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朧月夜の雪花奇譚  作者: 安井優
月の章

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30/43

十三、雨上がりの風

 夜になると雨音は随分と小さくなった。


 (あかざ)が風呂から戻ってきたら、特訓の始まりだ。


 それまで自由時間を与えられた(ゆき)は、(ふみ)とともに敷いた布団でごろりと転がっていた。


「しかし、帝都とは雅なところよのう!」


 声を弾ませたのは文で、初めて見る外の世界が気に入ったらしい。


「わらわを連れ出してくれたこと、礼を言うぞ! そちのおかげじゃ!」


「こちらこそ。文姫さまがついてきてくださって、わたしも心強いです」


「後は、布顛(プリン)とやらが食べられればのう……」


「それは……、どうでしょう」


 この廃寺ではとても食べられそうにないな、と思いつつ、帰りに寄ってもらえないか聞いてみてもいいかもしれない、と雪は思案する。


 雪にとってもここまでの遠出は初めてで、文と二人で過ごす夜もなんだか女学生のようで嬉しい。


 他愛もない話に花を咲かせていると、突然、文ががばりと身を起こした。


「雪や」


 雪も文につられて立ちあがる。


 文は素早く紙に化けると、雪の胸元に飛び込んできた。雪は文を落とさぬようにしっかりと着物の中へしまい、そっと寝室の戸を開ける。


「っ!」


 縁側の先、寺の裏庭に『それ』はいた。


 暗がりに浮かぶ黄のまなこがギラリと輝き、雪を見止めてニタリと口元を歪ませる。


(あやかし)……!)


 雪が息を飲むと同時、バンッ! 鋭利な音と共に窓硝子(ガラス)が震えた。


 硝子に張りついた黄色い光が雪を凝視している。


「ひっ」


「キュイイイイ……、キュキュキュッ……」


 風を切るように移動してきた妖は、今にも窓を突き破らんとする勢いで体をぶつけた。そのたびに窓がガタガタと揺れる。


 速い。雪は逃げ道を確保しなくては、と隣の部屋の戸を開ける。


 その間にも、窓の木枠は妖によって衝撃を受けており、ミシリ、ミシリと木々の傷む音が縁側には響き渡っていた。


 このままでは窓が壊される。


 雪は素早く寝室へと逃げ込み、反対側の(ふすま)を慌てて開け放った。


 が、逃げるよりも先に窓枠の壊れた音が聞こえる。


 まずいと思った瞬間には、雪の髪が揺れ、頬にかすり傷がついていた。たらりと頬に血が流れる。


「キキッ、キュイ」


 妖の笑声が耳元をかすめ、雪は慌てて臨戦態勢をとる。手をかざし、力強く念じる。


(お願い……! 力を貸して……。神さま!)


 だが、そうしている間にも雪の手はボロボロに傷つけられていく。妖の力が弱いのか、かすり傷ばかりだが、それでも痛いものは痛い。雪は痛みに耐えながら必死に念じ続ける。


 しかし、何度念じても指先にすら冷気の走る予感はない。


「えぇいっ! 曲者(くせもの)めが!」


 しびれを切らしたらしい文が、雪の着物からするりと抜け出した。


「ダメ!」


 雪が制止するも遅く、文がゴウと吹き荒れる風に乗って、妖に向かっていく。


 しかし――、


「文姫さま!」


 スパンッ! と紙は二枚に切れた。どころか、続けざまに、二度、三度と紙が切り裂かれていく。ハラハラと細かい紙吹雪が舞う。


 やがて、細かな紙になった文が床へと散っていく。


「今のうちに、早く……、逃げるのじゃ……」


 文の声もみるみるうちに弱くなる。


「文姫さま!」


 その光景に耐え切れず、雪は勢いよく手を振りかざした。


(どうか、文姫さまを守って!)


 と、指先からぶわりと粉雪が舞い上がり、部屋の気温を一気に下げる。吹雪はうねりをあげ、文をいたぶる妖に向かっていく。姿の見えぬ妖も、視界を覆うほどの白からは逃げられなかったようだ。


 妖の足を這い上がり、体を掴んだ豪雪は、そのまま妖を空へ縫い留めた。


 小雨に濡れていた妖の体が凍りついていく。ジタバタともがいていた妖も、次第に動きを止めた。


 雪もまた、それを見て力を緩める。殺してはいけない。妖も人も同じだと、いがみあい、争うのはやめようとそう決めたのだから。


 雪は力の制御を意識しながら、慣れない手つきで妖の半身だけを凍らせて捕まえる。


 妖は、両手に鎌の生えたイタチだった。


 この妖は、と雪が記憶をたどったところで、


「かまいたちじゃな」


 と文が姿を現し、半身を氷漬けにされて身動きのとれなくなった妖の鼻先を弾いた。


「ギュィッ!」


「文姫さま!」


 かまいたちの叫び声と、雪の安堵した声が重なる。


「大丈夫なのですか⁉」


「ああ、わらわは大丈夫じゃ。雪の力を解放するために、ちと演技をしてみただけじゃ。うまくいってよかったの」


 文はニコリと笑うと着崩れた紙の着物を整えて、かまいたちに向き直った。


「まったく、丁種(ていしゅ)のくせに足だけは速い。(たわむ)れるのも疲れるわ。じゃが……」


 文はかまいたちをしつけるように数度、ポンポンとたたくと雪へ視線を移す。


「そちも、なぜ殺さなかった? こやつは妖ぞ。しかも、そちを傷つけたのに。雑魚(ざこ)だからよかったものの、こやつが悪しき妖であったらどうするのじゃ」


 文にしては珍しく責めるような口調だった。


 だが、雪も決して考えなしだったわけではない。もちろん、本当に文が殺されてしまっていたら、この妖を手にかけてしまったかもしれない。しかし、文が簡単に殺されてしまうような妖でないことは雪も重々承知していたし、なにより、雪は妖をも守りたいのだ。簡単に(はら)ってはいけない。


「この子からは、悪意が感じられませんでしたから。もちろん、怖かったですけど……、でも、それで相手の命を簡単に奪っていては、いつまでも人と妖は交われません」


 かまいたちは、どちらかというと雪や文と遊びたかったのではないか。今ではそう思う。


「まずは、友人になる方法を探してみなくては」


 雪は文に並んで、かまいたちを見つめる。


 すっかり大人しくなったかまいたちは、怯えた目で雪を見つめ返した。


 イタチに似ているだけあって、よく見れば愛くるしい表情だ。


「怖がらせてしまってごめんなさい。でも、これ以上、あなたのことは傷つけません。だから、どうかあなたも人を怖がらないで」


 雪はそっと指を差し出す。じっと辛抱強く待っていると、かまいたちが雪の手をスンスンと嗅いだ。


 冷気に包まれた雪の指先の冷たさに驚き、しかし、雪に悪意がないことも伝わったのか、やがてペロリと雪の指を舐める。


「キュィ」


 鳴き声も相まって、もはや愛らしい小動物にしか見えない。


 雪がそっと指でかまいたちの頭を撫でると、かまいたちは気持ちよさそうに目を細めた。


「文姫さま……! この子、とっても愛らしいです!」


 雪が目を輝かせて文のほうを振り返る。


 と――、


「……何を、している」


 雪が先ほど開け放った襖の向こうから、藜が雪たちを見つめていた。

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