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「では、よろしくお願いします。失礼します」
飛び込みの営業マンさながら、丁寧な口調でセールストークを展開し、難なく交渉を終えた黒谷が、三年生の教室から戻ってきた。
「お待たせ。これで一年生と三年生にはOK貰えたから、あとは二年一組と天文部だね」
そう言って、黒谷は楽しげに笑う。
こういうイベント事に全力で取り組む姿勢は、昔から全然変わらない。
無邪気なその姿を見ると、否が応でも昔を思い出す。
全く。
変なタイミングで、嫌なことを思い出してしまった。
思い出さないようにすることは出来ても、無かったことにすることは出来ない。
傷は、いつまでも傷のまま。
あれから数年が経った今。
少なくとも、当時よりは普通に、黒谷と接することができるようになっていた。
特に何か、関係を修復するようなきっかけがあったわけではないと思うけど。
強いて言えば、中学の卒業式の日、黒谷から「また同じ学校だね。よろしくね」と言われたことくらいだろうか。
クラス替えで違うクラスになってから、頻繁に顔を合わすこともなくなって、久しぶりに話した会話がそれだった。
頭脳明晰な黒谷は、地元から少し離れた有名進学校に行くのだと思っていた。
その高校には、あの一ノ瀬先輩も進学したようだし、黒谷もそうするものだと思っていた。
だから、偏差値が普通よりもちょっと上の、この平凡な高校に進路を決めていたことに驚いた記憶がある。
まあ、その理由をわざわざ尋ねることはなかったけど。
ともあれ。
俺があれだけ辛辣なことを言ったのにも関わらず、黒谷は改めて、声をかけてくれた。
時間の経過が、そうさせたのかも知れない。
区切りという点で、卒業式の雰囲気に当てられただけかも知れない。
その行動が、そのたった一言が、今のこの距離感を作っているのだとしたら。
やっぱり、俺は到底、彼女に敵わない。
頭が上がらない。
文句を言われても、仕方がない。
だが、それは彼女にとってのきっかけであって、俺にとってのそれではない。
月日が経ってもなお、俺は未だに黒谷に対して、白でも黒でもない、灰色のまま。
どっちつかずの、微妙な感じ、なのだ。
……そういえば、結局のところ、二人の関係はどうだったのだろう。
『黒谷は一ノ瀬先輩が好きらしい』
その噂の真偽は、未だ謎のまま。
いや。
単純に、みんなは真相を知っているけど、俺だけは知らないっていうパターンも考えられる。
灰のような、モノクロの中学生活を送っていた俺は、周囲との国交を断絶し、鎖国状態だった。
そんな状態の俺に、情報が回ってくるはずもない。
もしかしたら、それはまだ現在進行形で、継続中なのかもしれないけど。
だからって、どうだってこともないけど。
真相を知る気もない俺にとっては、いずれにしろ、無駄な勘繰りだった。
無駄なことは嫌いだ。
自分が楽になる為なら、その努力も厭わないーーーーー。
そんなわけで、無闇に思考を巡らせるのはこの辺でやめにしておこう。
俺が今、優先すべきは過去を振り返ることでも、他クラスへの交渉でもない。
一刻も早く、黒谷よりも先に白川を見つけ出し、買い出しの件で口止めをすることだ。
黒谷に余計なことを報告されて、変な誤解をされても面倒だしな。
しかし、教室棟に白川の姿はなかった。
二階から四階はすでに確認済みだし、残るは一階か特別棟か、もしくはグラウンドか体育館だ。
ならば。
「なあ、ここからは二手に分かれないか?天文部には俺が交渉に行くから、お前は一組の方を頼むよ」
「え?あー、うん。別にいいけど……、んー?」
完全に不審がってるな……。
流石に提案が急過ぎたか。
「あ、いや、ほら、二手に分かれた方が早く済むだろ。それに、こう見えて、俺は天文部の先輩と顔見知りだからな。きっと、交渉だってうまくやれるはずだ」
「んー。まあ、私もそろそろ部活に行かないといけない時間だし、そういうことなら、お願いしようかな」
よし、うまくいった。
これで、黒谷が一組に交渉をしている間に、俺は白川を探すことができる。
交渉は……まあ、いいや。後回しにしてもなんとかなるだろう。
「確か、櫻井先輩だっけ?ちっちゃくて可愛い先輩。天体観測の手伝いをしたんだよね、灰倉は」
知られていた。
そんな話、俺は黒谷に一言も言ってないぞ。
「な、なんでそのことを知ってるんだ?」
「確かその日、灰倉が重そうな荷物を死にそうな顔で運んでいたのを見かけて、そのことを赤崎先生に訊いたら教えてくれたよ」
死にそうな顔って。
なんだか男として、とてつもなく格好悪いところを見られた気がする。
やっぱり、筋肉って必要なんだな……。
「いいなあ。私も天体観測したかったなあ」
「別に、そんな羨むことでもないだろう。やろうと思えば、いつだってできるわけだし」
「じゃあ今度、一緒に天体観測しようよ」
「なんでそうなる」
黒谷みたいにイベント事に目ざとい奴は、得てして行動力が凄まじい。
かたや俺みたいに動くのが面倒過ぎて、トイレに行くのも我慢してしまうような奴には、それは全く理解できない発想だった。
ちなみに、今もちょっと我慢しているのはここだけの秘密だ。
なぜ秘密にしているかは自分でもわからない。
そんな俺の尿意に気付かない黒谷は話を続ける。
「いいじゃん。やろうと思えば、いつだってできるんでしょう?」
「いや、そうは言ったけど、俺はやるなんて一言も言ってない。天体観測がしたいなら、一人でだって出来るだろう」
「えー。みんなでやるから楽しいんじゃん」
ぶすっと頰を膨らます黒谷。
相変わらずの不満げな顔。
「大勢いる方が楽しいなら、わざわざ天体観測にする必要はないんじゃないのか?カラオケとか、ボーリングとか、そっちの方が盛り上がるだろうに」
「灰倉はほんと屁理屈ばっかりだよね。素直に行きたいって言えば良いのに」
「いや、だから俺は行きたいなんて一言も言ってないから」
どちらかと言えば、今すぐトイレに行きたい。
「じゃあ、もう赤崎先生に相談……」
「それだけはやめて!お願いします、黒谷さん!」
黒谷の台詞を食い気味に遮り、出来る限り深々と頭を下げ、後頭部の上で合掌した。
それはどこからどう見ても、誰がどう見ても、みっともないお願いポーズだった。
赤崎先生の名に咄嗟に反応し、母親に小遣いをせびる時に使っている日常的な仕草が思わず出てしまった。
俺としたことが、不覚を取った。
「いや、流石にそこまでされると、私としても赤崎先生に相談しづらいわ。というか、灰倉、赤崎先生に怯えすぎじゃない?」
「あの人はな、鬼の心を持つ鬼なんだよ。例えるなら、小石を積み上げて塔を作ろうとすると、それを壊しにくる鬼みたいに厳しい人なんだよ……」
「ほう……。誰が賽の河原の鬼だって?」
一瞬にして、血の気が引いた。
生きた心地がしないとは、まさにこのことだ。
だが、幸い、俺はまだ生きている。
息をしている。
高校生としての尊厳を保つ為、溢れそうになるこの尿意を、俺は必死に堪えた。




