五、九尾の過去
「わっちは九尾。稲荷の母から生まれた狐です」
「稲荷って……、神さまのお稲荷さま?」
「おっかあは、たしかに神に違いありません。でも、力があったから神になったわけではなかった。ただ、村人たちがそう勝手に信仰して祀りあげただけ。だども、おっかあはそれを誇りのように思って、妖力を使っていました」
覆水盆に返らず。一度話すと思い出が次から次へと堰を切るように溢れだしてくるのか、男はそれからのことを語った。
彼の母は、村を豊かにしようと妖力を大地に流した。五穀豊穣を授け、村は華やぎ、稲荷たちも重宝された。妖ではなく、神として。
しかし、それも長くは続かない。もともと神の器ではなかった母の妖力はすぐに衰えた。そうして、妖力が少なくなるにつれ、村は再び貧しくなっていった。
「んだら、村人たちは、次第にわっちらを呪うようになりました。このままでは、わっちらはただ人間に利用され、搾取されて死んでしまう。恐ろしくて、わっちは、母を連れて逃げようとしたんです」
だが、人間がそれを許さなかった。母は捕えられ、妖力が枯れ果てるまで神社に閉じ込められた。男も母の身代わりにと幽閉されたが、母に逃がされたという。
そうして彼が神社を出てすぐ、母は神社ごと燃やされた。
「……その憎しみの炎に呑まれるように、わっちは九尾になりました。神社に託されていた思いが放たれ、わっちの力を増幅させたんでしょう。わっちも、人が憎くて、憎くて……、村を焼いて、それからは人を殺すことだけがわっちの生きがいになって。妖の世界が作れたらどれほどいいかと」
九尾の目から、涙がこぼれる。
「なんで……、あの頃は、おっかあと村人と過ごせた頃は、楽しかったのに……」
ただあのときに戻りたい。それこそが、九尾の本音だった。
それから、しばらくして落ち着きを取り戻した九尾は涙を拭いながら、すっかり気を落としていた。
雪はそんな九尾に、もう一度手を差しのべる。
「もう一度、わたしと一緒に生きてみませんか?」
九尾は雪の言葉と手にたじろぎ、眉を下げる。
「わっちにはそんな権利など……。あなたの手をとっても、あの頃には戻れませんし」
「確かに、過去には戻れません。でも、それでも生きていくことはできます。わたしはあなたを殺さないし、もちろん、藜さんたちにも殺させません」
「……どうして、妖を助けるんです? あなたは人と共に暮らし、人の世界に馴染んでいるのに、人を味方しないなんて」
九尾の疑問に対する答えは簡単だ。
「わたしが半妖だからです。人と妖の間に生まれ、人でも妖でもないから」
だからこそ、人も、妖も助ける。そのどちらもを理解し、繋ぐ役目ができるはずだ。
半妖の雪だからこそできる。正真正銘、これが自分自身の価値だ。
雪が誇らしげに笑うと、九尾は狐目を丸めて絶句した。
しばらく黙したのち、九尾は雪が差し出していた手にそっと自身の手を重ね、握る。
「……わっちの完敗です。友人、というのはようわかりませんが、だども、あなたがいれば、なんだか生きていけそうです」
九尾が目を細める。
淡い笑みは無垢で、汚れを知らぬ幼子のようだった。
「藜さんたちも、きっと受け入れてくださいます。火事の始末はしなくちゃいけないし、犯した罪は償わなくちゃいけないかもしれませんけど……、それでもきっと、九尾さんなら大丈夫です」
握った手をほどいて、雪はゆっくりと手を天にかざす。
匣が作られたのは偶然で、それを解除する方法など知りもしなかったが、妖としての本能か、人としての気の巡りか、頭が自然と理解した。
雪は深呼吸して、藜たちがいるはずの世界を、『この世』を想像する。
花国城の見える、城下町の公園。桜の名所として有名な場所。火柱はすでにおさまっていて、きっと穏やかな風の吹くそこで、みんなが雪たちを待っていてくれている。心配そうにしている椿の姿も、悔しそうに歯噛みしている稲穂も、泣く文も、そんな文に寄り添うかまいたちも。
そして、雪が帰ってくると信じてくれる藜も。
それらすべてが、なぜか不思議と想像できた。まるで、目の前で起きている出来事のように脳内で勝手に再生される。
奇妙な感覚だった。
ふわりと体の中から何かが抜けていくような、そんな感覚だ。
空を覆う真白の雲も、空から降る牡丹雪も、一面の雪景色も、やがて泡のように消えていく。溶けるというよりも、小さな光の粒となって上空へ昇っていくように見えた。
足元の雪が土に変わり、立ち込めていた暗雲の隙間から星空が見える。
雪と九尾は、匣から無事に抜け出して元の世界へ戻ってきたらしい。
先ほど雪の脳裏をよぎった映像がそのまま目に飛び込んできて、正夢を見たときのような何とも言えない感覚になる。
違ったのは、九尾を見た椿たちが一斉に攻撃の構えをとったことだろうか。
慌てて雪が九尾をかばうように前に出ると、一人、精悍な顔つきを少しも変えず、微動だにしなかった藜がゆっくりと進み出た。
藜と九尾は、雪が割って入る直前まで互いに互いを殺そうとしていたのだ。
まずい、と雪は両手を広げ、藜から目を逸らさずに立ちふさがる。
藜はそんな雪をじっと見つめ返した。




