044 後半
パラダイムシフト。
そんな風に言えば、少しは格好がつくだろうか。
自分の価値観を否定され、自分の中で正しいとされていたものが、周囲とズレていることを認識したのだから。
そして、思い出す。
頑張っても、頑張っても。
黒谷に一度だって、勉強で勝った事がなかった自分を。
それが、現実だ。
出来る奴と、出来ない奴。
頑張っても意味がないのなら。
努力しても報われないのなら。
ーーーーー俺はもう、頑張らない。
そう決めて。
同時に、実感する。
ああ、終わったーーーーーと。
輝かしい青春が。
夢中になって、情熱を注げる、何かが。
終わった。
夢のような数ヶ月。
もう二度と、そんな日々を送ることはないのだと、悟った。
チームメイトへの暴力事件により、学校から三日間の自宅謹慎を命じられた俺は、謹慎明け早々、退部届を提出した。
別に、暴力事件を起こした責任をとって、というわけじゃない。
確かに暴力は良くなかったし、怒って手を出してしまうなんて、自分の幼稚さには反省している。
だがーーーーー自分が間違っているとは思わない。
真剣に、情熱を注いで、そして、成し遂げている奴が、ちゃんといるのだから。
それを否定する気はない。
かといって、もう一度、頑張ろうとは毛ほども思わない。
もう、何かに期待をするのはやめたのだ。
他人にも、自分にも。
世界が変わらないなら、自分が変わるしかない。
だから俺はーーーーー頑張らない。
頑張らないのは、楽だった。
頑張らなかったところで、何か問題が起きるわけではなかったから。
むしろ、のんびり出来て、楽しいと思えるくらいだった。
そもそも、ある程度物事をこなせていれば、頑張らなくたっていいんだ。
他人に迷惑をかけず、普通にしていれば、何も問題はないのだ。
そんな単純なことに、なぜ今まで気付かなかったのだろう、と。
そんな後ろ向きに、前向きな気分だった。
が。
そこで黙っていないのが黒谷理緒という女だった。
頭脳明晰、品行方正。
何か問題があれば、決して見過ごさない。
良く言えば面倒見がいい、悪く言えば、お節介。
そんな黒谷は連日、俺になぜ部活を辞めたのか、何があったのかと事情聴取を始めた。
きっと、周りから事情を訊いて、大体のことは黒谷も知っているはずだった。
それをわざわざ俺が言う必要もないし、そもそも、俺が何か言えば、大事になるのが目に見えている。
あれは小学生の頃、俺が消しゴムを無くした、と黒谷に言っただけで、なぜかクラス全員を巻き込んで消しゴムを捜索する羽目になった。
その優しさはありがたいけど、流石に引いたね。
その件もあったせいで、黒谷には不必要に心の内を明かさないようにしていた。
何度かはぐらかしていると、黒谷は諦める。
俺がこれ以上話すつもりがない、ということがわかるのだ。
不満げな顔。
いつだって俺といると、不満げな顔をする。
きっと、怒っているのだろう。
言わなくてもわかることがある。
言わなきゃわからないこともある。
でも、俺は言わない。
それを言って、彼女の輝きが、青春そのものが失われるのを、俺は見たくなかった。
それなのに。
俺は彼女を傷つけた。
言ってはいけないことを言ってしまった。
最低最悪の、言葉の暴力を。
それは中学の文化祭が迫っていたある日の放課後のこと。
黒谷に頼まれた雑用を終え、教室に差し掛かった時だった。
「理緒は灰倉くんと仲良いよね?付き合ってたりするの?」
唐突に、とんでもない会話に遭遇してしまった。
俺が廊下で足を止めてからすぐ、黒谷は言った。
「そんなわけないでしょ。灰倉は、弟みたいなものだから、そういうのはないよ」
数人の女子が「そうだよねー」と笑っていた。
「理緒は一ノ瀬先輩が……」
「ちょっと。からかうのはやめて……」
そんな会話が、教室で続いていた。
ーーーーーなんというか。
もうどうでもよかったんだと思う。
空気も読まず、お構い無しに教室へ入る。
女子たちの会話が止まったのがわかったが、気にしない。
さっさと鞄を肩にかけ、教室を出る。
誰もいない昇降口。
夏とは違い、外はすでに真っ暗になっていた。
外靴に履き替えていると、黒谷が後を追って、後ろから声をかけてきた。
「雑用、終わったみたいだね。ありがとう」
そう言って、彼女は笑う。
それに対して、俺は「ああ」とおざなりに返事を返す。
「さっき、みんなで文化祭は誰とまわるかって話をしていたんだけど、灰倉は誰かと一緒にまわったりするの?」
「別に。邪魔にならないように適当に一人で過ごすよ」
「またそんなひねくれたこと言って。せっかくのお祭りなんだし、楽しもうよ。この前の夏祭りだって誘ったのに来ないし、花火大会の時だって……」
「うるせえよ!」
思わず、怒鳴ってしまった。
思いの外、声が建物に響いてしまったことに、酷く動揺した。
部活を辞めてから、あまり大きい声を出さなかったから、音量を完全に間違えていた。
黒谷も驚いたのか、慌てたように言った。
「え……、その、ごめん。私、なにか灰倉を怒らせるような事した?」
「……気に入らないんだよ。その姉貴面が」
こんなのは、八つ当たりだった。
そんな事は、分かっている。
理解している。
でも。
言わなきゃならない。
「お前は姉貴とは違うし、頑張ったって、俺の姉貴にはなれねえんだよ!」
黒谷は目を見開いて、こちらを見る。
それにひるむ事なく、俺は続ける。
「大体、バカバカしいんだよ!文化祭だ青春だなんて、下らねえ!頑張ったって、全部無駄なんだよ!俺はもうそういうのはうんざりなんだよ!」
我ながら、無茶苦茶言っている。
怒ることに慣れていないと、こんな感じになるのか。
なんだか、みっともなかった。
「……それって、部活のことを言っているんだよね?」
本当ーーーーー察しがいい。
これだから頭の切れる奴は嫌なんだ。
「私で良ければ、灰倉が良ければ、力になるから。はぐらかさないで、ちゃんと言って」
彼女もまた、ひるむことなく、言葉に力を込めて、真っ直ぐな目をして、言った。
この期に及んで、こいつはーーーーー。
優しいだけじゃない。
面倒見がいいだけじゃない。
それをどうにか出来てしまう、強さまで兼ね備えている。
みっともない自分が嫌になる。
だから。
ーーーーーさっさと終わらせよう。
「……じゃあ、もう俺に話しかけないでくれ。それで俺が救われるんだから、簡単だろ?あと、俺、文化祭には出ないから。みんなでせいぜい青春を楽しめよ」
もう、これでいい。
俺はもう、一人でいい。
傷ついたり、傷つけたり、疲れたり、怒ったり。
そんなのはもう、たくさんだ。
黒谷に背を向けて。
俺は歩き出す。
これからは静かに、平穏に暮らそう。
効率よく、手っ取り早く、面倒事を避けて、そして。
自分が楽になる為なら、その努力も厭わないーーーーー。
サボることも、一人でいることも、頑張らないことも、全て。
俺が楽になる為の、努力だ。
ほら。
そうすれば。
ーーーーー簡単に望みが、叶うじゃないか。
高望みをするから、失望する。
欲張るから、間違える。
価値を失った今日を、無駄だと自覚しながら。
希望を失った明日を、無意味だと知りながら。
灰色になった世界の片隅で、俺は今日も、ひっそりと息をする。




