中学二年生の仲秋、怜の修学旅行 その5
修学旅行当日。
その日、怜は、いつもよりも気持ち早く起きた。
修学旅行前で緊張して眠れなかったというわけでは全然無い。
学校の授業が無いと思うと早く起きられるというあるあるを実践したまでである。
早く起きたところで、特にやるべきこともないので、洗面を済ませたあと、怜は簡単に朝食を済ませることにした。
世には、朝食を重要視する風潮がある。
いわく、朝食べないと一日のエネルギーが取れないとか、健康に悪いとかどうとか。
あるいは、それは正しいかもしれない。しかし、あくまで一般論ではなかろうか。朝からモリモリ食べられない子も現にいるのである。怜はその一人だった。
そういうわけで、今日も朝からトースト1枚とサラダ、紅茶というセットにすることにした。家族はまだ起きてこない。そうして、自分で朝食を用意していると、非常に幸福な気持ちになってきた。いつかは、家を出ることになるだろうが、いざ家を出たとしても、ホームシックにはかかりそうになかった。この家に対する愛着が無いと言えば、まあ、言いすぎかもしれないけれど、それほどは無いことは確実だった。
そういう自分の在り方を怜は、とくにおかしいとも思っていなかったが、世間一般にはおかしいだろと思われそうだということもよく分かっていた。家族には何かしらの愛憎があってしかるべきであろうが、それが無いのだから。時々、自分は天から生まれたのではないかとそんな風に思うことがある。
とはいえ、具体的には、家族に養われているわけなので、そこについての感謝をしようと思えば、それはまあやぶさかではないのだけれど、それも含めて、家族というものは役割演技なのではないかと思うのである。子どもを慈しむ親、親を敬う子ども、助け合うそれぞれ。家族の中で位置を占めて生まれてきた以上、そうするしかないのである。
逆を言えば、それ以上のことを求めてもらっても困るということでもあった。
世の中にある歪な家族関係は、そのあたりのことを割り切れていないから起こるのではないだろうか。このあたりは教育が必要である。
「親はきちんと子を養育する。しかし、子は別の人格なので、自分の言いなりにしてはならない。子は、親を敬う。しかし、親は別の人格なので、依存しすぎてはいけない。きみたちは、それぞれが究極的には天から生まれたのだから、一時期この地上で一緒になった腐れ縁は、できるだけ綺麗に消化しようとするべきなんだ。それが親として子としての正しい振る舞いなんだよ」
ということを、国が責任を持って、徹底的に教え込むのである。そうすることで、親子関係は今よりもかなりクリーンなものになるのではなかろうか。
そんなことを考えていると、怜は、母が起きてくるのを認めた。
「あら、早いわね」
「オレ、朝食これでいいから」
「分かったわ」
母は一人分の朝食を作らなくてよくなったことに対して特にありがたいと思うような様子を見せるようなこともなく、洗面台へと消えた。彼女が帰ってくるまで、怜はもぐもぐとやっていた。
「いつもより、ちょっと早めに出るよ」
「気を付けてね。本当に駅まで送って行かなくていいの?」
「いいよ。荷物はいつもより軽いくらいだし」
衣服などの荷物はすでに旅行先の旅館に送っていた。必要な物だけを携えて、リュック一つで身軽に行けるわけである。いちいち駅まで送ってもらう必要など無いし、多くの生徒がそうしていることだろう。そもそも、今日は環の家を回っていくことになっていた。
「修学旅行の朝に、班長と副班長で集合場所まで向かうのは、別に不自然じゃないよね」
前日に彼女からそんなことを言われたのだった。
怜は、不自然とまでは言えないかもしれないけれど、では、自然かと問われれれば、そうとも言い難いような気がした。
しかし、結局は彼女の言う通りにした。
なんだか、自然とか不自然とか考えるのが面倒くさくなってきたということもあるし、今回は彼女のことをいつもよりも身近で見たい事情があった。
怜は家から離れることができる解放感を身にまとって、仲秋の空の下を揚々と歩いた。
清々しい空気の中で、立木も色づき始めている。
旅行の目的地である京都・奈良の方はどうなのだろうか。
日ごろ、醜いものばかり見ているので、旅の途中くらいは美しいものが見られるとよいと怜は思った。
そんなことを考えながら、とことこ歩いていると、やがて環の家に着いた。
瀟洒な三階建ての家の門前で、制服姿の少女が整然としている。
「おはようございます」
「おはよう」
「ありがとう、レイくん」
「礼を言われるようなこと、何かしたか?」
「わざわざ、わたしの家を回ってくれたでしょ」
「通り道だけど」
「でも、駅までの最短距離じゃないよね」
「ヘリでも使わない限りは最短距離なんかにはならない」
「駅まで行くのにヘリをチャーターしたことは?」
「一度も無い」
「気が楽になったわ」
「そりゃよかった」
「昨日はよく眠れた?」
「普段と変わりないよ。ただ、ちょっと早起きしたけど」
「ワクワクして?」
「うむ」
「レイくんでも、ワクワクして早起きすることなんてあるんだ」
「家から離れて一泊できるなら、どこに行くんだってワクワクするさ」
「そういう機会あるんですか?」
「たまーにある。祖父母の家に行くときとか」
「いいところなんでしょ」
「この世の桃源郷だとオレは思っている」
「桃源郷?」
「桃が咲き乱れる俗世と無縁の土地」
「いいなあ」
「もっとうらやましがってもらいたい。川名にはそういうところはあるのか?」
「わたし……さあ、どうかな」
「もともと家から離れたいと思うことも無い?」
「そんなことはないよ」
「窮屈な思いをすることがあるのか?」
「うーん……窮屈って言ったら、それはそれで、うちのみんなに申し訳ないけど、それでも家にいたら自分だけの時間を持つっていうわけにはいかないからね」
「一人暮らししたい?」
「いつかはね」
「あと4年後にはそうなる。地元の大学に行かない限りは」
「レイくんは、地元の大学に行く予定あるの?」
「大学どころか高校さえあやういよ。全く勉強してない」
「この前言ったけど、今度、教えようか。わたしでよければ」
「この前も言ったかもしれないけど、まったくやる気が無い生徒を押し付けるのは忍びないからいいよ」
「まったくやる気ないの?」
「まったくない」
「いつか必要になったら言ってください。わたし、そのときのために準備しておこうかな」
「準備って?」
「いい家庭教師になる準備」
「オレのために?」
「そう。鞭の使い方を覚えるの」
「なんだって?」
「竹刀がいいかな」
「川名は、家庭教師の概念を激しく間違えているんじゃないか?」
「わたし、スパルタ派だから」
「じゃあ、オレはアテネ派。民主主義で」
「民主主義なんてこの頃流行らないわよ」
「そんなことはない。かれこれ200年間の流行だ」
「流行には敏感なの?」
「母親が買ってくる服を黙って着ている男に流行なんて言葉は似合わない」
怜は歩いている先にバス停を認めて、隣の少女に声をかけた。
「バスに乗っていくか?」
「え?」
「時間には余裕あるから歩いて行っても間に合うけど、100円出せば楽ができる」
「……もしレイくんがよければ、このまま歩いていってもいいかな。今月お小遣い使いすぎちゃって」
「修旅の分あるだろ?」
「あ、あるけど、節約したいの、お土産のために。たかが100円? ううん、されど100円でしょ?」
「オレは何も言ってない」
「いいかな?」
「構わないよ。川名が疲れないなら」
「疲れることなんて全然無いよ。だって、そのために日々部活で鍛えているんだから」
「家から駅まで歩く体力をつけるために部活をやってるって?」
「いけない?」
「いや、そんなことはない。じゃあ、歩いて行こう」
怜が言うと、環は微笑みを深くした。
何かしらが彼女の琴線に触れたようである。
そのまま環は口を閉ざして歩いていた。
怜もそれにならって何も話さずに彼女の隣を歩く。
饒舌家ではない怜にしても、人といる時は何かしら話さなければならぬ、という思いを抱くのが常だったが、環といる時はなぜかそういうプレッシャーから解放されていた。彼女との間に生まれる沈黙は優しい。一つ所に、彼女とだったら、それこそ一日中でも何も話さないで一緒にいることもできそうだった。もちろん、そんな無言の時間、あっちは迷惑だろうけど。
駅に近づくにつれて同校生の姿をチラホラと見かけるようになり、駅に着くと、それは黒山となった。集合場所へと向かっている彼らに交じって行き、構内で、まだ来ていなかった班員たちを待つ。メンバーの四人は時間に遅れずにやってきた。
「では、点呼を取りますね」
班長の環が、皆の名前を呼ぶと、五人全員が返事をした。
この3日間でいったい何度点呼を取ることになるのだろうか。
そんなことを考えていると、今度はクラス全体の点呼を取ることになった。
それを終えて、無事に新幹線に収まると、
「今からもう楽しいよ。来てよかった」
と隣の席から賢が言った。
席は三人掛けを向かい合わせにして、六人が男女別に座っている格好だった。
「まだ新幹線の中だぞ」
「楽しんじゃいけないのか?」
「そんなことはない。楽しいことはいいことだよ。オレも楽しい。家から離れられて」
「失礼なことを言うようだけど、もし虐待されたりしたら、オレの家に来てくれていいからな」
怜は、賢の対面に座っている彼の幼馴染の少女を見ないようにしながら、ありがとうとだけ答えておいた。
「ボクの家でもいいよ、レイ。無駄に部屋数はあるんだ」と俊。
「言葉だけもらっておくよ。別に虐待されているわけじゃないんだ。軽度のモラハラを受けているくらいのものだから」
「キミには悪いけど、ひどい親だな。許せない」
「妹だよ」
「仲が悪いんだっけ?」
「いや、悪くはない」
「そうか」
「最悪だよ」
怜は友人同様に新幹線の道行きを楽しむことにした。
たまに対面の環と目があった。
目が合うと彼女はいつも微笑んできた。
怜も微笑み返そうとしたが、うまく微笑み返せているかどうかわからず、やむなく頬をひっぱるようにして、笑顔らしきものを作った。
「なにやってんの、レイ?」
「気にしないでくれ」




