一、ご褒美の甘味と
「ふぉぉお~っ!」
紫色の瞳をキラキラと輝かせた文が、匙でぺしぺしと布顛を叩く。喫茶店の個室に響き渡る音楽を感じるように、布顛がふるふると揺れている。
「素晴らしいのう! そちはこんなよいものを食べたことがあるのかえ? すごいのう! おいしそうじゃのう!」
「ふふ、文姫さま、せっかくですから召し上がってくださいね」
雪がすすめると、文は「もったいないのう」と言いながらそっと布顛に匙を入れる。すくいあげ、慈しむように最後の一揺れを楽しむと、文は匙を口に運んでうっとりと目を細めた。
「くぅぅ~……、なんじゃこれは……! 甘い! うまい!」
妖も食事はとれるらしい。しかも、人と同じ味覚のようである。
雪は冷静にそんなことを考えつつ、自分の皿から布顛をすくって口へ運ぶ。
「ん、おいしい!」
何度食べてもこの濃厚な甘さは癖になる。焦がした砂糖の苦みがほどよく、雪もまたうっとりとしてしまう。
「文姫さま、よかったですね」
「のう! まことうまい甘味よのう! そちのおかげじゃ! 礼を言うぞ」
文は言いながらも二口、三口と布顛を頬張る。小さな口をいっぱいにしながら食べる姿は愛らしく、雪のほうが礼を言いたい気分になった。本来、雪たちが礼を言うべき相手は藜だが。
「こんなよいものを逃すなど、こやつも大馬鹿者よのう」
文は残り少なくなった布顛をちびちびと舐めるように食べながら、呑気に眠っているかまいたちを見つめる。
「かまいたちさんは、甘いものに興味がないのですね」
「というよりも、食を楽しめるのは、わらわのような高貴なものたちだけじゃからの。弱きものは、命を繋ぐために食らうだけじゃ」
「へぇ……」
「そちらの言葉にもなかったか? 妖は人を屠り、人を食らう。じゃが、一定以上の力を持つ妖は人を殺すのだと」
「ええ、ありますが……、それがどう繋がるのですか?」
「簡単じゃ。食を楽しめるようになれば、人など食わずに布顛を食えばよい。じゃから、そうした妖たちは人を食らうためではなく、快楽や憎悪のために人を殺すようになる」
文に言われて、雪はようやく以前聞いた言葉の真意を理解した。
丙種以上は人を食らう。乙種は人を殺める。
これを、藜たちは知能のあるなしで分類していたが、それ以外にも理由があったのだ。
妖も食事はとれるが、文のように味わって楽しむという概念を持つのは上位種だけ。人の味覚に近づくほど、人を好んで食べるわけではなくなる。となれば、乙種や甲種は、人をただ殺せれば満たされる。
「なるほど……」
「もちろん、弱きものも食事さえ取れればよいし、わざわざ人でなくてもよいのだがな」
「そうなんですか⁉」
「草や虫を食べていきているものもおるくらいじゃし、何の問題もないがの」
「それじゃあ、どうして人を?」
「さあの。わらわにもそれはわからんが……、そうじゃな、人の思いから生まれておる以上、人に執着し、縛られてしまう定めなのかもしれんの」
文は、そう言うと、匙にのっかった最後の一口をじぃっと睨んでため息を吐いた。
「なんて、暗い話をしていてはまずくなるの」
「そうですね。では、なにか別の話題を……」
「ならば、そちに聞きたいのじゃが」
雪が話題を見つけるよりも前に、文がずいと顔をよせた。
「あやつのことは、憎からず思っておるのかえ?」
「あやつ?」
「あの憎き男よ。わらわは好かんが、そちがもし気をもっているのなら、協力してやらんでもないぞ? 布顛に免じて許してやってもよい」
「……もしかして、藜さんのこと、ですか?」
「そうじゃが?」
互いに顔を見合わせ、雪と文は同時に首を傾げる。もちろん、雪の疑問は、なぜそこで藜が? ということであるが、文は文で雪に対してなぜ気づいていないのかと言いたげだった。
「眉目麗しい男というのはああいうやつのことを言う、と以前桐吾は言っておったぞ? おなごはそうした男が好きだ、とも。それに、そちはあやつとよく共にしておるではないか。あやつもそちのことは憎からず思っているようじゃし……」
「えっ⁉ いやいやいや、たしかに藜さんはお顔立ちも美しいですし、不器用ながらお優しいかたですが……。っていうか、わたしのことを憎からず思っているというのは、違うような気がしますけど」
雪と文は、先ほどまでの暗さも忘れて言いたいことをぶつけあう。
「そんなわけなかろう! 少なくとも、あやつが笑うのはそちの前だけじゃ!」
「それはたまたまというか、わたしたちが見ていないところで笑っていらっしゃるかもしれませんし!」
「それはそうかもしれんが! じゃが、少なくとも桐吾と一緒にいたときと同じくらい、やつはそちに気を許しておるように見えるぞ! これは絶対にわらわの勘違いなどではない! 間違いないのじゃ!」
「そんな! それはずるいですよ、だってわたしは桐吾さんを知りませんし……」
「ならば、わらわの言うことのほうが正しかろう」
文にフンと勝ち誇った顔をされて、雪は黙りこんだ。桐吾を引き合いに出されては、反論のしようもない。
「そちは、あやつのことが憎いかえ?」
「憎いとか、憎くないとかではなく……」
嫌いではないが、好きか、と言われるとそれはどうだろう。確かに、藜が笑っているところをみれば嬉しくもなるし、もっとその顔が見たいと思う。藜が困っていれば力になりたいし、雪が役に立つならその身を賭す覚悟もある。
だが、それは長治に対して抱いていた気持ちと何が違うのだろう。
雪が戸惑っていると、文は諦めたように嘆息し、匙の上の布顛を見つめた。
「……もうよい。そちが鈍感なのはあいわかった」
「も、申し訳ありません……」
どうすればよいかわからず、ひとまず謝る。文は何やら一人、「こうなったらあやつに」と呟いていたが、それも雪にはよくわからなかった。
「と、とりあえず、食べたら行きましょうか。あまり遅くなってもいけませんし」
恋愛話は苦手だ。早く切り上げるためにも雪は自らの最後の一口を頬張る。文も納得はいっていないようだったが、雪が「また来ましょうね」と言えば、
「それもそうじゃな」
と渋々ながらに布顛を食べ、手を合わせた。
残っていた茶をすすり、二人は喫茶店を後にする。
店を出ると日はすっかり傾いていた。
瓦斯灯に明かりをつけている人たちの姿が見えるほか、軒先にかけられた提灯にもポツポツと火が入っているのが見える。
夕暮れと夜の境、淡く発光する帝都を朧月が照らしている。
「綺麗ですねえ」
「そうじゃのう」
雪たちはそれらを見ながら、馬車の待合所へ向かって歩き出す。
明日からまた頑張ろう、なんて雪が口にしようとしたそのとき――、甲高い鐘が街中に響き渡った。
「何⁉」
それは火事の知らせだった。




