046 前半
「おーい、櫻井はいるかー」
特別棟二階の地学室に到着するなり、赤崎先生は無遠慮な大きな声で言った。
「はーい」
髪をお団子にまとめた、小柄で可愛らしい櫻井千華先輩は、黒板脇にある地学準備室へ続く扉から、ひょっこりと顔を出した。
「赤崎先生じゃないですか。どしたんですかー?」
相変わらずのゆるふわ感のある間延びした声と共に、先輩は地学準備室から出てきた。
「実は、天文部のお前に相談があってな」
「え?相談?なんですか?」
「ほら、灰倉」
そう言って、先生は後ろに立っていた俺の襟首を持ち上げ、櫻井先輩の前に放り出した。
「え?俺が言うんですか?」
「当たり前だ。黒谷に天文部の交渉は任せろと自分で言ったんだろう?なら、お前が交渉するのが筋だろう」
くそ……。
やっぱり自分でやらなきゃダメか。
このままの流れで先生が言ってくれるものだと思っていたけど、考えが甘かった。
せっかく白川を探す時間を確保したというのに、計画が台無しだ。
こうなってしまっては、さっさと交渉を終わらせることしか、俺に望みはなかった。
ちなみに、ここに来るまでに二回ほど、赤崎先生から逃走する計画を立てていたのだが、いずれも失敗に終わっている。
一回目は賽の河原の件を訊かれてしまった後に、「ちょっとトイレに……」と言ってそのまま逃げようと一歩踏み出した矢先、赤崎先生による後頭部からのアイアンクローに捕まり、そのあまりの痛さに俺は膝をつき、敢え無く御用となった。
二回目は、連絡通路を渡った先にある男子トイレで用を足した後、先生の目を盗んで逃げる算段を立てていたが、トイレの扉を開けたら、赤崎先生が目の前に立っていた。
そんなことってある?
もしかしたら、俺のことが好きすぎて離れるのが辛くて、自分の気持ちが抑えきれず扉の前で待つというヤンデレパターンか!ーーーーーと思ったが、しかし、そんな超展開などあるはずも無かった。
「お前が私から逃げようとしているのはお見通しだ。絶対に逃がさんぞ、灰倉」
どこかのとっつあん風な台詞だった。
ヤンデレではなく、ただヤンキーに因縁をつけられただけでした。
圧倒的強者を前にして、これ以上の抵抗は無駄だと悟り、今のこの状況に至るわけだ。
「あ、あの、先日はどうも。その、先輩に頼みたいことがありまして……」
「あー!この前の天体観測の時の!えっとーーーーー灰……灰……、ごめんね、今思い出すから、ちょっと待ってね」
先輩は「うーん……」と唸りながら、顎に手を当てて考えること数秒後、俺の名前を思い出したのか、威勢良く言った。
「あっ!灰沼くんだ!」
「………」
なんか違う。
悲しい。
「……灰倉です」
「え。あー……、あはは、惜しかったね。ニアミス」
「ニアミスに惜しいという意味はないと思いますが……」
なんだろう。
先輩はバカな子なのだろうか。
「そ、それでそれで、私に頼みって何かな?」
全然誤魔化しきれてないけど、さっきまでの会話は先輩のその胸……、じゃなくて、悪意のない心に免じて無かったことにしておこう。
それから俺は、諸々の交渉を先輩に提案したところ、先輩は二つ返事で快く了承してくれた。
「クイズかー。いいね!面白そう!」
「そこでなんですけど、天文部は天体観測の展示でしたよね?具体的にはどんな感じなんですか?その内容によって、クイズの出し方も変わるかもしれないので、参考までに教えてもらえると助かるんですけど」
「え、えっと……それは……」
なぜか目を泳がす先輩。
「き、金環日食の写真とかを展示しようかなーって……」
「金環日食?」
……そんな天体イベント、この前の天体観測の時には無かったぞ。




