって談判する」
「倉木じゃない」
「じゃあ、よかった」
次に、俊は澄を見て、
「わたしは逆にちょっと興味あるかな。シュンと同じで、わたしも、加藤くんって、人に好き嫌いなんて無いんじゃないかって思ってたから」
彼女が答えてから、再び怜に目を向けた。
「そういうわけで、レイの苦手な人って誰なの?」
「太一だな」
怜は、他クラスの知り合いの名を挙げた。
「なるほど」
俊と賢はうなずいている。
「誰?」
日向と澄は、首をひねっている。
「瀬良太一くんじゃないかな」
環が訳知り顔で言った。
「よく知っているな」
怜は、驚いたふりをした。
「有名人ですから」
環の答えは簡単である。
それを聞くと、日向と澄は、うなずいた。
フルネームを聞いて二人とも思い出したらしい。
「タイチはまあ、今はしょうがないんじゃないかな」と俊。
「しょうがない、とは?」
「そのままの意味さ」
「そのうち『しょうがある』状態になるのか?」
「さあ、どうだろう」
「問題は、あいつのしょうがないという状態に、オレがしばしば巻き込まれるっていうことなんだ」
「それもしょうがないね。それを縁と言うんだから」
「くされ縁?」
「そう」
「1年前にさかのぼって、あいつの手を握った自分の頭を小突いてやりたいよ」
「小突かれた1年前のレイは怒り出すんじゃないかな」
「誰にでも若かりしときはあるよな。若気の至り」
やれやれ、と首を横に振ったところで、澄が軽く手を挙げた。
「こっちから聞いてごめんだけど、この場にいない人のことをあんまり言うのはよくないと思う」
正論である。
うなずいた怜は、すっと口にチャックをする振りをして見せた。
「だとしたら、水を向けたボクが一番悪いね。こうやって、いつでもスミちゃんは、ボクの間違いを正してくれるんだ」
俊は、にこやかに言った。
すると、澄は少し口をとがらせるようにして、
「そんな小言ばっかり言っているみたいに言わないでよぉ」
と答えると、それに対して俊は素直に謝った。
生暖かい恋人同士のやり取りから目を離した怜の視線の先に、環の微笑がある。
怜は彼女が言いたいことが分かった気がしたが、口には出さなかった。
「じゃあ、とりあえず、倉木さん以外は、みんなでどっか遊びに行くのに賛成ってことでいいね」
俊は、澄と賢の二人の気持ちは、忖度したようである。
「修学旅行が終わっても、このみんなで遊びに行けるなんて、楽しみだな。また家に来てもらってもいいしね」
「そう言えば、シュン。友だちがいるところを見せて安心させたかった例のお母様は、この前はどちらにいらしたんだ?」
「レイたちが来るちょっと前に出かけたよ」
「じゃあ、ご心配は晴れなかったわけだな。まだ、お前に鏡の中の友だちしかいないと思ってらっしゃる?」
「いや、それは大丈夫」
「と言うと?」
「スミちゃんがいてくれたからね」
俊が言うと、澄は頬を染めたようである。
怜は、もう環の方を見なかった。
新幹線の揺れに身を任せていると、高速で、我が町から離れているわけであって、居ながらにして家が遠くなっているのかと思えば、何だかおかしな気分である。
このまま一昼夜走り続けていたら、どこまで行くのだろうか。
ふと怜はそんなことを思ってみた。
随分と遠くまで行くことだろう。どこに到着するのかは分からない。しかし、到着したところもここと同じような気がするのである。だったら、行かなくてもいいのではないか。一方で、祖父母の家のような、明らかに実家とは違うところもこの世の中にはあるわけである。そういうところがもしも他にもあるとしたら、そこには行ってみないと分からないわけで、とはいえ、それは本当に例外的な場所だろう。
そこで、環の顔が見えた。
訳知り顔に微笑んでいる
「その顔、やめてもらっていいか、川名?」
「どういう顔?」
彼女は小首をかしげるようにした。
「それだよ、それ」
「この仕草?」
「いや、仕草というか、表情というか」
「申し訳ないけど、生まれた時から、この顔なので」
「それはそうだろうけど」
「この前はこの顔を褒めてくれたような気がするんだけど」
「覚えてないな」
環は軽く眉を上げるようにして、
「だとしたら、今のこの顔についてもすぐに忘れるんでしょうから、気にしないでいることもできるんじゃないかな」
と言った。
理屈である。
怜がどう応えようか考えている隙をついて、環の隣にいた澄が口を出した。
「あんまり人の顔のことをどうこう言うのはよくないと思うよ、加藤くん」
確かにそれはその通りだと認めた怜は、素直に謝った。
環は手を差し出している。
仲直りの握手かと思った怜は、その手に自らの手を伸ばしかけたあとに、ハッと気がついて、バニラ味のカントリーマァムを奮発して二つ渡した。
怜はあまり環の顔を見ないようにした。
しかし、彼女は目の前にいるので、全く見ないわけにもいかない。
環を見なければ、他の女の子の顔を見るということになって、よっぽどうまくない。
やむを得ず、窓外を見ようとしても、新幹線の一階から見える景色は、半分になった空くらいしかなかった。
「レイ、トランプやろう」
隣から声がして、ババ抜きが始まった。
怜は、環から回ってきたババで負けた。
「川名は何かオレに対して含むものがあるんじゃないか?」
「誰にでも秘密はあると思いますよ」
「はっきり言ってもらった方が改善の余地がある」
「特に改善してもらいたいとは思ってないかな」
「本当に?」
「多分」
「多分?」
「自分で自分のことがよく分からなくなることってない?」
「たまにあるな」
「今がその時なの」
「なんでよりによって今なんだよ」
「そう言われても、それこそよく分からないわ。なぜだか今だったってことが全ての始まりで、そこからしか話は始まらないから」
「なるほど」
怜は分かった振りをしておいた。日ごろから、従順な息子の振り、寛容な兄の振りをしているので、振りは得意である。しかし、環の目をごまかせたかどうかは微妙だった。やはり、なにやら訳知り顔に微笑んでいる。怜はその顔をやめてもらいたい旨、もう一度抗弁しようとしたが、口を開きかけたところでやめた。
「オレも学習する」
「いきなりどうした?」
隣から賢が言った。
「いきなり思ったのでしょうがない」
新幹線はまず京都駅まで行き、それから奈良に行くことになっている。なぜ京都駅に着いたにも関わらず、京都をスルーして奈良に行くのか、ちょっとよく意味が分からないながらも、何かしら深遠な意義があるのだろうと思って、怜はわざわざ問わなかった。興味が無かったこともある。
天気は気持ちよく晴れ渡っており、立木の紅葉も見事だった。
美しいところは奈良以外にもあるだろうが、だからといって、奈良の美しさがその分目減りすることはないようである。
怜は大仏殿の中を歩きながら、何百年前も、同じようにここを歩いていた人がいるということが不思議だった。それはもちろん寺でなくても考えられるのだけれど、なぜだか、寺院だとそれがよくよく感じられるようである。だからこその、神域なのかもしれなかった。
「きっと、数百年後も誰かがここを歩いているんでしょうね」
環が言った。
その顔はやはり微笑んでいた。
「何百年後も、誰かが誰かにやり込められているかもしれない」
「誰かは誰かに惹かれているかもしれませんね」
「何か川名のためにできることがあればいいけど」
怜はするりと自分の唇から滑り出た言葉に、びっくりした。
それを聞いた環も驚いたようである。しかし、すぐにその表情を微笑に染めて、
「今はお言葉だけいただいておきます。でも、いずれ取り立てに行きますので」
と答えた。




