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 何か大事なものを失った人に対して、あるいは、限られた人生の中の数年間という時間を諦めた人に対して、どんな言葉を返せばいいのか、全く、これっぽっちも、思いつかなかった。


 力になる―――――と、彼女に息巻いた自分が、恥ずかしくなる。


 男性恐怖症だとか、素顔を隠すこととか、そういうことではなく。

 白川が抱えていたのは、それによって生じた弊害。

 もっと、心の、精神に近いところの問題。


 分厚いレンズの眼鏡も。

 周囲を遠ざけようとする言動や行動も。

 全て、彼女がこれ以上、失わないための手段に過ぎなかった。


 大事なものの、大きさ。

 それを失うことの、恐怖。


 ―――――人間不信。


 諦めて、捨てることによって、彼女は自己を保った。

 信じられるのは、自分だけ。

 だからこその、『信用』。 


 そんな感情的で、デリケートな問題を前に、俺ができる事なんて、あるのだろうか。


 いや。

 考えるんだ。

 俺が諦めてしまったら、それこそ意味がない。


 何か、俺にできる事。

 俺に……。


「まあ、諦めたと言っても、それはついこの間までの話だけど」

「―――――え?」

「だから、諦めるのを諦めたのよ」

「え……っと、言っていることが全然わからないんだけど」


 諦めるのを、諦める?

 思いもよらぬ急展開に、全然ついていけない。


「これだから微生物は。理解が追いつかないのね」

「俺は微生物じゃない。れっきとした人間だ」

「じゃあ、ただの馬鹿ね」

「普通に悪口じゃねえか!」


 ―――――ふふっ、と。笑った気がした。


「本当に、馬鹿な人」


 いつもの冷淡な空気を纏う彼女とは違い、まるで色がついたように、柔らかな声音で、彼女は言った。


「あの時、眼鏡を壊した日に、思ったのよ。変わらなきゃ、って」


 白川の前向きな言葉に、驚く。


「いい機会だったのよ。過去を断つのに。諦めることを諦めるのに」


 そこでやっと、思考が追いつく。

 それは、過去と向き合い、覚悟を決めた彼女の選択。

 諦めの悪さと、潔さを兼ね備えた、彼女の決意。


「なんで、急にそんな……」

「確かに唐突ではあったけど、私の過去を知らないあなたに、素顔を晒して、自分が思っていることを、自分が思っているよりも吐き出せて、少しだけ、自信というのを取り戻せた気がしたのよ」


 ―――――『自信』。

 ―――――自らを、信じる事。


 もうすでに彼女は、最初の一歩を踏み出していたのだ。


「とは言っても、流石にこの前みたいに騒ぎになっては、まだまだ精神的に余裕があるわけではないけど」


 と、冷静に分析をする白川。


「それでも、クラスメイトの男の子と、素顔の状態で、一対一で対峙しなければならない状況で、素直に会話ができた、と言う事実は、私にとって、ここ数年ではものすごく大きな一歩で、快挙だったのよ」


 人間不信の引き金となった事件と、同じような場面。

 信用と青春を諦めた、きっかけ。


 それは、彼女にしか理解できない進歩で。

 俺にとっては、何一つとして実感のない快挙であって。

 正直、どう反応すればいいのか、リアクションに困る事だった。


「あ、ああ。まあ、なんだかよくわからないけど、よかった……のか?」


 図らずも、あの酷く醜い、毒舌とツッコミの応酬が、知らず知らずのうちに彼女の役に立っているなど、思いもしなかった。


 それにしても。


 こいつ、素直に会話、って言ったか?


「なあ、白川。ちょっと、聞いていいか?」

「何かしら」

「お前、素直に会話って言ってたけど、今まで俺に言ってきた暴言の数々は、本意ではないって事でいいんだよな?」

「素直な会話は素直な会話よ。それ以上でも以下でもない。私がその時思った素直な気持ちを、そのままあなたに言ったまでよ」

「えー……」


 だとしたら俺、今まですげー馬鹿にされてるじゃん。


「あの時、あの場にいたのが、あなたで良かったわ」

「え?それはどういう……」

「童貞は馬鹿だから、乱暴されずに済んだしね」

「お前、そろそろ全国の童貞さんに訴えられるぞ」

「訂正します。灰倉くんが馬鹿で助かりました」


 この変わり身の早さたるや。


「俺なら馬鹿にしてもいいって言うのか」

「当たり前よ。あなたに対しては不思議と、恐怖心なんてものが微塵もないのだから」


 男として、それはどうなのだろうか。

 赤崎先生直伝の護身術と合気道を身につけている白川にとって、タイマンであれば負けないという自信があるのだろうか。

 俺も、舐められたものだ。


「それに、あなたは乱暴するような輩じゃない、ということくらい知っているわ」

「え?それはどういう……」

「だって、この歳で童貞なんて、ヘタレな男に決まっているじゃない」

「よーし、わかった。お前とはいずれ出るところに出て決着をつけようじゃないか!」

「まあ、冗談はさておき、実際のところ、ここまで普通に会話ができるようになって、私はあなたに感謝しているのよ」


 ふん、もうその手には乗らん。


「ありがとう」


 そう言って、彼女は振り向きざまに笑った。


「私が暴言を吐いて、あなたがそれを受け止める。そのやりとりの積み重ねが、私にとって、あなたに対する信用になる」


 階段を降り、すれ違いざまに、白川が言う。


「まあ、私の信用を勝ち取るには、まだまだ全然足りないけどね」


 暗闇を進む彼女の後ろ姿が、少しずつ小さくなる。


 あの毒舌を、容赦ない暴言を、受け止めろって?


 それが―――――『信用』になる。


 全く。


 どうかしている。


「何してるの、早く戻るわよ」


 と、いつも通りの彼女の平坦な声に、ようやく、足が反応した。

 つくづく、滅茶苦茶な女だ。


 いびつで、不恰好で、どこにも当てはまることのない残念な歯車が、たったその一点のみにおいて、噛み合う場所を見つけたかのような、そんな結末。


 結末というにはあまりにも、大袈裟かもしれないが。


 いや。

 むしろ、始まってさえ、いなかったのかもしれない。


 いずれにせよ。

 俺は一呼吸置いて、ゆっくりと、彼女の少し後ろを歩き始めた。

ここで一旦、一区切りとなります。

次話は《これまでのあらすじ》と《これからのあらすじ》になっています。

先展開を知りたくない方はご注意ください。

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