二、迫りくる火の手
「火事だぁ! 火事が起きたぞーっ!」
「逃げろ! 背を低くして、煙を吸うな!」
喧騒と逃げまどう人で帝都の中心部は混乱に陥った。
雪と文は、風呂敷から飛び出して風のように走るかまいたちを追って、逃げてくる人の波を掻きわけて火元へ急ぐ。
どうやら、花国城のおひざ元、城下町の公園から出火したらしい。しかも、不思議なことに突然燃え始めたかと思うと、どんどんと火は大きくなっているという。それを確信づけるように、黒い煙が天へ昇っていく様子が遠くに見えた。
妖の仕業に違いない。人々はそう口をそろえて、帝都からの脱出を試みていた。
本当に妖なのだとしたら、間違いなく九尾だ。うかうかなどしていられない。
「キュッ!」
少し先、かまいたちが何かを見つけたと言いたげに鳴き声をあげる。雪と文はその声を頼りに走った。
かまいたちがくるくると木枯らしを吹かせていたのは薄暗い路地裏だった。見ると、足元に焦げた紙が一枚落ちている。
「これは……!」
拾いあげてすぐにわかった。式神だ。それも、椿手製の帝都を巡回している烏の式神。
「どうしてこれが」
「雪! 見よ、他にもあるぞ!」
文が路地の奥を指さす。確かにそこにも、紙切れとなってしまった烏の式神が地面にぺたんと横たわっていた。
火元がこれなのかはわからないが、もしかしたら、九尾に狙われたのかもしれない。
「でも、式神がやられたなら椿さんも気づくかも」
以前、藜と狐火を討伐したとき、式神がボロボロになった、と嘆いていたはずだ。ならば、椿にはきっと今の状況も感じ取れるはず。
「とにかく、火元を探しましょう!」
雪はせめてと式神を着物の内へしまい、煙に向かって走る。かまいたちも風を切るように飛んでいき、文もまた人より他のものに化けたほうが早いと判断したのか、
「わらわは先に行く! 気をつけてくるのじゃぞ!」
と、鳥になって煙へと向かっていった。
「文姫さまとかまいたちさんも気をつけて!」
雪も文たちに手をあげ、先を急いだ。
幸いなことに逃げ遅れた人は少なかったようだ。黒煙に近づくほどに人の姿は減っていき、異様な静けさが辺りを支配している。
ふいに頭上が暗くなり、雪は空を仰いだ。煙が太陽を覆い、日の光を遮っていた。さらには、立ち込めた煙で雲も黒く染まり、重たい曇天が帝都にかかっているようにも見えた。代わりに、夕焼けよりも赤い火が見え始める。夕焼けのように燃えるそれは、帝都を飲み込まんとしていた。
パチパチと宙に爆ぜて舞う火の粉と、帝都全体に漂う煙が雪に向かってくる。
嫌な予感がした。
足を止めてしまいたくなるような、強烈な悪寒が全身を駆け抜ける。これ以上近づいてはいけないと本能が警告している。
だが。
雪は歯を食いしばって呟いた。
「行かなきゃ」
人を脅かす妖がいるのなら、止めなくてはいけない。人の世に馴染めず、苦しんでいる妖がいるのなら、手を差し伸べなくてはならない。
雪自身がそう決めたことだ。
雪は煙を吸わないようにできるだけ身を低くして、着物を口もとに当てる。途中、夕食の支度中だったのか野菜を洗っている桶を見つけて、水も拝借した。
「大丈夫、行ける」
自己暗示をかけるように走る。
やがて、花国城の手前に広がる大きな公園にたどり着いた。城下町のちょうど中心に位置するそこは、春になれば花見の名所として多くの人々が訪れる場所だ。かなりの広さがあり、どこに妖が潜んでいるのかまでは見渡せない。
周囲を警戒して一歩、公園の敷居をくぐった瞬間、ピリッと痛みが走った。
経験的に、雪の体に何度も刻まれたものによく似ている。
「結界? ……じゃない、これは、匣……?」
雪が気づいたと同時、ぶわりと公園全体を大きな暗雲が覆い隠した。
見たことのない大きさの煙は、まるで空をも溶かしてしまったかのように黒い幕を下ろす。
公園全体を閉じ込めるような帳は、まさに匣と同じ見た目をしていた。
圧倒され、雪が呆然としていると
「おい!」「雪さん!」「雪っち!」「雪!」「キュィ!」
一斉に声がかかる。
見れば、公園の前方からは文とかまいたちが、後方からは藜と椿、稲穂が駆けてきていた。
我を取り戻した雪は、雪の胸元に着地した文とかまいたちを抱きしめ、改めて藜たちに向き直る。
同時、藜たちの後ろに広がっていた城下町は、黒幕によって完全に見えなくなった。
雪たちは匣の中に閉じ込められたのだ。
「やってくれる」
藜がニタリと悪魔のような笑みを浮かべる。深紅の瞳は、煌々と怪しげに輝いていた。
椿と稲穂は雪が抱えている鳥の姿の文とかまいたちを見て驚き、硬直した。
「あ、えと……、これは」
雪が説明しようとしたところで、明らかに稲穂の目が吊りあがった。椿もまた、冷たい目で雪を見つめている。
そうだった。雪は、そもそも特訓へ行く前に稲穂と喧嘩別れをしている。椿には何も言わずに出て来たのだ。
怒られて当然……。
謝罪を口にしようとしたとき、
「……もう、心配したんだから! 無事でよかったよ!」
稲穂の口から飛び出したのはそんな言葉だった。
「え……」
見れば、椿も苦笑いを浮かべている。
「雪さんが帰ってきたら、絶対にお説教や思ってたんですけどね。九尾は出るわ、雪さんは妖連れてるわで。わたくしには、一体何がなんだか……、もう、ようわかりませんわ」
「つばきちも? よかった~、オレもマジでぜんっぜんわかんないんだけど。怒る気もうせるっていうか? もう、ほんと意味わかんなすぎて笑うしかないじゃん?」
稲穂は困ったように、藜へ複雑な感情をぶつけた。
「ね、隊長、これどういう状況?」
「説明している暇はない。今は目の前のことに集中しろ」
返ってきた藜の無慈悲な一言に、二人とも諦めたように肩をすくめて業火に目を向ける。
「まあ、たしかに。まずはあれを片付けなあかんっちゅうことだけはようわかりますね」
「同感。ってか、雪っち守んなきゃだし? いっちょ本気出しちゃいますかぁ!」
「ええ、雪さんには指一本触れさせないようにしなければ」
「え?」
「思いっきり暴れられるのって久々じゃない? オレ、なんかワクワクしてきちゃった」
「え、あの……」
式神を取り出してかまえる椿と、舌なめずりをしながら不気味に笑う稲穂は、完全に思考を切り替えたらしい。
しかも、雪のことを守るつもりでいるようだ。
すでに文たちを知っている藜はチラと雪たちを見ただけで、
「死ぬなよ」
と端的に告げた。
ここで気おくれなどしている場合ではないらしい。
(一緒に戦うって、決めたのだから。わたしが、皆さんをお守りするくらいの気持ちでいなくちゃ)
雪は深呼吸して気持ちを切り替える。
雪も、文たちも、真っ赤に燃えあがる炎を見据えてうなずいた。
死ぬつもりなどない。
誰一人死なせるつもりもない。
できることなら、妖も。
「……行きましょう」
雪は炎に向かって手を伸ばす。
戦いの始まりを知らせるように、風が吹き荒れる。
風にあおられ怪しく揺らめいた火柱から高い狐の鳴き声が聞こえた気がした。




