小学四年生、今より神に近かったころ ~涙の無いお別れ~
「大変、残念なお知らせがあります」
ある秋の日の朝のホームルームにおいて、担任の女教師が沈鬱な顔で切り出した。秋晴れの気持ちの良い日に、まるで葬儀にでも行きそうな顔をしている。せめては、残念なそのお知らせとやらは、帰りのホームルームにでもすればいいのに、と怜は思った。学校から解放されるときにしてもらえば、その残念さも薄らぐことだろう。
「紬さん」
教師は、紬の名を呼んだ。
教師のかたわらに立った彼女は、ぎこちなく微笑んでいる。
「紬さんは、お父様のお仕事のご都合で、今学期で転校されることになりました」
教師がそう言うと、クラスの中から一斉に、驚きの声が上がった。
「ですから、みなさん、残り少ない期間ですが、紬さんとの思い出をできるだけたくさん作りましょうね」
教師がそう結んだ後に、紬は壇上に立って、挨拶した。突然のお知らせになったことのお詫びと、これまで仲良くしてくれたことへの感謝のあと、
「冬休みまでの間、あと1ヶ月ちょっとですけど、よろしくお願いします」
そう言って、頭を下げた。
そのまま一時限目が終わって休み時間になると、紬の周りにクラスメートが集まってきた。みな口々に、どこに引っ越すのか、どうして引っ越すのかなど尋ねている。その喧噪を、怜は近くで聞くともなく、聞いていた。
放課後、怜は、帰り道、校門から出ると、後ろから呼び止められた。紬だった。隣に来た彼女に、怜は、また噂になることを警告しようかと思ったが、仮にそうなったとしても、彼女は転校するわけだから特に問題も無いだろうと思って、言わずにおいた。
「びっくりした?」
「なにが?」
「わたしが転校することだよ」
「え? ああ、びっくりしたよ」
「全然驚いてないみたい」
確かに、怜はそう大して驚いてはいなかった。年度の途中で引っ越すということは、そうそう起こらないことだけれど、まったく起こらないというわけでもない。
「言わなかったからって、怒ってはいないよね?」と紬。
「なんで怒るんだよ」
「なんでって……まあ、そうだけど」
それきり、紬は黙ってしまった。おしゃべりな彼女が黙るのは珍しいことである。怜は、沈黙は好みだが、他人と一緒にいるときの沈黙はあまり好まない。何かしゃべらないといけない気になったが、何をしゃべることもなかった。どこに引っ越すのかとか、どうして引っ越すのかということは、すでに聞いてしまっていたことであるし。
結局、別れ道に来るまで、紬は何もしゃべらなかった。
「じゃあ、また明日、学校でね」
それだけ言うと、彼女は足早に立ち去った。残された怜は、自分の帰路を取りながら、何か彼女に対して言うべきだったのだろうかと思ったが、何も思いつかなかった。
翌日、何やらクラスメートが紬の周りでがやがやとやっていると思ったら、
「お別れ会をしよう」
ということで盛り上がっているらしかった。もちろん、紬のである。先生に許可をもらって、「総合」の時間をそれに当てようということらしい。まだお別れまでに時間はあるのだけれど、後にすると、何か緊急のことがあって結局できないということになったらアホらしいからということで、先んじて行おうというのである。お別れ会というのはそういうものなんだろうか、と怜は疑問に思ったが、まあ一理ある話なので、何も発言せずにおいた。
グループごとに出し物をするということになり、怜たちの班は劇をするということになった。劇においては役を演じなければならないわけだけれど、何かしらの役を演じるということに対しては、怜はうまくできるかどうかとはまた別の話だが、そう違和感はなかった。この世の中はこれ一つの舞台、家では長男の役、学校では生徒の役を演じているわけである。
「がんばってね……って言うのは、変かもだけど」
紬が、笑いながら言った。
劇の練習をするために、グループのうちの一人の家に集まるということになった。日頃他人の家に行き慣れていない怜は、よっぽど断りたかったが、そういうわけにもいかず、出かけていくと、しばらく劇の練習をみんなでしたあとに、休憩ということになり、
「あのさ、加藤くん」
その家の子である女の子が、興味津々といった顔で話しかけてきた。怜は嫌な予感がした。
「ツムギちゃんと付き合ってるの?」
予感的中。彼女の声に応じて、周囲の子たちが興味津々といった顔で怜を見た。そんなに興味を向けられても、怜としては、何の見返りも与えてやることはできない。なにせ、付き合ってなどいないのだから。
怜は正直にそう答えたのだけれど、彼女は執拗だった。
「でも、いっつも一緒に帰ってるじゃん」
「遠足の時だって話していたし」
「この前の運動会の練習のときだって、おんぶして保健室まで連れて行ってあげていたでしょう」
何と言われても、怜としては、無いものを有るというわけにも行かず、攻められるがままになるほかなかった。
「じゃあさあ、加藤くんはツムギちゃんのことどう思っているの?」
よくよくと彼女はこの話題にご執心らしく、なおも訊いてきた。怜としては、紬のことは特に何とも思っていない。友達と言えば友達かもしれないが、これまで友達というものを持ったことが無いので、彼女がそうであるかは、どうも明らかではなかった。明らかではないけれど、そう言っておいた方が面倒が少ないだろうと思った怜は、
「友だちだよ」
と答えたところ、
「そういう答え方をするのが逆にアヤシイ」
と言ってくるではないか。怪しまれてもどうしようもない怜としては、怪しむにまかせておくほかない。それから、何度か彼女は同じ質問を繰り返してきて、しかも、男子も悪ノリしてきたので、その話題に時間が割かれて、本日集まった意味がほとんどなくなってしまった。パーティは再会を約して、解散となった。もう一度集まらなければいけないことになるとは、面倒なことこの上ない気持ちで、怜は帰路を取った。
そうして、一週間後、もう一度集まって、劇の稽古をしたあとに、またぞろ同じ話になった。怜はうんざりしたけれど、怒りをあらわにしてその話を打ち切るだけの激情はなくて、もう一度同じ話を辛抱して繰り返した。やっぱり質問を始めた同じ彼女は納得した風ではなかったが、納得すればつまらないまま話は終わってしまうわけで、よっぽどそうしたくないのだろう、と怜は考えた。
何とか三度目の会合はしなくて済むようだった。
そうして、お別れ会の日がやってきた。開会の挨拶から始まって、会は滞りなく進行したけれど、この会が終わっても、まだ本人は学校に残っているわけだから、どこか盛り上がりに欠けていた。怜も、グループの出し物において、与えられた役割を果たした。少しどもってしまった部分もあったが、まあ、ご愛敬だろう。
涙がつきもののお別れ会に、しかし、誰も涙を流すものはいなかった。やはり、何でも先んじて行えばいいというものでもないということだと、怜は確認した。それでも、
「あー、楽しかった」
紬は、心からそう思っているような声を出した。その日の帰り道である。
「ありがとうね、加藤くん。わたしのために」
「別にオレだけがやったわけじゃない」
「そうだけどさ、多分、クラスの中で加藤くんが一番やりたくなかったんじゃないかなって」
クラスでやると決まった以上は、それに反対するいわれはないと怜は思っていたので、彼女の言葉は心外だったけれど、特に反対はしなかった。別にやりたいことだったわけでもないのだ。
「わたし、加藤くんと友だちになれてよかった」
紬は出し抜けに言った。
怜はどう答えればよいか迷った。だから、
「そんなこと言われたことないな」
とだけ答えておいた。つまり事実のみをである。
紬は微笑むと、
「だって、これまで友だちいなかったんでしょ?」
と言ってから、
「加藤くんはもっと友だちを作るといいと思うな。そうしたら、加藤くんの面白いところをもっとみんなに知ってもらえるのに」
続けた。
怜としては、自分が面白い人間だとは思っていなかったし、仮に面白かったとしても、それをみんなに知ってもらいたいとは思っていなかった。だから、おそらくは、積極的に友だちを作ることはこれからも無いだろうし、紬がいなくなれば、またもとの一人に戻るだろう。それは、もちろん、何も悲しむべきことではないし、寂しがることでもない。
別れ道のところで、紬は立ち止まった。そうして、少しの間、そのままでいた。いつもはすぐに、「じゃあ、また明日ね」と言って立ち去るのに、なかなか離れようとしない。何か言いたいことがあるのだろうかと思った怜が、そのままでいると、
「あのね、加藤くん……わたし……」
紬は、そのつぶらな瞳に、真剣な光を溜めて、何か言いたそうな顔だったが、開いた口からそれ以上言葉を発することなく、唇を閉じると、
「ううん、やっぱり何でもない」
そう言って、にこやかに笑ったあと、
「じゃあ、また明日学校でね」
と続けて、いつものように駆け足でその場を離れた。
彼女が何を言いかけたのか、怜には知る由もなかった。
それから、一ヶ月ほど経って、紬は転校していった。何組の何とかいう男の子が、転校前に紬に告白したということだったが、特に興味は無かった。
紬がいなくなってから、怜は一人に戻った。予想通りそれは、特に悲しいことでもなければ寂しいことでもなかった。クラスも、初めは紬がいないことが話題になっていたけれど、そのうちに話題にも上らなくなった。去る者は日々に疎しということだろう。それもまた人の世の常であり、特に悲しむことでも寂しいと思うことでも無いような気がした。誰にとってもそれは同じことである。そうして、それは、クラスからではなく、この世からでも同じことなのではないかと怜は思った。この世の中でひととき一緒になって、別れていく。別れれば、それきりで思い出すことも無い……ことはないかもしれないけれど、それは年月が経るに従って確実に少なくなる。それは非常に清潔なことであるように、怜には思われた。




