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俺は彼女の過去と、それによって生じた問題について、認識を誤っていたようだ。
強姦未遂事件によって、白川は男性恐怖症となり、周囲を遠ざけようとした結果、眼鏡をかけ、印象を変えようとしたのだと思っていた。
が、話を聞けば、乱暴されかけたこと自体は、単なるきっかけでしかなかった。
先生の言葉を借りれば、それは本当に、ただの『引き金』に過ぎなかったのだ。
中学2年の夏休み前、白川はクラスメイトに人気のない教室に呼び出され、告白をされた。
その告白を白川があっさりと断ると、その男子生徒は逆上し、白川に襲いかかってきたのだが、幼少時の誘拐未遂の際に、当時高校生だった赤崎先生に助けられたのをきっかけに、赤崎先生から護身術や合気道を習っていた白川は、苦戦しながらもなんとかその場を逃げ出し、職員室にかけ込んだそうだ。
初めての実践で気が動転していたこともあり、先生たちにうまく説明できず、落ち着いたところで、もう一度説明を試みたが、男性教諭に対して色恋の話や、襲われた経緯など、思春期特有の恥ずかしさも相まって言えなかったらしい。
結果、職員内ではそれほど大きな問題にならないかわりに、生徒間ではたちまち、根も葉も無い噂話として、まことしやかに広まっていた。
「ヤった、ヤってない、男子に色目を使うビッチ、なんて噂が学校中に広まったわ」
そう、白川は呆れたように言った。
他人事のように。
淡々と。
「事件以来、私の周りは少しずつ、変化していった。一部の女子からの影口は目に見える嫌がらせに変わり、男子からの視線は以前にも増して、下心に満ちていたわ」
だから、眼鏡にしたのよ―――――と、白川は続ける。
「コンタクトよりも度数を落としてあるから、余計なものを見ないで済むしね」
分厚いレンズの眼鏡。
素顔を隠す為だけではなく。
見たくないものを、見ない為に。
見えなかったものが、鮮明に見えるようになった俺とは、対照的に。
「何かあれば言ってね―――――と、私の味方をしてくれた子は、嫌がらせに耐えられなくなって転校してしまったわ」
白川に向いていた矛先が、別の誰かに向けられたのだ。
「それは私が、誰かに甘えてしまった結果なの。だから、自分のことは自分でする。他人を、これ以上巻き込まない為に。私は、1人で全部やる、と。あの時―――――そう決めたの」
周囲への、異様なまでの拒絶。
それは、単に男性恐怖症というだけはなく。
他人を巻き込まない為の、彼女の覚悟と意思。
「男性に対しての苦手意識は今でもある。赤崎先生に言わせれば、男性恐怖症ということになるのだろうけど―――――まあ、接触を避けていれば、それほど生活に支障はないのよ」
そう、白川は言う。
確かに、男性に対する苦手意識というのは、先日の先輩たちに囲まれているところをみれば、納得できる。
が、問題はそこではなかった。
小さく息を吸い込み、白川は続ける。
「男性恐怖症、というよりは男性不信……いえ、人間不信、と言うべきかもしれないわね」
感情が、読み取れない。
冷気を帯びた、平坦な声。
自分のことなのに、他人事のように。
同情も、憐れみも、励ましも、必要ないと言わんばかりに淡々と。
―――――人間不信。
彼女は、諦めたのだ。
信じることを。
期待することを。
ようやく、これまで理解できなかった彼女の言動に、説明がついた気がした。
「信じられないのなら、捨てるしかないじゃない。無駄な期待も、報われない友情も、全部」
踠いて、足掻いて、選択した結果。
今まで信じていたもの、築いてきたもの、全部。
捨てた。
年端も行かぬ、女の子の選択。
「そうして残ったのは、私自身の意志だけだった」
『友達』とは名ばかりの鎖。
持たざる者の羨望。
その全てを断ち切るには、自分を変えるしかない。
優れたその容姿を、隠すことで。
誰も巻き込まないように、たった独りで立ち向かうと、そう決めて。
彼女が今、どんな顔をしているのか、俺にはわからない。
背を向け、ただ暗闇を見上げる彼女の心情など、読み取れるわけもなかった。
「赤崎先生が、私のことを気にかけてくれるのは嬉しかった。でも、前にも言ったように、最後に決着をつけるのは私自身なの。中途半端な覚悟で、これまで通りに過ごしてしまえば、きっとまた、私は間違える。そしてまた、大事なものを失う。人生に失敗はつきものだと言うけど、人生を変えてしまうほどの失敗を、そう何度も繰り返すつもりはないのよ」
そして、山の影に沈んでいく三日月を見ながら、彼女は言った。
「だから私は、青春を諦めたのよ」




