小学四年生、今より神に近かったころ ~清掃時の戦争~
「ちょっと、男子! ちゃんと掃除してよ!」
怒号に耐えるように、怜は軽く目をつむった。
小学校の教室、授業終わりの清掃の時間である。
初夏の日が、思うさま差し染める空間には、塵がふわふわと浮いているのが見えた。
怜は、箒で教室を掃き続けた。
さっきからそうしているように。
「男子がちゃんとやってくれないから、いつも女子が余計に掃除しなくちゃいけないんだよ!」
怜も男子であり、彼はちゃんと清掃をしているので、その批難の怒鳴り声は彼以外に向けられているはずである。そのハズなのに、どうして自分も怒声を聞かなければいけないのか、理不尽である。
「うるせーな、ヒステリー女」
言われた男子が言い返すと、言った女子はヒートアップした。
「何よっ! じゃあ、ちゃんとやりなさいよっ!」
「掃除なんてやりたいやつがやればいいだろ」
怜は彼らの方を見ていないのではっきりとは分からないが、おそらくは、女の子の方が男の子へと詰め寄っているのだろう。それはもう額と額をつけんばかりに睨み合っているに違いない。
「先生に言いつけるからね、沢田っ!」
「加藤」じゃなくて本当に良かったと、怜は思った。加藤は怜の名字である。
怜は、ひたすら箒を使い続けた。一か所に集めたゴミを、ちりとりに入れたりする。ちりとりに入れたゴミを、ゴミ箱へと持っていく時に、視界に、一人の少女と一人の少年が睨み合っているのを見てしまった。見たくもないものを。その二人の周りに、男子が一人と女子が二人集まっている。
「言いつけたければ言いつければいいだろー」
沢田くんに悪乗りして、そーだそーだ、と別の男子がはやし立てる。
「本当に言いつけるからね!」
怜は、また箒を使い始めた。
言いつけるでも言いつけないでもどうでもいいけれど、やらない子は放っておいて、やる気がある子だけでも、とにかく手を貸して欲しかった。三十人を収容する教室を、一人で掃除するのでは、とても間に合わない。とはいえ、怜は悲観していない。そろそろ、男子女子間の抗争が終わるに違いない。そうして、女子の方が協力してくれるハズである。いつもそうなのだ。しかし、
「沢田たちがやらないなら、わたしたちも掃除しないから!」
とんでもないことが言い出されたので、怜は、思わず、振り返ってしまった。
栗色の髪を腰まで長く伸ばして、その一部で、三つ編みを作っている少女が、大きめの瞳をギラギラさせている。周囲にいる少女二人が、そうよそうよ、と口々に言っていた。
腹にすえかねた上でのことかもしれないけれど、そんなことをされたらうまくない。うまくないのだけれど、よくよくと考えるまでもなく、怜ができることは一つしかない。すなわち、教室を掃き、一方に寄せておいた机をもう一度定位置に戻すこと。
怜は、これから起こるいざこざを覚悟して、机を元の位置に一つずつ戻し始めた。
「加藤くんはやってるのに、どうして、沢田と南は、やらないの!?」
それを言うなら、そう言っている君自身もだ、と怜は思ったけれど、何も言わずに机を運び続けた。一つ、また一つ。そうして、五つくらい運んだところで、
「加藤くん、ちょっとストップ」
そう言われたけれど、怜は無視した。自分がストップしたら、誰がやると言うのか。
「ちょっとやめてって言っているでしょ、加藤くん」
芦谷紬は、怜が運んでいるところに立ちふさがった。
そうまでされては止まらざるを得ない。
怜は止まって、机を床に下ろした。
「加藤くんからもあの二人の男子に言ってよ」
「何を?」
「掃除するようによ」
怜はちらりと二人の男子の方を向いた。
にやにやとして、不敵である。
何かを言っても耳を貸すような顔ではない。
「あの二人が掃除をしないのが気に入らないのか?」
怜は言った。
「当たり前でしょ!」
「オレは気にしない」
怜はそう言って、別の机を運び出した。
紬は、すぐに怜のところにやってきて、また机を運ぶのを邪魔してきた。
怜は、ふう、と息をついた。
そうして、紬を見る。
「何で気にしないのよ?」
「他人が掃除をするかどうかと、オレがするかどうかというのは、別の問題だろう」
「だって、そんなの不公平じゃんか!」
怜は、どうして、そんなに公平とか不公平とかということが気になるのか、前から不思議だった。人がそれを気にするのは、それによって自分が損をしていると思うからだろう。怜は、別に損をしているとは思っていなかった。自分一人だと大変だとは思うし、みなでやれば早いとは思うけれど、だからといって掃除をしない人間が不当に儲けているなどとは思ったこともない。
目前の少女に対して、怜は言うべき言葉を持たなかった。そもそも他人を説得するための言辞など、持ち合わせていない。そういう必要性を感じなかったからだ。さて、どうしようか、と思った時に、折よく、担任の男性教諭が現れて、
「なぜ終わっていないんだっ!」
と頭ごなしに言い、何だかよく分からないうちに連帯責任を取らされて、叱られた。それだけではなく、掃除の時間が終わって、「帰りの会」の時間になると、掃除をしっかりと行うことが、小学校生活を送る上でいかに重要なものなのかということについて、ありがたい訓戒をいただくことになった。
ようやく解放された怜が、やれやれ散々な目に遭った、とクラスを出て、生徒用玄関から学校の門へと向かって歩いたときのことである。
「加藤くん!」
後ろから聞き覚えのある声がして、隣に、芦谷紬が現れたではないか。
怜は、立ち止まった。
「何で止まるの?」
「歩いてもいいのか?」
「いいよ、歩きながらで。話があるの」
「オレに?」
「うん」
怜は、紬が帰る方向を聞いた。
彼女は、初め不思議そうな顔をしていたが、怜の意図に気がついたようで、慌てて手を振ると、
「いいよいいよ、わたしが加藤くんに合わせるから」
言った。
「で、どっちなの?」と怜。
「こっちだけど」
「じゃあ、同じだ」
そう言って怜は歩き出した。
紬が、隣に並ぶ。
「掃除のことなんだけどさ」
「掃除?」
「そう、男子がサボってるでしょ」
怜は、軽くうんざりした。
掃除に関しては、所見は述べたし、先生からの指導も受けた。
この上、さらにまだ話し足りないことがあるとは。
おそらく彼女の人生にとって、教室清掃というのは、特別な価値を持っているのだろう。
「なんで加藤くんはあんなに平気なのかなって。他の男子がやってなくても。もしかして、いじめられたりしてるの?」
怜は目まいを覚えた。
何でまたそんな話になるのか、彼女の思考回路は複雑怪奇で、とてもついていけない。
「いや、そういうことはないよ」
「でもさ、『やりたいやつにやらせればいいじゃん』とか、沢田は言ってるじゃん。で、加藤くんだって、掃除はやりたくないでしょ?」
「なんで?」
「え、なんでって、教室の掃除なんて普通やりたくないじゃん」
「芦谷はやりたくないのか?」
「うん、仕方なくやってるだけだよ」
「オレは別に掃除についてはやりたいもやりたくないもない。だから、他人がやるかどうかなんてことは、全然気にならない」
「無理してるでしょ?」
「なんだって?」
「カッコつけてる」
怜は、クラスメートである彼女に元から興味がなかったけれど、この決め付けをもっていよいよ興味をなくした。
自分の理解の及ばないことに対して、自分なりに理解しようとすると、生じるのは誤解のみである。分からないことの前で人は謙虚にならなければいけない。これは祖父の教えだった。
「謙虚というのはな、怜、分からないというそのことを認めるということだ」
祖父の声が耳にこだました。
「怜、女の子に対しては常に礼儀正しくなさい」
これは、祖母の声である。
怜は、祖母の声に従って、紬に対して声高に言いかえしたりするような無礼を避けた。その代わりに、
「どうして沢田が騒ぐのか分からないのか?」
言うと、紬は、さも当然であるような顔で、
「やりたくないからでしょ、掃除」
答えた。
「そうじゃない」
「じゃあ、どうして?」
紬が小首を傾げた。
「芦谷たち女子に構って欲しいからだろ」
「えっ? そうなの?」
「そうだよ。じゃなきゃ、騒ぐ意味がない」
「楽しいからしているんだと思ってた」
「構えば構うほど、沢田たちは楽しくなって、掃除なんかしない」
その分、怜の作業量は増える。
「じゃあ、構わなきゃいいってこと?」
「さあな」
「なによ」
「なにが?」
「はっきりしないなあと思って、男子のくせに」
女子のくせに淑美のかけらもない自分自身はどうなんだ、と怜はもちろんそんなことは言い返さなかった。ただ、彼女の言葉を受け止めただけである。
「でもさあ、構わないで無視するっていうのはさ……なんか嫌なんだよね、そういうの」
それは個人の信条であるので、勝手にしてもらえればいい。
「ところで、あともうちょっとでわたしの家なんだけど、加藤くんの家ってどの辺なの? この近くだなんて知らなかったなあ」
「近くとは言ってない」
「え?」
怜は住所を告げた。
「なにそれ、全然反対方向じゃんか」
「話が終わってるなら、ここで別れられるんだけど」
「わたしの家で休んでく?」
「いや、大丈夫だよ、ありがとう」
紬は、きょとんとした顔をした。
「どうかしたか?」
「加藤くんも、『ありがとう』なんて言うんだ、と思って」
これは、数ある彼女の言葉の中でも、最も怜にダメージを与えた。常日頃から感謝の意を表明していたハズであるのに、それが表に現れていなかったのだろうか。
「とにかくわたしは、これからも沢田たちに注意するから」
夕闇にはまだ遠い。
紬がまだそれなりの位置にある日を見て決意を固めるのを、怜は聞き流した。
紬と別れた怜は、まだ暗くならない空の下、家路を辿りながら、疲労を覚えた。他人と話すとエネルギーを使う。エネルギーを充填してくれるような人は、今のところ、祖父母だけである。ほぼ毎日がエネルギーの消費である日々とは一体何だろうか、と怜は考えてみたが、答えは出なかった。




