030
何か大事なものを失った人に対して、あるいは、限られた人生の中の数年間という時間を諦めた人に対して、どんな言葉を返せばいいのか、全く、これっぽっちも、思いつかなかった。
力になる―――――と、彼女に息巻いた自分が、恥ずかしくなる。
男性恐怖症だとか、素顔を隠すこととか、そういうことではなく。
白川が抱えていたのは、それによって生じた弊害。
もっと、心の、精神に近いところの問題。
分厚いレンズの眼鏡も。
周囲を遠ざけようとする言動や行動も。
全て、彼女がこれ以上、失わないための手段に過ぎなかった。
大事なものの、大きさ。
それを失うことの、恐怖。
―――――人間不信。
諦めて、捨てることによって、彼女は自己を保った。
信じられるのは、自分だけ。
だからこその、『信用』。
そんな感情的で、デリケートな問題を前に、俺ができる事なんて、あるのだろうか。
いや。
考えるんだ。
俺が諦めてしまったら、それこそ意味がない。
何か、俺にできる事。
俺に……。
「まあ、諦めたと言っても、それはついこの間までの話だけど」
「―――――え?」
「だから、諦めるのを諦めたのよ」
「え……っと、言っていることが全然わからないんだけど」
諦めるのを、諦める?
思いもよらぬ急展開に、全然ついていけない。
「これだから微生物は。理解が追いつかないのね」
「俺は微生物じゃない。れっきとした人間だ」
「じゃあ、ただの馬鹿ね」
「普通に悪口じゃねえか!」
―――――ふふっ、と。笑った気がした。
「本当に、馬鹿な人」
いつもの冷淡な空気を纏う彼女とは違い、まるで色がついたように、柔らかな声音で、彼女は言った。
「あの時、眼鏡を壊した日に、思ったのよ。変わらなきゃ、って」
白川の前向きな言葉に、驚く。
「いい機会だったのよ。過去を断つのに。諦めることを諦めるのに」
そこでやっと、思考が追いつく。
それは、過去と向き合い、覚悟を決めた彼女の選択。
諦めの悪さと、潔さを兼ね備えた、彼女の決意。
「なんで、急にそんな……」
「確かに唐突ではあったけど、私の過去を知らないあなたに、素顔を晒して、自分が思っていることを、自分が思っているよりも吐き出せて、少しだけ、自信というのを取り戻せた気がしたのよ」
―――――『自信』。
―――――自らを、信じる事。
もうすでに彼女は、最初の一歩を踏み出していたのだ。
「とは言っても、流石にこの前みたいに騒ぎになっては、まだまだ精神的に余裕があるわけではないけど」
と、冷静に分析をする白川。
「それでも、クラスメイトの男の子と、素顔の状態で、一対一で対峙しなければならない状況で、素直に会話ができた、と言う事実は、私にとって、ここ数年ではものすごく大きな一歩で、快挙だったのよ」
人間不信の引き金となった事件と、同じような場面。
信用と青春を諦めた、きっかけ。
それは、彼女にしか理解できない進歩で。
俺にとっては、何一つとして実感のない快挙であって。
正直、どう反応すればいいのか、リアクションに困る事だった。
「あ、ああ。まあ、なんだかよくわからないけど、よかった……のか?」
図らずも、あの酷く醜い、毒舌とツッコミの応酬が、知らず知らずのうちに彼女の役に立っているなど、思いもしなかった。
それにしても。
こいつ、素直に会話、って言ったか?
「なあ、白川。ちょっと、聞いていいか?」
「何かしら」
「お前、素直に会話って言ってたけど、今まで俺に言ってきた暴言の数々は、本意ではないって事でいいんだよな?」
「素直な会話は素直な会話よ。それ以上でも以下でもない。私がその時思った素直な気持ちを、そのままあなたに言ったまでよ」
「えー……」
だとしたら俺、今まですげー馬鹿にされてるじゃん。
「あの時、あの場にいたのが、あなたで良かったわ」
「え?それはどういう……」
「童貞は馬鹿だから、乱暴されずに済んだしね」
「お前、そろそろ全国の童貞さんに訴えられるぞ」
「訂正します。灰倉くんが馬鹿で助かりました」
この変わり身の早さたるや。
「俺なら馬鹿にしてもいいって言うのか」
「当たり前よ。あなたに対しては不思議と、恐怖心なんてものが微塵もないのだから」
男として、それはどうなのだろうか。
赤崎先生直伝の護身術と合気道を身につけている白川にとって、タイマンであれば負けないという自信があるのだろうか。
俺も、舐められたものだ。
「それに、あなたは乱暴するような輩じゃない、ということくらい知っているわ」
「え?それはどういう……」
「だって、この歳で童貞なんて、ヘタレな男に決まっているじゃない」
「よーし、わかった。お前とはいずれ出るところに出て決着をつけようじゃないか!」
「まあ、冗談はさておき、実際のところ、ここまで普通に会話ができるようになって、私はあなたに感謝しているのよ」
ふん、もうその手には乗らん。
「ありがとう」
そう言って、彼女は振り向きざまに笑った。
「私が暴言を吐いて、あなたがそれを受け止める。そのやりとりの積み重ねが、私にとって、あなたに対する信用になる」
階段を降り、すれ違いざまに、白川が言う。
「まあ、私の信用を勝ち取るには、まだまだ全然足りないけどね」
暗闇を進む彼女の後ろ姿が、少しずつ小さくなる。
あの毒舌を、容赦ない暴言を、受け止めろって?
それが―――――『信用』になる。
全く。
どうかしている。
「何してるの、早く戻るわよ」
と、いつも通りの彼女の平坦な声に、ようやく、足が反応した。
つくづく、滅茶苦茶な女だ。
歪で、不恰好で、どこにも当てはまることのない残念な歯車が、たったその一点のみにおいて、噛み合う場所を見つけたかのような、そんな結末。
結末というにはあまりにも、大袈裟かもしれないが。
いや。
むしろ、始まってさえ、いなかったのかもしれない。
いずれにせよ。
俺は一呼吸置いて、ゆっくりと、彼女の少し後ろを歩き始めた。
ここで一旦、一区切りとなります。
次話は《これまでのあらすじ》と《これからのあらすじ》になっています。
先展開を知りたくない方はご注意ください。




