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中学二年生の孟春、越えられた境界線

 自分と世界との間には一本の線がある。その線において、自分と世界は、はっきりと区切られている。(タクミ)は、物心ついたときから、そのように感じていた。あちらとこちら、こちらとあちら。こちらの世界には巧一人であり、あちらの世界にはそれ以外の人がたくさん。線を踏み越えて、こちらからあちらに行くことはできないし、逆に、あちらからこちらに入って来られることもない。どんなに親しい人でも、たとえ親であれ、こちら側に入ってくることはできない。

 そういう気持ちでこれまで生きてきたし、これからもそういう気持ちで生きていくのだろうと思っていた。そうやって、中学2年まで来たのだけれど、この頃、その気持ちを変えなければいけないのではないかということに気がついた。というのも、「線のこちら側」に入ってきた子がいたからである。入ってきたというか、気がついたらもうそこにいたというべきか。同じクラスの、加藤(レイ)という少年がそうだった。

 2年生になってクラスが変わり、一番初めのホームルームで、クラス全員が自己紹介したとき、彼の自己紹介を聞いて、巧は、胸がとくんと鳴るのを感じた。彼は何か特別なことを言ったわけではないし、また彼の容姿に特別なものがあったわけでもない。それなのに、何かが違う。これまで出会ってきた人とは。それは、もしかしたら、一目惚れだったのかもしれない、と今にして思えば、そうも思える。そう考えると愉快であるし、そう考えていけないわけではない。

 なにはともあれ、巧は初めて、自分から話しかけたいと思う人を得た。しかし、これまで、自分から誰かに話しかけたということが無かったので、どうやって話しかけてよいものやら分からない。中学2年生にもなって、滑稽だと言われればその通りなのだけれど、分からないものはしょうがない。しょうがなくても、線のこちら側に来た限りは、とりあえず、何でもいいから声をかけなければいけないと思っていた巧は、

「これ、お前のか?」

 その当の相手である加藤くんから、ある日、突然に声をかけられたので、びっくりした。びっくりすることも常に無い感覚だったので、それ自体にもまた驚きである。

 加藤くんが差し出したのは、使い古されて丸くなった、小さな消しゴムだった。巧は自分の消しゴムを確認した。ついさっきまであったけれど、もしかしたら何かの拍子にコロコロ転がっていった可能性はある。

「いや、オレのじゃないみたいだ」

 巧は自分の消しゴムを見せた。

「そうか」

 加藤くんは、ふうと息をついた。

「難事件みたいだね」

 巧は微笑んだ。

「もうゴミ箱に入れて、迷宮入りにしようかと思っている」

「それはどうかな。その消しゴムが無いばかりに、今まさに困っている人がいるかもしれない」

「可能性っていうものは何にでもあるもんだろうが、参考までに教えてもらいたい、この小さな消しゴムが無いばかりに困る人間っていうのはどういう人間が考えられる?」

「そうだな……」

 巧は少し考える振りをした。

「たとえば、こういう可能性が考えられるんじゃないかな。ここにラブレターを書いている男の子がいるとする。ラブレターを書いたことは?」

「無い」

「オレも無い。でも、想像はできるだろ?」

「ああ、それで?」

「昨晩したためて、今日出そうとした。で、最後にもう一回と思って、読み直したんだ。そうしたら、季節の『季』を間違えて、委員会の『委』と書いていることが分かった。書き直さないとと思っても、消しゴムが無い。もしも、ラブレターに誤字があったら、どう思う? ラブレターをもらったことは?」

「無い」

「オレも無い。でも、誤字があるラブレターを貰ったときの想像はできるだろ?」

「愛があれば誤字くらいどうということはないだろう。一方で、愛が無ければ、誤字なんてどうでもいいことになるんじゃないか?」

「そんな二分法にはならない。いいかい? まさに、その手紙によって愛が芽生えるということがありうるじゃないか」

「あり得るのか?」

「いや知らない。でも、無いとは言い切れないだろ?」

「そもそも『季節』なんていう言葉を使う愛の告白の文面ってどんなものなんだ?」

「愛の告白までのイントロに使うんじゃないかな。『暖かくいい季節になりましたね』みたいな」

「なんでそんなことを書く必要があるんだ?」

「いきなり、『好きです!』じゃ、相手もびっくりするじゃないか」

「そういうものなのか?」

「多分ね、知らないけど」

「つまり、オレは、その、彼もしくは彼女の恋の成就のために、この消しゴムの落とし主を探さないといけないってわけか、どうあっても」

「そうなるだろうね」

「そもそも、そいつは、なんでこのご時世に、手紙なんて書くんだ? メールとか、メッセージで済ませればいいじゃないか」

「それはやめて正解だったろうね。誤字は消せても、誤変換して送ったメールは取り消せないだろ」

「なるほど」

 心から納得しているようにうなずく加藤くんの前に、巧はいきなり手を差し出していた。

「こんなことしたことないんだけど」

 そう断ってから、

「椎名巧です。よろしく」

 巧は言った。これまでこんなことはしたこともないし、欧米ならともかく――と言って、欧米の習慣もよく知っているわけでもないのだが――ここ日本ではあまり普通の光景でもないだろう。しかし、巧には、彼がその手を取ってくれることが分かっていた。なぜ分かっていたのかは分からないが、案の定だった。加藤くんは、巧の手を取ると、

「加藤怜です。改めて、よろしく」

 そう言って、微笑した。

 巧は、初めて知己を得た。

「そんなところで、二人で何をやっているの?」

 近くから聞こえてきた女の子の声にそちらを向くと、桜の妖精のような少女だった。川名(タマキ)という、クラス一、いや学年一、あるいは、もしかしたら、この町で一番可愛いのではないかと思われている子である。この子には独特の風韻がある。美形な上に、成績も良くて、性格も社交的であり、走れば速そうな子で、まさに完全無欠と言えるような少女だけれど、それだけではなく、なにかそれにプラスアルファがある。そのプラスアルファが何なのか、しかし、巧はそれを追究しようとしたことはない。そういうことは彼の管轄外だった。

「新しい友だちを作ったんだよ、川名」

 怜が言った。

「わたしのことは友だちだと思ってくれている?」

「小5のときから知ってる」

「わたしだって、物心ついたときから、たくさんの人のことを知っているわ。アメリカの第16代大統領だって知ってるもの。ねえ、椎名くん?」

「リンカーンだよね、オレのカンによると」

 巧が答えると、

「そう(かん)に障る言い方をしないで、ストレートに言ったら、どうだ、川名?」

 と怜が引き取った。

「根が控えめだから。ねえ、椎名くん?」

 ねえ、と言われても、彼女のことをよく知らない巧は、お愛想に笑っておくほかない。それを見た川名さんは、

「ほら、加藤くん。椎名くんが、困ってるわよ」

 言った。

「オレが困らせたわけじゃないだろ」

「じゃあ、わたしが悪いって言うの? 何もかも。ヒステリー起こそうかな」

「いつも冷静な川名がヒステリーだって? このクラスのヒストリーになりそうだな」

「面白い」

「そりゃよかった」

 川名さんは巧に向かうと、

「いつもこんな調子ではぐらかそうとするのよ。わたしのこと、なんだと思っていると思う?」

 訊いた。

 マタドールにおける猛牛、というのが、巧の頭にパッと思いついたが、まさかそんなことは言えるハズもないし、表情にも出さなかったつもりだったが、川名さんの瞳がきらりと光ったような気がして、ひやりとした。

「オレが代わりに言った方がよければ、言ってもいいけど、タクミ」

 加藤くんが言った。早速名前で呼んできた彼に対して、

「『沈黙は金』っていう言葉、知らないのか。レイ?」

 自然に名前を呼ぶことができる自分がまた新鮮だった。

「わたしのことも名前で呼んでくれてもいいんだけど、加藤くん」

 川名さんが言った。

「川名が男だったらそうしてたさ」

「男とか女とかってそんなに重要なことかな?」

「重要かどうかは分からない。ただ、違いがあるってことは確実に言える。そうだよな、タクミ?」

「『男』と『女』っていう言葉がそれぞれあるっていうことが、そのまま違いだっていうそのことだからね」

 巧が答えると、川名さんは、

「椎名くんは、加藤くんの味方なのかな?」

 訊いてきたので、ゆるやかに首を振って、

「いつだって、川名さんの味方になるつもりはあるよ」

 答えておいた。

「ありがとう」

 再び川名さんが艶然と微笑む。見とれてもいいような笑みには、どこかに陰が含まれているような気が、巧にはした。しかし、加藤くんは、そんなことは特に気にもしていないような平然とした様子で、

「味方を取り込もうとする前に、この難事件を解決する手助けをしてくれないか」

 そう言って、消しゴムを、川名さんに差し出した。

「誰のだか、分からないの?」

「分かっていたら、そいつに届けるさ」

「わたしがこの消しゴムの持ち主を見つけるのに有効なことをしたら、加藤くん、わたしのことを尊敬してくれる?」

「尊敬するし、憧憬(どうけい)のまなざしを送るよ」

「贈るならクッキーにしてもらえる?」

 加藤くんがうなずくと、川名さんは、そのほっそりとした手を差し出して、消しゴムを受け取った。それから、教室へと向き直ると、

「ちょっとだけ時間をください。みなさんの中で、消しゴムを落とした方、いませんか?」

 綺麗な声を響かせた。

 イヤホンをして音楽を聴いている子以外は、みな振り返った。ちなみに、教室の中に、イヤホンをして音楽を聴いている子は一人もいなかった。

 しばらく待ったあとに、一人の女子生徒が、わたしのかも、と手を挙げて、消しゴムを取りに来た。難事件は、あっという間に解決された。見事な手並みだけれど、

「これで、オレたちがいかに無能かっていうことが、証明されたな、タクミ」

 一方では、そういうことでもあるのだった。

「悲しいことだけど、事実は認めないといけないよね」

 巧が素直に答えると、

「家でも無能扱いされているのに、学校でもそんな目に遭うとはな」

 怜は、やれやれと首を横に振った。そうして、巧を見ると、

「おかしいか?」

 と尋ねた。

 えっ、と驚いた巧は、自分がどうやら知らないうちに、笑っていたのだということに気がついた。これもまたかつてないことだった。

「どうやらそうみたいだね」

「そりゃ、よかった。楽しいことはいいことだからな」

 楽しい……。これまで、人生がそれなりに興味深いと思うことはあっても、楽しいと思ったことはなかった。

「レイ」

「ん?」

「話したいことがあるけど、いっぺんに話すのがもったいないと思ったことってある?」

「無いな」

「オレも無かった。でも、たった今、そういう気持ちになったよ」

「それって、いいことか?」

「多分ね」

「じゃあ、よかった」

 コホン、と咳払いがして、川名さんが、蚊帳の外から、

「お邪魔みたいだから、わたしはこれで失礼するね」

 ちょっとだけ中に入って、また、そっと出て行った。

「クッキーとスコーンの件、忘れないでね、加藤くん」

「なんか増えてないか?」

「これ以上増やされたい? わたしは別に構わないけど」

「クッキーとスコーンとプリンだったな、了解」

「ありがとう」

 そう言って、その場を離れて行く川名さんの背を見送った怜に、巧は目を向けた。

「そんなにたくさんお菓子を作れるのか?」

「いや、クッキーしか作ったことはない」

「じゃあ、新しくトライしてみるっていうこと?」

「そういうことになるな。今度、味を見てみるか?」

「ぜひ」

 そこで、休み時間終了5分前のチャイムが鳴った。

「じゃあ、また」

 そう言ってしまってから、巧は苦笑した。また、も何も、同じ教室で勉強しているのである。毎日会うし、何なら毎時間の休み時間に話すことだってできるのだ。どうして、そんなことを言ってしまったのか、巧には分からなかった。しかし、

「ああ、またな」

 怜は、特に笑うこともなく、真面目な顔で返してきた。そうして机へと戻る。なるほど、そういう返しをしてくれる子だからこそ、そういう言い方をしたのかもしれない、と巧には深く腑に落ちるものがあった。

 自分の席へと戻った巧は、先に席を立ったときと、明らかに世界が異なる様相を見せたことを認めた。この変貌の速やかさはどうだろう。世界の構造にはまだ自分にとって未知の部分がある。それが分かったことが、巧には、驚きであり、それ以上に、楽しいことだった。

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[良い点] ちなみに、──は一人もいなかった。 この表現、さすがcoach先生だなあと思わず口角が上がりました。 というのも、環ちゃんの美しさをこう表現するのか、と思ったんです。どんな意図で書かれた…
[良い点] 尊い、、、 先生の作品は心が浄化されます、、、  。 O   o   o   。 ○         。    ホッコリーナ   O 。    _    ,.'´  `゛、 o …
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