小学四年生、今より神に近かったころ ~食べられない給食~
食べ物には感謝をしなければいけない。
目前に並んだ料理を見たときに、少し想像力を働かせれば、その料理を作るためにどれほどの工程が必要か――材料になる動植物を育てるところから始まって、それを流通させて、流通したものが買われて、買ったものを誰かが調理してくれたからこそ食べられるわけで――容易に理解できる。その工程のめくるめく長さを思えば、自然に手を合わせたくなることだろう。
加えて、食べ物に感謝をせず、粗末にするということは、命を侮辱することと同義であって、それはそれらの命によって成り立っている自分を侮辱するということにもなる。
怜はこれを祖母から教わった。祖父母の家に行くと、祖母から必ず言われることだった。それも、優しく説くような言い方ではなく、厳しく言い聞かせるような言い方でである。もっと幼いころはその言い方に威圧感を覚えたけれど、この頃では、そういう言い方が必要なのだと思うようになった。厳しい事実というのは、厳しく告げられるのが適当である。祖母自体は威圧的な人ではない。
しかし、同時に、
「食べられないものを無理に食べる必要はありませんよ」
と言って、苦手なものや嫌いなものを、無理強いするようなことはしなかった。
「何でも美味しく食べるなどということは、誰とでも仲良く付き合うということと同じだ。それはまず不可能だろうなあ」
これは祖父の言葉だった。
怜はそれほど嫌いなものはないけれど、やはりできればあまり食べたくないものというのがあって、家ではそういうものも栄養論を振りかざされて食べさせられるが――これは、ひそかに、子どもの栄養を考えているというよりは家計を考慮しているからではないか、と怜は疑っていた――外では、自分の好みに素直に従っていた。
怜は、学校給食を美味しいと思ったことがない。食事に対して、美味いまずいを言うことに対する卑しさというものを、怜は感じない。美味い物は美味いし、まずいものはまずい。そういうところをいい加減にすることは、どこかおかしいと考えていた。なので、あまり学校の給食は食べたいとは思わないし、
「おい、三原、給食、残すなよな」
他人に対してそういう強制を行おうとしたことも、もちろんない。
初夏のある日、小学四年生の教室の一角、みなほとんど食べ終わっている中で、一人食べきっていない男の子がいて、一つの椀の中にそっくりと、配膳係が配膳してくれたままの状態で残されていた。
三原くんは、何事かぼそぼそと抗弁したようだけれど、それは聞き入れられなかった。
「給食残すなんてもったいないだろう」
一人の男子が声を大きくすると、それに便乗したかのように別の女子が言った。
「そうよ、給食残すのはいけないことなんだよ」
それに対して、さらに三原くんは何事か言ったようでもある。
「食べたくないなんてダメでしょう。みんな食べているんだから、三原くんだけ特別扱いなんて」
便乗する輪ができて、ほとんど三原君を取り囲むような状態になった。
怜は、すっと席を立ち上がると、三原君の机に行って、彼が残している椀を手に取った。
みな、呆気にとられたような顔で、闖入者を見つめた。
怜は、
「食べないんだろう?」
そう三原くんに念を押して、うなずきを得ると、背を見せて、配膳台の元へと行き、そのおかずが入っていた大きな缶が空になっているところに、三原くんの椀の中身を戻した。
「だ、ダメなんだよ、そんなことしちゃ!」
怜が椀を戻して帰ってくると、女子が声を大きくした。
周囲からも不満の声が漏れている。
「食べられないなら、残すしかないだろう」
怜はそう言って机についた。
これは大したセンセーションを巻き起こした。
給食の時間が終わっても騒ぎは収まらず、それどころか、担任に告げ口をした者があらわれたせいで、給食後の五時間目は、急遽、この件に関するクラスミーティングの時間に当てられてしまった。
教師が頭ごなしをしないだけいいとも思われるかもしれないが、これは、実質的には議論の場ではなく、断罪の場であった。意見は、三原くんと怜の食べ物に関する非道を訴える声に終始した。
曰く、「食べ物には感謝しないといけない」。
曰く、「苦手なものから逃げちゃいけない」。
曰く、「食べられない国の人のことも考えなくちゃいけない」。
怜は、不快そのものだった。
意見を述べる人間は、誰一人、嫌いなものがあって、それが食べられないということに関しての想像力を持っていなかった。食べないことは悪という、それを前提にして物を言えば、正義の味方を気取れるというそのことである。
向こう側の意見が出し尽くされたあとに、怜に意見が求められた。
怜は、意見なんて言いたくなかった。
というのも、意見など持っていなかったからである。
意見というのは、個人の見解である。考えを突きつめていけば、それは確実に個を超えるのであり、とすれば、意見などというものは、まだ考え尽くされていない中途半端なものに過ぎない。
だから、こういうたとえ話をしてあげることにした。
「たとえば、全然やりたくないことがあるとします。バンジージャンプとか。自分は全然やりたくないのに、人に強制されたとする。そうすると、どういう気持ちになる? しかも、その強制してくる人は、どうやってバンジージャンプに向かえばいいか教えてもくれない。ただ飛べばいい、と言ってくる」
議長役の女の子は、「それ、どういう関係があるんですか?」と訊いてきた。
怜はそれには答えず、大事なことだから答えてほしい、と言い返した。
「わたしが?」
「別に誰でもいい」
議長の女の子は、みんなを代表して、
「わたしだったら、何でそんなことしなきゃならないの、っていう気持ちになります」
そう言った。
「やりたくもないし、できないことを、ただやれって強制されたら、誰だって嫌な気持ちになる」
「そうですね……で、それがどうしたんですか?」
「食べたくもないし、食べられないものを、ただ食べろって強制されることも、それと同じだろう」
そう言うと、怜は、腰を下ろした。
それに関しては、それは、話は違うと反対意見が上がった。食べ物は食べられないものじゃない。食べたって、アレルギーが無い限り、死ぬわけじゃない。
「バンジージャンプだって、死ぬわけじゃない」
怜は再び席を立った。
「自分が嫌なことでもやらなければいけないことは確かにある。例えば、授業中に自分は騒ぎたいと思っても、静かにしなければいけない。それは他人の迷惑になるからだ。でも、嫌いなものを食べなくても誰かに迷惑がかかるわけじゃない」
さらに続けた。
「たとえ迷惑がかかることじゃなかったとしても、その人にとって命に関わるようなことだったら、強制してもいいと思う。たとえば、子どもがお酒を飲んではいけないのは命に関わるからだ。でも、給食のさっきのおかずを食べないようなことが命に関わるとは、少なくともオレには思えない」
そう言うと、怜は席に座って、それ以上は口を開かなかった。
言うべきことは全て言った。
それを皆がどう思うかなんてことは怜の興味の外だった。
皆がどう思うか、納得してくれるか反対するか、そんなことはどうでもいいことである。
怜はただ為すべきを為しただけだった。
しかし、大勢は翻らなかった。
結局、「三原くんは食べるべきだ」という結論でケリがつきかけた。
しかし、そのとき、三原くんが立ち上がって、食べたくない、とはっきりと言った。そうして、家で食べられるように再三努力をしたこと、でもどうしても食べられなかったということをクラスに訴えた。
それでもなお努力すべきだという意見があらわれたが、その意見はあまり強くならなかった。
結論として、三原くんは、「できるだけ食べるようにする」というところに落ち着いた。どうやって「できるだけ食べるようにする」のか、怜はそこまでは聞いていなかった。
それから、怜に対しては、給食を捨てた罰として、教室のガラス拭きが命じられた。怜は異議を唱えなかった。教室のガラス拭きなど、気づいたら自分からやってもいいくらいの作業であり、罰でも何でもない。一人残された教室内でガラスを拭いていると、
「三原くんも帰ったよ」
と女の子の声がしたが、振り返らずに拭き続けたところ、隣に立つ影があって、その子も教室の窓を雑巾でもって拭き始めた。議長役を務めていた女なの子である。芦谷紬は、
「薄情だよね、三原くん。加藤くんは三原くんのためにやったのにさあ」
そう言って、怒りの声を上げたが、怜は、
「別に三原のためにやったわけじゃない」
そう答えて、雑巾をしぼり直した。
「じゃあ、どうしてあんなことしたの?」
「するべきだと思ったからしただけだ」
「分からないな。三原くんが可哀想だと思ったからしたんじゃないの?」
「別にそんなことは思ってない」
怜は、別の窓へと移った。
基準は自分の中にある。
怜はその基準に従って行動しているに過ぎない。
「もし三原くんじゃなくて、わたしでも助けてくれた?」
「何のことだよ?」
「だからあ、給食残したのが三原くんじゃなくてわたしだったとしても、加藤くんは同じふうにしてくれたの?」
「そんな仮定、無意味だろ。芦谷は給食を残さない」
「うー……それはそうだけどさあ」
怜は、イマイチ汚れが落ちないガラスを見ながら、ガラスを拭くためのスプレーがないか、教師に訊いてみようかと思ったが、折悪しく、あるいは折良く、担任教師が現れて、もうそこまででいい、と罰の終わりを告げられた。
怜は、不満を残しながらも、続行を申し出るだけの掃除好きではないので、素直にそれに従って、清掃具を片付けることにした。それから、ランドセルを背にして、廊下に出た。
「あ、ちょっと待ってよ、加藤くん。一緒に帰ろう」
紬が隣に来て言う。
「どうして?」
「この前の借りを返すんだよ」
「この前の借り?」
何も貸した覚えが無い怜が、首を傾げると、
「わたしの家の方まで来てくれたでしょ。だから、今度はわたしが加藤くんの家の方まで行くから」
そういえば、少し前にそんなことをした気がする。
怜は断ったけれど、紬は頑として譲らない。
やむを得ず、彼女の好きにさせた。
夏の日はまだはるかに高いことでもある。




