小学四年生、今より神に近かったころ ~楽園の外で待つもの~
「お前さ、あしやのことが好きなの?」
この質問に、怜は大いに戸惑った。
何に戸惑ったのかというと、質問の内容もそうだったのだが、それよりも、この質問がいかにも唐突に、しかも見も知らぬ男子から為されたということにだった。
下校時である。校門から少し出たところで、怜は呼び止められた。そうして、名も名乗らないうちからいきなり疑問文をぶつけられたのである。小学校には名札というシステムがあって、胸にあるそれを見れば名前が分かることになっている。
そこには波多野翔太と書いてあった。4年1組ともあって、2組の怜のクラスメートではないようだった。怜はホッとした。さすがにクラメートの顔を覚えていないというのは、外聞が悪い。
「答えろよ」
ホッとしている雰囲気ではないということに怜はすぐに気がついた。なにやら彼は思い詰めた顔をしている。中背の怜よりも、頭半分くらい背が高い、すらりとした子だった。スポーツができそうな、しなやかな体つきである。
さて、答えろ、と言われても、怜は、「あしや」というのが全体、何なのか、そこから分析を始めなければならなかった。それが分からないのに、好きかどうかと問われても困ってしまう。
――あしや……あしや……。
沈黙をとって考えてみたが答えが出ない。分からなければ問い返すしかない。怜は、
「あしやって?」
訊き返すと、男の子はチッと舌打ちしたようである。
「バカにしてんのかよ? お前と一緒のクラスの芦谷のことに決まってるだろ」
決まっているだろうと言われても、現に「あしや」という音とクラスメートの名字がリンクしなかったわけであるので、バカにしてるのか、という批難は当たらない。そういうことを言ってやろうかと思ったけれど、何やら彼は興奮状態であるようだから、彼の問いに簡潔に答える方がいいだろう、と怜は思った。問いは、クラスメートの女子である芦谷紬のことが好きかどうかというものである。
「別に嫌いじゃないけど」
そう言うと、
「好きなのか?」
重ねて訊いてきたので、怜はもう一度、嫌いじゃない、という言葉を繰り返した。紬からは嫌なことをされたこともなければ、嫌なことを言われたこともない。だから、彼女のことは嫌いではない。それだけである。
「じゃあ、そんなに好きじゃないんだな?」
また訊いてきた彼に対して、怜は、少しうんざりしてきた。大体にして、紬に対してどんな思いを抱いていようが、彼には関係がない話である。だから、そんなに、というのがどの程度が分からないので、答えようがない、と言ってやると、
「カノジョにしたいって思うくらいだよ!」
彼は吐き捨てるように言った。
――カノジョ……?
怜はまた聞き慣れない言葉を聞いて戸惑った。もちろん、その言葉の意味するところは知っている。女の恋人、それがカノジョである。しかし、その言葉は、どこか別世界の言葉であって、たとえば、高校生とか大学生とか、そのくらいの年にならないと、あるいはそのくらいの年になっても自分には縁が無い言葉なのではないかと思っていた。
その言葉を、今現在小学四年生のこの時に聞いたので、しかも自分に結びつけられるような格好で聞かれたものだから、すぐには反応ができなかった。
「どうなんだよっ!」
波多野くんは大きな声を上げた。もはや完全な喧嘩腰である。なにゆえよくも分からない人間に怒鳴り声をかけられなければならないのか。怜はムッとしてくるものを覚えながら、
「そんなこと思ったこともない」
努めて冷静な声を出した。
「本当だな?」
「本当だよ」
「付き合ってるわけじゃないんだな?」
そもそもカノジョにしたいと思っていないわけだから、付き合うなんていう話になりようがない。彼の頭の中はいったいどうなっているのだろうか、と怜は思ったが、特に興味は無かった。
「付き合ってないよ」
「本当か?」
「くどい」
「なにっ!?」
「くどいって言ったんだよ。大体、オレがツムギとどういう関係でも、お前には関係ないだろ」
「おまっ……呼び捨てにしてるのかよ?」
「してない。今しただけだ」
もういいだろう、と思った怜は、帰路を取ることにした。波多野くんはまだ何か聞きたいことがあって、追いかけてくるだろうか、と思ったが、そういうことはなかった。
翌朝、怜が教室に入ると、ざわざわと声が大きくなった。これまで注目されることなどなかったので、自分には関係ない、と思っていた怜だったが、どうやら初めての経験をしているらしいことが分かった。というのも、しきりに怜を指す「加藤」という名字が囁かれているからである。
それが昨日の件であることが分かったのは、お昼休みのことだった。怜は、給食を終えたあと、紬に呼び出された。
「ちょっと一緒に来てくれないかな」
難しい顔で彼女が言うのに従おうとすると、クラスメートたちが、
「デートかー?」
とはやし立てた。そのにぎやかな声を後にして、廊下に出て、どこまで行く気なのか、さらに生徒用玄関から外に出ると、昼の日差しの下を、校庭の隅まで歩いていった。
「ここでいいかな」
紬は自分に言い聞かせるようにして言うと、
「本当なの、加藤くん?」
いきなり言い出したので、何を訊かれているのか分からない怜が訊き返すと、
「波多野くんと、わたしのことで喧嘩したって」
続けてきたので、首を横に振った。別に喧嘩はしていない。彼は喧嘩腰だったけれど、相手をしていないのだから、喧嘩ではないだろう。
「殴り合ったって聞いたけど……」
どうやら話に大きな尾ひれがついているようである。
怜は事の顛末を正確に説明した。聞き終った紬は、
「なんだ、殴られてはいなかったんだね」
その点にホッとしながらも、
「それで、加藤くんは、わたしと付き合っていないって、答えたんだよね?」
確認してきたので、怜は、その点は、はっきりと保証してやった。
「……そうなんだ」
すると、紬の表情に寂しそうな影が走ったようだったが、すぐに笑顔になって、
「わたしのことで迷惑かけてごめんね」
そう言うと、ペコリ、と頭を下げて、
「話はそれだけなの、教室に戻るね」
タッタッとその場から足早に離れて行った。
怜は、どうもよく分からなかった。波多野くんはなぜ昨日自分に会いに来て、紬のことが好きかどうかなんてことを訊いたのだろうか。怜が紬のことが好きかどうかなんてことを知ることで、彼にとってどんな得があるのだろうか。考えても分からないことというのは、誰かに訊くに限る。しかし、怜にはこういうときに相談する友を持たなかった。ただ一人の例外が紬ということになるのだろうが、その彼女に関する問題なのだから、訊くわけにもいかなかった。
よく分からないことではあったけれど、さして、追求しようとも思わないことでもあった。知らないことであっても、知りたいと思わないこともある。たとえば、怜は、エレベーターがどうやって動いているのかその原理を知らないが、特に知ろうとしたことはない。波多野くんの行動もその類である。もちろん、今後も彼が同じような行動をしてくるのであれば、迷惑極まりないので、その行動原理を明らかにする必要性に迫られるけれど、そうでなければ、一度くらいのこと、事故だといって済ませられないことはなかった。
教室に帰った怜は、周囲のクラスメートからの奇異の視線を感じたものの、見世物のパンダもこんな気分なのだろうか、などと考えて、やり過ごした。
翌日の放課後、紬から、一緒に帰ろうと誘われた。こうして一緒に帰っているがためにあらぬ誤解を受けかもしれない身としては、遠慮した方がいいかもしれないと思ったが、逆に言えば、なにも波多野くんのような人を無理やり呼び止めて詰問するような輩に遠慮することはないと思い直して、誘いを受けることにした。
「昨日、波多野くんから告白されたんだ」
校門から出たところで、紬は唐突に言い出した。昨日の放課後に、波多野くんに呼び出されて、校舎裏で告白されたらしい。それを紬は断ったと続けた。
怜にとっては、そもそも付き合うということ自体が世界の果てのできごとであったわけであるので、そんな告白劇が身近で起こっていたということが、意外だった。しかし、それはただそれだけのことで、それ以外に特に何らの感慨も持たなかった。
「はっきり断ったからね」
紬は続けた。
怜は、はっきりと断られた波多野くんが肩を落とす様子を思い浮かべてみたが、特に同情はしなかった。
「加藤くんはさ……好きな人とかいないの?」
紬は、ぼそりと言った。
「お祖父ちゃんとお祖母ちゃんかな」
今のところ、心から敬愛できる人はその二人しかいない。
「からかってるの?」
紬はキッとした目を向けてきた。からかうどころか真面目に答えたつもりの怜だったが、どうやら、この場合の好きな人というのは、恋愛対象のことを指しているらしいことを悟った。これまで出会ってきた女の子、と言っても、クラスメートくらいしかいないのだが、その中に好感を持てる人はいなさそうだった。とはいえ、大した付き合いをしたわけではないから、もしかしたら深く付き合えば、その良さが分かり、好意を持てるようになるのかもしれない。
しかし、怜は、あまり期待はしていなかった。怜の身近にも、妹や、従妹という女の子がいて、もちろん、彼女らが女の子を代表するわけがないことは分かっていたが、何らか彼女たちと同じ属性を持つ種族に対しては、あまり好感を持てそうになかった。
「特にいないみたいだけど」
「そう……」
紬はそう言ったきり、口を閉ざしたまま、歩いた。話し好きな彼女にしては珍しいことである。波多野くんの一件が、何かしらのダメージになっているのだろうか、と怜は考えたが、だからといって、何をどうしてやることもできなさそうだった。
「もうここまででいいよ、加藤くん」
紬は立ち止まって言った。
怜は紬の家路を一緒にたどっている。怜と紬の家はほとんど反対方向であるので、紬の家に近づくほど、怜の家からは遠ざかるというシステムだった。
「また迷惑かけるかもだけど、友達でいてくれる?」
紬がまっすぐな瞳を向けてきたので、怜はうなずいておいた。
「よかった。じゃあ、また明日、学校でね」
紬は背を向けると、小走りに立ち去った。
それを見送ったあと、怜は家路をたどり始めた。いつか、自分が誰かと付き合うことがあったとして、それは一体どういう人なのだろうかと考えてみた。すると、どうしても、想像の外である。
きっとその「外」には、これまでの世界とは全く異なったものがあるのだろう。それは素晴らしいものなのかどうか。楽園を追われた彼が、果たして楽園の外に価値あるものを見いだしたのかどうか、寡聞にして、怜は知らなかった。




