041
俺が確率という名の闇に打ちひしがれていると、戻ってきた白川が声をかけてきた。
「待たせたわね」
「ん?もういいのか?」
「ええ。もう大丈夫」
どこか遠くを見ているような表情で、淡々と白川は答えた。
『大丈夫』という彼女の返答に、俺は少し妙な引っ掛かりを覚えた。
「それより、早くその子から離れなさい。通報されるわよ」
「ちょっと待て、まだ俺を不審者扱いする気か」
「そうじゃないわよ」
白川は嘆息をつきながら言った。
「最近、幼女が事件に巻き込まれるというニュースが連日取り沙汰されているから、例え悪気がないとはいえ、むやみに誤解を招くような行動はやめておきなさい、という忠告よ。今、世間ではその辺のことに敏感な時期でもあるから、行き過ぎた表現は身を滅ぼすわよ」
「そ、それもそうだな」
俺はいち早くちーちゃんから距離をとった。
まあ確かに、白川自身も幼い頃に誘拐未遂に遭っているわけだし、いくら成り行きとはいえ、こういう事件を連想させてしまうような展開は良くなかったかもしれない。
反省だ。
「まあ、身を滅ぼすと言っても、それは作者の方だけどね」
「俺への忠告じゃなかったんだ!」
違った。
全然俺に対する心配とかじゃなかった。
というか、毎度のことながら、そういう発言はやめなさい。
「それにしても、作者も気の毒ね。せっかくロリコンネタを考えていたというのに、規制を恐れて内容を変更してお送りしなければならないなんてね」
「おい!いくら何でもそれはぶっちゃけすぎだ!」
アウト。
完全にアウトだよ。色んな意味で。
こうなってしまっては、もう会話を本筋へ戻せる自信が俺にはない。
誰かこいつを止めてくれ。
「作者って、何のことですか?好きな小説家の話ですか?」
きょとんとした顔で霧野さんが白川の後ろから言った。
そういえば、霧野さんもこの場にいたんだった。
白川の異次元的な発言にツッコむのに精一杯で、すっかり忘れていた。
こんな生々しい話、霧野さんは知らないほうがいいだろう。
「ま、まあそんなところです。それより、話は済んだみたいですね」
「あ、はい。ありがとうございました。それもこれも、灰倉くんのおかげです」
霧野さんは白川よりも一歩前に進み出て、礼と同時に会釈をし、軽く首を傾けながら微笑んだ。
礼儀正しく、真面目さが滲み出ているような女の子。
なんだ、ただの女神じゃないか。
それにしても、霧野さんの顔が思ったよりも近くにある気がする。
この人には、パーソナルスペースというものがないのだろうか。
俺はそれに耐えきれず、半歩退きながら視線を逸らした。
「い、いや、俺は別に大したことは……」
「気をつけて、霧野さん。この男に近づくと、見境なくツッコミを入れてくるから」
ぐいっと、俺から霧野さんを引き剥がすように、間に割って入ってきた白川。
「え?灰倉くんって、芸人さんなんですか?」
なんか普通に真に受けてるし。
「あ、いえ、そういうわけじゃなくて、これは白川の冗談で……」
「何を霧野さんの前で真面目ぶっているのよ。あなたがサボリ魔でツッコむことでしかコミュニケーションが取れない変態野郎だってことは、霧野さんにはもう伝えてあるのだから、変に取り繕わなくてもいいのよ」
「俺の知らない間にとんでもねえことを吹聴するんじゃねえ!」
なんてこった。
こんな真面目で良い人そうな女の子に、そんな紹介のされ方をしていたなんて……。
悪魔か、こいつは。
まあ、自分でも心当たりがあるから、あながち間違いではないんだけど。
「別に、嘘は言ってないでしょう」
「いや、なんかもっとさ、言い方ってものがあるだろう」
「例えば?」
「例えば……、時間の使い方に定評があり(サボり癖)、独自の着眼点で物事を訂正し(ツッコミ)、女性を年齢問わず尊重できる人(変態野郎)……とか?」
「馬鹿じゃないの」
「………」
白川が心底蔑んだ目で俺を見る。
自分で言わせといてそれはないんじゃないですかね、白川さん。
「ふふふ、灰倉くんって面白いですね」
そう言って、霧野さんが口元を抑えながら笑った。
「それに、綾音ちゃんがこんなに喋っているところなんて、初めて見たよ」
「ちょっ、霧野さん、何を言って……」
白川がうろたえている。
これはなかなか貴重な瞬間に立ち会えた。
いつも高圧的なあの白川が、傍若無人なあの女が、霧野さんに対してうろたえているなんて。
もしや彼女、ただ者ではない……!
「ねえたん、これ見てー」
ちーちゃんは霧野さんに向かって、子しろくまのストラップを見せびらかすように言った。
「あれ?ちーちゃん、それどうしたの?」
「おにたんがくれたー」
「えっ!?」
それから霧野さんは俺に何度も頭を下げ、使ったお金は全額返しますと平身低頭だったのだが、流石に全額は気が引けるので、半額の500円とおじさん一体で手打ちとなった。
「あの、だらけぐまの方じゃなくてよかったんですか?」
「はい。私はこれで十分なので。そういえば、綾音ちゃんもだらけぐま好きだったよね?」
「え?あ、そ、そうね。昔は気に入っていたけど、今は別に……」
なんだ、白川もだらけぐま好きだったのか。
こう言ってはなんだが、白川が何か可愛いキャラモノが好きというイメージは全然なかった。
まあ、こいつも年頃の女の子、ということか。
そういう一面は、俺としても意外な発見だった。
「ふうん。じゃあ白川、このだらけぐまとおじさんのストラップ、一個ずつやるよ。男の俺が持っていても仕方ないし、どこかに付けるわけにもいかないしな」
「え……。あ、ありがとう」
なんだこの反応。
てっきり、あなたの触ったものなんていらないわよ、ぐらい言ってくると思ったが、案外しおらしい態度で素直にストラップを受け取る白川に驚いた。
そんなにだらけぐまが好きだったのか、こいつ。
「良かったね、綾音ちゃん」
本当に良かった、と霧野さんは微笑みながら続けた。
「ちゃんと理解してくれる人がいてくれて、安心したよ」
「霧野さん、それは……」
「灰倉くん、これからも綾音ちゃんと仲良くしてあげてください」
そう言って、霧野さんは俺に深々と頭を下げた。
その発言と行動に、ちっとも理解が及ばない俺をよそに、霧野さんは続ける。
「それと、この子の面倒も見てくれてありがとうございます。ほら、ちーちゃんもお兄ちゃんに『ありがとう』は?」
「おにたん、ありがと」
「あ、うん。どういたしまして…」
それはまるで、天使のようだった。
礼節をわきまえた、奥ゆかしい女神と。
純粋無垢で、素直な天使。
何だここは、天国か。
苦労してやっと見つけたダンジョン内のセーブポイントで、HPを全回復したような気分になった。
やれやれ。
俺がロリコンだったら、確実にやられていたぜ。
俺がロリコンじゃなくて、本当に良かった。
「それじゃ、私たちはこれで。あ、そうだ。綾音ちゃん、今度の文化祭、ちーちゃんと一緒に遊びに行くからまたその時にね」
そう言って、二人は手を振りながらエスカレーターを降りていった。
そっか。
文化祭、来てくれるのか。
「白川、一つ聞きたいんだが」
「何かしら」
「フィーリングカップルって、年齢制限はあるのか?」
「……その発想が出る時点で最低ね」
この時俺は、白川の冷たい視線などもろともせず、全力で文化祭に取り組むことを決意した。




