小学四年生、今より神に近かったころ ~友達の要不要~
怜は、学校に友達というものを持たない。
学校で少し会話をする人はいるが、それが友達といえるかどうかは知らない。怜はそれで全く問題は無いのだが、母などはその件で心配の言葉を出すこともあるし、一歳年下の妹などは、
「お兄ちゃんってホントに友達いないよね。人としてどーかと思うよ、それは」
などとまともに兄の人格の批判をしてくるほどである。
そう言われても、必要だと思わないものはどうしようもない。それに、学校内で使われている「友達」という言葉には、ある種の契約関係や上下関係があるように思われてならない。二人の関係を純粋に楽しんでいるというよりは、何かしらのイベントがあるときに一緒にいる約束をするためだったり、寄らば大樹の陰、その庇護下に入ることにより自分への何かしらの風当たりを避けたりするためのものではないだろうか、と思う。怜は、特にイベント時に誰かと回りたいとも思わなければ、風当たりというものがあるとして、勝手に当ててくればよいと思っていた。
とはいえ、それは孤高を気取っているわけでは全然無い。気の置けない友がいれば、それに越したことはない。しかし、気の置けないというのは、そこにいても気にしないでいられて、それでいて二人でいる方が一人でいるよりも愉快であるということだろう。そんな関係があり得るのかと思えば、それはなかなか難しいような気がする。ただし、難しいからこそやる価値があるのだと思えば、それはその通りであろう。
「加藤くんって、いつも一人だね」
芦谷紬が、前の男子の席に勝手に座って、こちらを見ている。
怜は、読んでいた本から、顔を上げて、礼儀正しさを見せた。そうして、人が本を読んでいるときは、まず一声かけてから話し出すべきだという礼儀作法を誰か彼女に教えてくれる人はいなかったのだろうかと思ったが、もちろん、口には出さなかった。
「それ、なに読んでるの?」
紬は、興味ありげな顔で尋ねた。
怜は、読んでいた百人一首の解説の本を彼女に手渡した。
「うっわ、こういうの読むの? 加藤くんって、和歌好きなの?」
紬は、ぱらぱらと本をめくると、怜に返した。
怜は特別和歌が好きということはないけれど、和歌に使われている古語の響きが美しいところが好きなんだと答えた。それより何より、これは祖父からの宿題だった。高校の教師をしていた祖父は、勉強をしろというようなことは一度も言ったことはないが、昔から折に触れて、宿題ということで、名文や名歌の暗唱を怜に課していた。
「ふーん、こういう本を読んでいた方が、人と付き合うよりいいの?」
怜は、別に、人との付き合いを避けるために本を読んでいるわけではないので、その問いには意味が無い。
「和歌より美しい人がいたら、こちらから付き合いをお願いするよ」
怜が言うと、紬は、おもむろに、自分の顔に向かって人差し指を向けた。
芸術的な三つ編みが頬のそばを通っているその顔は、大きな瞳、通った鼻筋、引きしまった唇など、小作りに整っている。
怜は、祖母から、女の子に対する礼儀正しさを教え込まれてきたので、こういう無茶ぶりにも落ち着いたものである。
「じゃあ、付き合いをお願いしようかな」
怜がそっと手を差し出すと、かえって紬は慌てたようである。
彼女が、差し出された手をどうしようか、しばしためらっているうちに、
「おー、加藤が、芦谷に告白してる!」
通りがかった男子が大きな声を上げた。
その声に応じて、昼休みを思い思いに楽しんでいた教室中の視線が向けられる。
怜は、宙に浮いたままの手を元に戻した。
「ば、バカ! そんなんじゃないわよ!」
紬は立ちあがると、頬を赤く染めて、その男子に向かった。
「じゃあ、なんで加藤は手なんか差し出してたんだよ。告白だ、告白だ!」
会場は一斉に告白音頭に包まれた。
紬は、声を大きくして否定したが、一人の声の大きさでは数人の声には勝てない道理である。怜は少し待ってから、その声が落ち着いたところに、おもむろに立ち上がると、
「友達になってもらいたいって言っただけだ」
と静かに言うと、
「友達からお願いしますってことだなー!」
と、火に油を注ぐような格好になってしまった。
これはもうこれ以上付き合ってもしようがないと思った怜は、話すのをやめた。図書館にでも避難するのが吉だが、紬を置いてはいけない。置いていけなければ連れて行けばいいかもしれないが、それこそ、彼らの興奮の火をあおることになるだろうと思えば、軽はずみを悔いるほかない。
紬は、自分の席に戻った。その男子は、紬を追いかけるようにする。
結局大合唱は、昼休みが終わるまで続いた。
小学校というのは、なかなか興味深い場所である。自分の想像以上のことが起こる。とはいえ、特に好ましいことが起こるわけではないので、それが良いとも思えないのだった。
五時限目の体育の時間になって校庭に出ようとすると、まだ梅雨にならない空の下をそっと紬が寄って来ると、
「さっきはごめんね」
と言って、申し訳なさそうな顔をしている。
「別に芦谷が悪いわけじゃないし、オレは何も気にしてない」
そういうと、彼女はホッとしたような顔をして、すぐに離れた。
「友達」がいないと、たとえば、今のこの体育の時間、二人で組んで準備運動をしないといけないときに不便である。いちいち相手を探さなければいけない。しかし、その程度の不都合に過ぎないとも言える。
無事に五時限目を終えて、放課後になると、三々五々連れ立って帰る生徒の中を、怜も家に向かって帰った。校門を出たところで、
「加藤くん!」
後ろからかけられる声に振り向くと、紬が頬を上気させていた。
「よし、行こう!」
と言われてもどこに行く気なのか分からない。
「今日は別れ道までね」
紬が何かを警戒するような目である。
どうやら途中まで一緒に帰ろう、というお誘いらしい。
「またからかわれるんじゃないか?」
「気にしない……ことにしたよ」
そう言うと、紬は白い歯をのぞかせて笑って、
「わたし、加藤くんの友達になることにしました!」
晴れやかに宣言した。そのあと、
「迷惑かな?」
心配そうな顔をしたので、そんなことないよ、と怜は彼女の懸念を否定したあと、
「よろしく」
と答えて、紬をホッとさせて、
「ところで、友達ってどういうものなんだ?」
訊いた。
「え、分からないの?」
紬はまともに驚いたような顔をした。
「いたことないからな」
「学校で話したり、一緒に遊んだり……とにかく仲良くするわけ」
「なるほど。学校で話すのはクリアしたとしても、一緒に遊ぶのはどうする?」
「え、え……?」
「そうしないと友達と言えないなら、一緒に遊ばないといけないだろ」
紬は歩きながら、考え込んだようである。
「……うちでゲームでもする?」
「あんまりやらないから足を引っ張るかもしれない」
「大丈夫。対戦ゲームだから。足を引っ張ってもらった方がわたしにとってはいいよ」
「なるほど」
「来る?」
「いや、やめておくよ」
「ええっ!?」
紬が心底から驚いたような顔をするのに、怜は微笑した。
「ゲームは好きじゃないんだ」
「よくないよ、そういうの。気を持たせるような言い方して」
「そんな言い方してたか?」
「してました」
「じゃあ、謝るよ」
「許してあげる、友達だから」
紬はそう言うと、にっこりとした。
別れ道にさしかかっていた。
「じゃあ、ここで」
怜は足を止めた。
しかし、紬は立ち去ろうとしない。
「もうちょっと加藤くんと話したい気もしないでもない」
随分と婉曲な表現である。
そのやまとなでしこ的な言葉を聞いた怜は、じゃあ、ということで、帰路を紬の家の方へと取ることにした。
「いいよ、いいよ、わたしが加藤くんの家の方から帰るから」
「気にするな。オレは気にしない」
「……ホント、変わっているよね、加藤くんは」
「衆人皆酔い、我独り醒めたり」
「え?」
「いや、何でもない」
自分が言うことが人にうまく伝わるとしたら、それはそれで面白いことかもしれないと、怜は思った。しかし、それはそれだけのことでもある。自分の思い通りに他人に行動してほしいなどという、希望というよりは妄想を抱いたことなど、怜にはほとんどない。もちろん、例えば、掃除の時間などに掃除をしてくれないクラスメートに対して、ちゃんと掃除をしてくれたら、と思うけれども、思うだけで腹を立てたりはしない。
「加藤くんって、何かやってる?」
「芦谷と話してる」
「そうじゃなくて、もおっ、からかってるの? 習い事とかだよ」
「剣道をやってる。一年のときから」
「へえ、面白い?」
「いや、特別には。親が強制するからやってるだけだよ、運動にはなる」
怜はそれほど運動神経がいいわけではない。わけではないが、鍛練とは恐ろしいもので、三年間もやっていると、それなりの動きができるようになってくる。
「芦谷は?」
「わたしは、水泳とピアノ、あと、塾に通ってるよ」
「色々やってるんだな」
「色々やった方が面白いでしょう。自分が何ができるか、分かるもん」
そう言って屈託のない顔をする彼女の明るさが、怜には眩しい気がした。
しかし、特別羨ましいわけでもない。
彼女は彼女であり、自分は自分であるということを認めることが、人が生きるための基本的な条件であることを、怜はすでに知っていたし、おそらくは誰もが知っていることであるに違いない、と怜は思ってもいた。ただ、知ってはいても、自分が知っていることに気がついていないことはあるかもしれない。
紬は、それから、習い事の話を始めた。
怜は、相槌を打ちながら、それを聞いていた。
もう少しで彼女の家に着く、というところになって、ハッとしたような顔をした彼女は、
「ごめん、わたしだけしゃべってるね」
そう言って、申し訳なさそうな顔をした。
怜は特別話したいことがあったわけでもないので、彼女の話を聞き続けることは苦ではなかったが、特に話したいことがないと言うことが彼女にとって失礼であるということは分かっていたので、そんな風には言わなかった。
「じゃあ、ここで」
彼女の家のすぐそばで、怜は、そう言った。
「お母さんに家まで送ってもらうように頼もうか?」
「いや、大丈夫。それにオレたち『友達』だろ、そんなに気を使わなくていい」
「『友達』ってそういうんじゃないよ」
「じゃあ、また、今度教えてもらうよ」
そう言って、怜は、きびすを返した。




