中学一年生の孟秋、幸福の定義 下
翌朝、太一が登校してみると、クラスは大変な騒ぎになっていた。不幸の手紙の件である。どうやらクラスのほぼ全員に来たらしく、昨日は傍観していた者も今日は参加して、クラスが一丸となって不快の声を上げていたのだった。
「まさかクラスみんなに出すとはなあ」
話を聞くと、筆跡はやはり同じらしい。手間ひまにお金だって大変だろう。太一は、手紙を出した彼、もしくは彼女に対してある種、畏敬の念を持った。
みな、どのような人間がこんなことをしたのか、という犯人の特定に話題を集中させていたが、太一はその話し合いには加わらず、怜に話しかけた。そうして、昨日の彼の言葉について問い質した。
しかし、
「そんなこと言ったか?」
返って来たのは、不審の声である。
「言ったよ。覚えてないのか?」
「出した方が不幸になるって?」
「そうだよ」
「なるほど」
「なるほどって……」
視線を下げてじっと考え込む様子は冗談をやっている風でもないが、昨日言ったことを覚えていないというのはどういうことだろう。本当だとしたら、壊滅的な記憶力の持ち主である。
――やっぱり変わったヤツだなあ……。
「昨日、川名と帰ってただろ。お前ら、付き合ってるの?」
「え、なに?」
思い出そうとしているのを待つのも面倒くさくなった太一が話を変えてみると、怜は、話題の転換に乗り遅れた戸惑いを見せた。
「いや、川名と付き合ってるのかなって。昨日、仲良さそうだったから」
「小学校が一緒だから、会えば話くらいするだろ」
「そういう程度か」
どうか分からないが、少なくとも付き合っていないということは分かって、太一はホッとした気持ちになった。環に対して気があるからというよりも、美少女がまだ付き合っていないということに対して、なんだか安心するような気持ちを覚えるのは男子の性である。
「で、本当に覚えてないのか?」
「悪いけど」
太一は拍子抜けしたような気持ちになった。せっかく怜の発言について色々と考えてみたのに、答えの無いクイズであったとは。
「じゃあさ――」
昨日の話を思い出す格好ではなくて、改めて不幸の手紙について尋ねようとしたときに、担任が来てしまった。太一はやむなく席に着いた。
初老の男性教諭は、礼のあと、開口一番不幸の手紙の話を始めた。どうやら他のクラスにも被害が出ているらしく、朝の職員ミーティングで問題になったようである。
この日は、一時間目をつぶして、不幸の手紙に関して緊急のクラスミーティングを行うことになった。話し合いである。話し合えと言われても、担任は何に関して話し合えと指示するでもないので、何を話し合えばいいのか分からないが、そこは司会役のクラス委員長の女子が、不幸の手紙の処理方法という、実際的な問題を議論の俎上に乗せた。
不幸の手紙などというのは、子どものいたずらレベルのくだらないものだから、
「即刻、破り捨てればいい」
という勇ましい意見が大勢を占めたが、さて、その主張に賛同するクラスメート達が本当にそうするのかどうか、太一は疑問を持っていた。一人二人は、実際にやるかもしれないが、その他は、二の足を踏むだろう。だからこそ問題になるのである。ほとんどの人間が、
「破り捨てればいいじゃないか、ビリビリッ」
といけるのであれば、こんな話し合いの機会が設けられるほどに問題視されるわけがない。
ただし、太一はそうするつもりでいた。ビリビリはしなくとも、ポイっとゴミ箱へ、もしも今していいのなら、今すぐ教室のゴミ箱に投げ入れるつもりだった。本当は昨日の時点で、家に帰ったあとに処理するつもりだったのだけれど、怜の不思議な発言に気を取られて、すっかり忘れていたのである。不幸の手紙は、いまだ肩かけカバンの中にあった。
話は徐々に処理方法の件から、不幸の手紙を気にしなくて良い理由の件へと移っていた。破り捨てて一顧だにしない、もちろん他人に不幸の手紙を出したりしない、という実際的な処理、それを行うための動機付けの理論構成である。
「人の不幸を願う人は不幸です。不幸の手紙を出すと、そのことによって逆に出したその人が不幸になると思います」
自分と同じことを考える子がいるんだなあ、と太一は、感心した。その意見には、なるほど、といううなずきがちらほらと上がったが、大してクラスメートの心を打ったようでもなかった。
ちらりと斜め前の席に目を向けると、怜が、真面目に前を見ているのが見えた。発言はしていなかったが、それは彼だけのことではなく、現に太一も発言していないし、クラスの8割方もそうだった。満座の前で発言するのはよほど自分の意見に自信があるか、目立ちたがりかのどちらかである。
「加藤くん、何か意見はありませんか」
クラス委員長が、怜に発言を求めた。
怜は、立ち上がった。「いえ、特にありません」
「不幸の手紙について、どう思いますか?」
「特に何も」
「何か意見を言ってください」
委員長は別に嫌がらせをしているわけではなくて、誰に対してもこんな対応である。
しばらく沈黙が落ちた。
太一は、興味深げに事態を見守った。
怜は、静かに口を開いた。
「人は、自分が他人に対して害を与えたことを知るべきでしょうか、知らないべきでしょうか」
それはいかにも唐突な話であり、委員長は面食らったような顔をした。ほとんどのクラスメートもそうである。
「……今なんて言ったんですか?」
「自分が他人に対して何か悪いことをしたとして、それにはちゃんと気がついた方がいいのか、それともそれは知らない方がいいのか、と言いました」
「……それ、わたしに聞いてるんですか?」
「委員長じゃなくてもいいです」
しんと静まった中で意見が上がらないので、委員長が代表して答えた。
「自分が他人に対して何か悪いことをしたということは、知るべきだと思いますよ。そうしたら、反省できますから」
「じゃあ、それに気がつかせてくれるのだから、不幸の手紙はいいものですね」
怜の口調は穏やかである。
「え!?」
委員長の驚きは、クラスの驚きだっただろう。少なくとも、太一の驚きではあった。
怜の言葉が滔々と続く。
「不幸の手紙が来たということは、誰かから不幸の手紙を出されるほどの恨みを買っているということを表しています。すると、受け取った人は、不幸の手紙を受け取ることによって、自分が知らないうちに、誰かの恨みを買うような行動を取っていたということに気がつくことができるわけです。気がつくことが、委員長の言う通りいいことなのだとしたら、不幸の手紙はそれに気がつかせてくれるのだから、いいものだということになります」
意見を言う前と同様、また静まり返った教室の中で、椅子を引く音がして、怜は席に座った。
太一は、心から感心した。まさか、不幸の手紙をポジティブにとらえる解釈が存在するとは思いもしなかった。
そのあと、少しして、たとえば、恨みうんぬんとは関係なく不特定多数に出されたチェーンメールのようなものはどうなるんだ、という反論が上がったが、時間終了になった。クラスミーティングはいつもの通りしっかりとした結論を得ず、なんだか曖昧な感じで終わりを告げた。
「面白かったけど、昨日言ってたこととは違うな」
昨日怜が言いかけたことはそれとは違うことだろうと太一は思っていた。先ほどの発言は、その場で無理矢理考え出したものであろう。
「悪いが、本当に覚えてない」と怜。
「ああ、いいよ、それなら」
太一は、手をにゅっと突き出した。
「レイって呼んでもいいか?」
いきなりの依頼に、しかし怜は、特に驚いたようでもなく、好きにしてくれ、と答えて、太一の手を取った。「二度目だな」
「え?」
「入学式の日にも握手を求められた」
そう言って、怜は微笑した。
そうだったかなあ、と今度は太一が思い出す番だった。
「オレのこともタイチって呼んでくれ。親友にはそう言われてるんだ」
「分かった、タイチ」
「親友」というところをもっと強調した方が良かったか、と太一は思ったが、まあいい、と思った。
さて問題は美優であったわけだが、しかし、問題ではなくなったようだ。
その日の昼休み時間、廊下に呼び出された太一は、
「わたし、人に恨まれるようなことしてるよね、絶対」
美優の神妙な声を聞いた。
「してるのか?」
「うん、多分」
美優は、何でか知らないが、男子にモテる。正確に言えば、しょうもない男子に。太一から見ればしょうもなくても、それが女子に結構人気がある男子なのだから、そういう男子にモテる美優は、かなり女子の反感を買っていることだろう。
「決めた、出さないことにする」
「へえ」
「この手紙をもらったことで、チャラにするよ」
「え?」
「わたしが他人に与えたかもしれない不幸とソウサツすることにする」
「……相殺じゃね?」
「そうとも言う」
そう言ってから、美優は、すっきりとした笑顔を見せた。人に与えたかもしれない不幸と、不幸の手紙を受け取ったことによる不快を打ち消し合わせるなんてことができるのかどうか、分からなかったが、彼女が手紙を出さないことは分かってホッとした。そうして、太一は、改めて怜に感心した。いくら言っても聞かなかった美優を納得させて翻意させるとは。これから一緒にいれば色々面白そうである。
放課後、部活が終わって帰ろうとしていたところ、川名環の姿を見かけた。校門前で、まだ色づく前の薄緑のイチョウを見上げている。まるで一幅の絵画を見ているようで、太一は思わず見惚れてしまった。
「レイを待ってたりして」
近づいて行った太一が訊くと、環は、意外な顔をした。
「違ったのか?」
「ううん、違わないよ」
「レイのこと好きなのか?」
自分の直球を太一は怪しんだ。どうしていきなりそんなことを訊いてしまったのか、自分でも分からない。
環は微笑んだだけで答えなかった。
人の好き嫌いなどという繊細な問題の答えを無理強いする気は無い太一は、そのまま通り過ぎようとしたところ、ふと怜が昨日言いかけたことを環に訊いてみる気になった。昨日二人は一緒に帰っており、もしかしたらその際に、怜が彼女にその件につき何か話していたかもしれない。
環は、何も聞いてないよ、と綺麗な声で答えたあと、がっかりする太一に、
「多分だけど、加藤くんが言いたかったのは、こういうことじゃないかな」
と始めた。
「人間にとっての一番の幸福っていうのは何だと思う? 瀬良くん」
「え? さあ」
「自由ということじゃないかな」
「ああ、まあ、そういう考えもあるな」
「不幸の手紙を出しなさいって言われて出すっていうのは、自由が束縛された行動でしょう。人の命令に無理矢理従うわけだから。だから、出したそのときにその人は自由を失って不幸になるのよ」
環は簡単に言った。
太一は絶句した。
なぜか、おそらく怜の言っていたことはそのことに違いないという気が唐突にした。
「なるほど」
太一は深く納得した。そうして、これは不幸の手紙に限った話ではないのだということが分かった。
「サンキュー、川名」
「どういたしまして」
「でも、訊いていいか。どうしてレイがそういう考えを持っているって思ったんだ?」
そのとき、環の顔が、ひときわ美しく輝いて、秋光にきらめく瞳は、少し遠くから歩いてくる少年へと向けられた。
「わたしが加藤くんだったらそう考えるから」
環の目はもう太一に戻ることは無く、太一はそっとその場から離れた。
(『中学一年生の孟秋、幸福の定義』了)




