小学四年生、今より神に近かったころ ~遠足の足労~
間近に迫っていた隣市への遠足日程が担任から正式に発表されると、クラスの中で歓声が起こったが、怜は特に心動かされはしなかった。遠足が行われるのは七月の上旬、暑い最中である。遠足内容は登山。暑気に耐えながら、なにゆえ山など登らなければならないのか。一体それは何のトレーニングなんだろうかと思うくらいで感慨とはほど遠いところにいるのが、怜という少年だった。
「一緒の班になろうよ、加藤くん!」
芦谷紬が明るい声で言ってきたが、怜がそれに答える間もなく、彼女はすでに怜を勘定に入れて、女子の友達に声をかけていた。遠足の班は6人であるらしい。30人のクラスが綺麗に5班に分かれるわけである。紬以外の男女合わせて4人とは、ほとんどしゃべりもしないけれど、特に問題を感じない怜は、
「このチャンスに、友達、増やせるといいね」
紬にささやかれた。
怜は、友達というのはたくさんいた方がいいのかどうか分からなかったので、増やせるといいとは思わなかった。なので、
「芦谷だけで間に合ってるよ」
というと、彼女は、なぜか頬を染めた。
「風邪か?」
「ちがう」
「ならいいけど」
怜は特に自分が属すことになる遠足班と親交を深めようとも思わなかったし、その機会も特にないようだった。どこに行くか、どうやって行くかは全て学校側のプランニングによって決められており、自由行動が無いので班で何を決める必要もない。何かを決める必要があれば、侃侃諤諤やる中で、仲も深まるかもしれないが、ただ一緒に山を登って一緒にお昼ご飯を食べて一緒にゲーム的なことをやるだけであるから、是非もない話だった。
「一緒におやつ買いに行く? 加藤くん」
放課後、帰り道で紬が訊いてきた。
「おやつ?」
「うん」
「おやつくらい自分で買える」
「そういうの、よくないと思うな」
「ん?」
「友達が誘ってるんだから、断るにしても何かしらもっともな理由が無いとさ」
「なるほど」
そういうものかと思った怜は考えてみた。しかし、特にもっともらしい理由も見つからなかったけど、
「噂されるからやめた方がいいんじゃないか?」
と言ってみたら、紬は渋い顔をした。
「なんかそういうの面倒くさいね」
「オレが決めたルールじゃない」
「わたしたち、秘密の恋人同士ってわけじゃないのにさ」
紬は言うと、教室のときと同様に頬を染めて、明後日の方角を向いた。そのあと、顔を前に戻すと、
「加藤くん、女の子だったらよかったのに」
続けた。
「どういう脈絡だよ」
「だって、そうすれば遠慮なく付き合えたでしょ」
そうだろうか、と怜は思う。クラスの女子たちはそれぞれにグループを持っていて、女の子だからといって遠慮なく付き合っているとは到底思えない。
「そりゃまあ、気が合う・合わないはあるからね。でも、加藤くんとは気が合いそう。だから、今こうして友達になっているわけだしね」
なるほど、と思った怜は、別れ道で彼女と別れた。
そうして遠足の日になって、その日は朝から天気も上々、気分は上でも下でもない怜は、リュックサックを背負って、家を出た。学校からバスに乗って目的地までレッツゴー、そのバスの中、
「わくわくして眠れなかったあ」
近くの席で紬が言っていた。
何をわくわくすることがあるんだろう、と怜は素朴に不思議だったが、口には出さなかった。
「ポッキー食べる、加藤くん?」
紬が通路を挟んで隣の席から言ってきたので、怜は丁重に断った。
「え、どうして、ポッキーだよ?」
ポッキーが素晴らしいお菓子であるということは知っていたが、母から朝からしっかりと食べさせられてお腹がいっぱいであるので、どうしようもない。
「芦谷、おれにくれよー」
同じ班の男子が耳ざといことをしたので、ポッキーは彼の口へと入った。
怜は、隣同士になった男子と特に口を利くでもなく、目的地までを静かに過ごした。
登山口に着くと、空はますます晴れ渡っている。すでにじんわりと汗が出てくるのを感じた怜は、もうこの場に来ただけで十分な気がした。しかし、登らなければならぬ。
怜は、班のしっぽに着くことにした。
先頭はこの班の班長を務める紬が歩いた。
登山口から山道を登る。
仲夏の太陽のもと、緑が萌えるようである。
しばらく登っていると、怜はすぐ前を歩いている女の子の足取りが重たげであることに気がついた。
そこへ、
「加藤くん、遅い、遅い」
はやし立てるような調子の声を出して、紬が怜のそばまで降りてきた。
「芦谷、もうちょっとペースを落とした方がいい」
「え、なんで?」
「男子はいいけど、女子は疲れてる」
「え、そうなの?」
ちょっと先を歩いている二人の女子メンバーを見た紬は、そんな風には見えないけどなあ、と首をひねった。そうして、タッタッと駆け足をやって、その二人にちょっと休んだ方がいいかどうか、訊いてみた。すると、二人はまだ大丈夫だと言う。
「大丈夫だってさ、加藤くんは休みたいの?」
怜は首を横に振った。夏休みに母方の実家に帰ったときに、祖父がよく湖や川に連れて行ってくれて、その周辺を散策するので歩くことには慣れている。さっきから、ちょこちょこと水分補給もしていた。
「でも、念のため、休んだ方がいいな」
怜が言うと、
「加藤くんも大丈夫で、みんなも大丈夫だって言ってるんだから大丈夫でしょ。ほら、他の班から遅れちゃうから、行こうよ」
紬が答える。
「他の班から遅れることが何だっていうんだよ。そんなことより、安全に登ることの方が大事だろ」
怜はそこまで言ってみた。
ここまで言ったのは、まがりなりにも「友人」である紬に対しての好意である。
しかし、彼女はきょとんとした顔をした。怜の言ったことが納得できないようであり、そうしていると、他の男子の班員から不審の声が上がった。紬はそれに応える格好で、再び班の先頭に立った。
やれやれと思った怜だったが、やむを得ずそのまま歩いていると、それから、少しした頃のことである。
怜のすぐ前を歩いている女の子がふらりとして、地面に膝をついた。
「芦谷!」
怜は声を大きくして、先頭を歩いている少女を止めた。
怜はすぐにリュックから新しいペットボトルを取り出してキャップを空けると、膝をついた彼女に手渡した。彼女は躊躇せずボトルに口をつけて飲んだ。
「日かげに入った方がいい」
怜が言うと、女子二人が隣から彼女を支えて、山道の脇の木陰に入った。言わないことじゃない、と思ったけれど、それを言っても仕方が無いことなので、その代わりに、怜は先生の姿を探した。そうして、首尾よく見つけると、事情を話した。
帽子もかぶっていなかったその子は、そのせいか別の原因か知らないが、ちょっとした熱射病のようになっていたらしい。彼女は大事をとってそこで休んでから、先生に連れられて下山することになった。
「わたしもついていきます」
紬がすばやく言った。
「芦谷さんはいいから。さ、みんな、頂上を目指して」
しかし、紬は動こうとしない。
怜は、皆の発言を待ったけれど、誰も声をかけようとしないので、やむを得ず、
「お前がここにいても何の役にも立たない。かえって、先生が面倒を見なくちゃいけない人間が二人になって、迷惑だろ。それに、班長が動かないと班員が動けない」
言ってやると、紬はキッとした目を向けてきた。
どうやら怒りを覚えたようである。
世に言う、逆ギレというヤツだが、怜は彼女の感情の所在に頓着しなかった。
「班長がダメなら、副班長の出番だろう。指示をしてくれ、副班長」
怜が副班長の女子に言うと、彼女は、先生に指示されたこともあってか紬に先に進むように促した。
紬は悲しそうな顔をしながらも、とぼとぼと歩き出した。
そうして、山頂に至って、お昼ご飯の時間になったけれど、紬はずっと沈んだままだった。自分のせいで、彼女が熱射病にかかったとでも思っているのだろう。まさかそんなことはないだろうし、仮にそうだったとしたら、そうならないように怜が忠告したわけだから、自業自得である。
お昼ご飯が終わると、ゲームの時間になったが、紬は木陰に座って参加しなかった。
怜は紬以外に話す人もおらず、とはいえ、ゲームにも特に参加したくないので、やはり一人で木陰に座っていた。
そうして、下山ということになった。
その間、紬は誰とも一言も話さなかった。
麓に戻ると、倒れた彼女がパーティを待っていた。紬は、彼女に駆け寄ると、「ごめんね」と声をかけた。彼女は、大げさに手を振って、紬のせいではないと答えているようだった。
一見して美しい情景だったけれど、怜は、人間関係というものに何かしらダメージがあった場合に謝罪すれば済むものであるとは、基本的に考えていなかった。他人との仲を何か間違えたとしても謝れば大丈夫という考え方は人を卑しくする。
バスが学校に着いて、それぞれが帰路を取ったときに、紬が逆ギレした件を謝ってきたけれど、怜はそれを受け入れた振りをせずに、一度だけのつもりで自分の考えを述べた。
紬はショックを受けた顔をした。
「それじゃあ、許してもらえないの?」
「その許すとか、許さないとか、そういうことに対してもうちょっと敏感になった方がいい」
「言ってることが分からないよ」
なら、それ以上説明する義理を怜は感じなかった。歩き出すと、
「許してもらえるまで、離れないから」
そう言って、ずっとついてくるような様子を見せるので、怜は、すぐに許した。
「……もう怒ってない?」
「別にもとから怒ってない」
「本当?」
「ああ」
「よかったあ」
紬は、肩から力を抜くようにして、微笑んだ。
「せっかく加藤くんと友達になれたのに、こんなんで終わったら、嫌だもん」
「何にでも終わりはある」
「そんな悲しいこと言わないでよ」
悲しいことではない。これは事実である。終わりがあるからこそ、今を楽しむのではないか。そういうことが怜には分かるが紬には分からないようである。逆に怜が分からないことを彼女が知っている可能性もあるわけで、だから友達として付き合う意味がある、というような功利的な考え方を怜は好まない。そんなものは友人の名に値しないだろう。
友達を増やすこともなく、友達同士の絆を強めることもなく、ただ疲れただけの一日である。怜は家に帰ると、せめてはシャワーでも浴びてすっきりしようと思ったが、妹が先に入っているようだった。




